第十八話 はじめての、いえで

 江戸の街にこの冬三度目の雪化粧が施されたその日、火星行きの準備を終えたセレネたちは厚木市にある軍用宇宙港「タカモリ」にやってきた。

 いつまでも哀しみに暮れていてはいけない、とセレネは火星行きを決めた。やるべきことに追われて体だけを動かしていれば、哀しみが和らぐのも早かった。


「お疲れさまです。おばあちゃんによろしく言っておいてください」


 会社専属の運転手にお礼を言い、セレネは送迎車を見送った。忘れてはいけない。彼女は社長令嬢なのだ。


「あー、寒いなぁ、もうっ」


 肩掛け付きの外套を纏っていても、今日の寒さは身に染みる。


「雪はきれいで好きなんだけどねー」


 寒いのはきらいだ。着るものはかさばるし、朝は布団から出られないし。


「あーでも、みんなでお鍋囲みながら、一杯きゅーってやるのは楽しいか」


 引っ越しの準備に追われてそんな余裕は無かった。向こうに付いたら出来るといいけれど。楽しみがひとつ増えた喜びで、えへへ、とだらしない笑みを浮かべた。


「うわー、広いなー」


 地平線を望むほどに開けた土地を、金網だけで区切っただけの大ざっぱな境界線の内側は完全に軍の施設だ。例え金網の内側で人型を着こんだ兵士たちが近所の子どもたちとじゃれあっていようが、週末に行われる機械闘技の勝敗を予想新聞と赤鉛筆片手に、車座になって協議していようが、それは間違いない。

 所轄こそ軍部にある「タカモリ」だが、国を挙げての太陽系進出事業を前に、一般の宇宙港だけでは手が回らない為、終戦と同時に開放された。荷物や人員の検査は厳重になるが、安全性の高さから軍用港を選ぶ者も多い。

 戦争が終わってから毎日、休みなく稼働しているここもまた、離発着場には出発の時を待つ船が無数に並んでいる。

 家財道具一式とカグツチは三日も前に衛星軌道の港、「イエサダ」に送り、これより合流するセレネたちを待ちわびている。火星に安価で早く行くにはそこで大型船に乗り替え、平均で十日間ほど真空の海を旅する。

 問題はウルだった。


「やだ! 火星になんか行きたくない!」


 セレネが髪を切ってから一ヶ月近く経つのに、ウルの心はいまだ頑なだ。

 おだてようが怒鳴りつけようが、絶対に彼女は信念を曲げない。北米に天津人を排斥しようとする執念だけは残っている以上、ウルを地球に置いておくわけにはいかない。

 今日だって眠っているウルを、出雲社のSPたちに頼み込んで誘拐するようにして運んで来なければ、彼女はいつまでも地球にしがみついていただろう。


「お父さんと一緒に……」

「あーもう、うるさいっ!」


 黒服姿のSPの腕の中でじたばたと暴れ続けるウルの口に手ぬぐいを押込み、ロープで両手と両足をそれぞれ縛って宇宙船に連れ込んでシートに押しつけ、シートベルトでからだを固定する。それでもまだもがもがと反抗を続けるが、セレネは運転手に発進を促した。


「ごめんなさい。出してください」


 ふわり、とトビウオに似た小型宇宙船が浮き上がる。引力から解き放たれた船体は静かに真空の海へと旅立つ。トビウオのヒレから流れ落ちる光の粒は反応し終わった推進剤の残骸だ。加速が始まる。船内には押し潰されるような加圧はない。

 窓から見えた地球は、きれいだった。

 江戸湾は青く澄み、白化粧の施された江戸の街並みとのコントラストが目に鮮やかだ。

 自分だって本当は家族や友人との想い出が詰まった地球を離れたくない。だが火星行きを希望したのは彼女自身だ。覚悟は戦前から決まっている。

 ついに千場の家族は面会を認めてはくれなかった。それが唯一の心残りだ。


     *     *     *


 北米軍からの追撃もなく、ふたりは雪深くなり始めた火星に到着した。

 挨拶と働き口を求めて面会した曾祖父冬十郎はセレネに、間もなく運用が始まる第三都市の工房と屋敷を与えた。何の経験も無いです、と一度は断ったが、「お飾りでもなんでもいいから社長の看板背負って、社員たちにおさんどんしてやれ」と告げた。それ以来、どれだけ営業成績が落ちようと、彼は一切の関与をしていない。

 会社と家を与えられたふたりは、十五人の従業員とともにそこで暮らし始めた。

 地球に戻る術も、甘えたい両親もないウルは部屋に引きこもるようになり、セレネは仕事にかまけて中々手を差し伸べることができなかった。

 桜前線が通り過ぎ、うだるような暑さを超え、紅葉の足音が聞こえ始めたその日、第三都市はどしゃぶりに包まれていた。


「はやく晴れてほしいな」


 乾燥機では味気無い。日光に当ててふかふかにしてお日様のにおいを嗅ぎたい。ついつい洗濯物をためてしまうが、あのにおいが好きなセレネはどしゃぶりの曇天を恨めしげに睨んだ。洗濯物を乾燥機に放り込んだら次は昼食の支度。今日の献立は今年最後のそうめん。でも寒く感じるかな、と思案しながら台所に向かう。

 厨房の入口脇にぶら下げてある割烹着を付け、適当な寸胴鍋に水を張って火にかけた。


「こんな社長、宇宙であたしぐらいだよね」


 セレネに経営に関する一切の権限はない。一応、人型の整備免許は持っているし、経理の勉強もしているが、新入社員と大差ないセレネでは足手まといになってしまう。いまは社員たちの時間が空いたときなどに少しずつ教えてもらっている段階だ。

 鍋のお湯が沸騰し始めた。買い置きの乾燥麺を一気に投入。さえばしで中の麺が固まらないように丁寧にかきまぜる。


「しっかりしないと」


 幸いなことに社員たちとの関係は良好だ。こんな小娘が社長だというのに。でも相変わらずウルは部屋に閉じこもってばかりだ。引っ込み思案なのか、それともまだ悲しみにくれているのかは話してくれない。部屋の前に食事をお盆に乗せておけば残さず食べてくれているので、その点だけは安心している。


「ウルちゃんも早く元気になって欲しいけど、難しいかな」


 無理矢理火星に連れてはきたけど、本当にその判断は正しかったのだろうか。やはり天津人の組合か、本社のおじいに引き取ってもらった方が……。


「やめ、やめ」


 ぶるぶると頭を振って悪い思考を追い払う。

 そうこうしている内にそうめんが茹で上がった。よいしょ、と寸胴鍋を担ぎ上げ、シンクに用意しておいたザルにどばっ、と中身をぶちまける。熱々の湯気がセレネの頬を舐めては消えていく。鍋を空にすると蛇口をひねって水を麺にかける。冷凍庫から氷を取り出しては麺へ無造作にかけていく。触れるぐらいにまで麺の温度が下がると袖まくりをし、流水で麺のぬめりを洗う。


「よし、しっかり冷えた」


 流水を止めてザルの中身を氷水の入ったガラスの器に盛りつける。ツユは作り置きのものがあるからそれを冷蔵庫から取り出す。ウルの分だけ別の器によそって準備完了。


「ウルちゃん、お昼できたよ~」


 工房で道具の整備や花札に熱中する社員たちにも声をかけるのを忘れない。

 だが、ウルからの返事はなかった。


     *     *     *


 どしゃぶりの雨の中、五才のウルは宇宙港へ向かっていた。

 地球にいきたい。それだけの思いでウルは宇宙港へ歩き出していた。大人用の傘をバランス悪くさし、オーバーオールと黄色の長靴をはいて、ただひとりで。

 別にセレネが嫌いなわけではない。優しくしてくれるし、あのあったかい、満月のような笑顔が好きだ。

 でも。いきなり火星へ連れてこられたのには納得がいかない。

 火星に来てすぐあの家に来たんじゃない。

 バスに乗ったのは覚えている。

 確か港から飛行機に乗って別の港に降りて、あのお姉さんが運転する車に乗ってこの家にやってきた。


「うん。バスに乗ろう」


 覚えていることを一つずつ思いだし、ウルはまずバス停に向かった。「おむかえに行くの」とバス停にいた老夫婦に乗り場を聞き出して、六才以下無料の特権を生かして港に到着。そこまではよかったのだが。

 ごった返す人の群れに酔ってしまった。

 港はその周辺に商店街や遊園地や映画館や旅館が立ち並ぶ、ひとつの繁華街としての側面も持つ。当然そこに訪れるひとの数も、例え平日であろうと多い。

 ぐるぐる目を回しているところを、一般客から知らせを受けた職員のお姉さんに保護されて迷子センターに連れていかれた。目を回していたせいで抵抗することはできず、道中でお姉さんに根掘り葉掘り訊かれて「じゃあおうちに連絡するからね」とにっこり微笑まれ、ウルの家出は失敗に終わった。

 ひとりはへいきだった。

 迷子センターには自分と同い年ぐらいの子どもが三人いた。

 だが、時間の経過とともに子どもたちは両親や家族に引き取られ、それぞれの場所に帰っていき、新たな迷子はやってこなかった。

 太陽が沈んだころには、ウルひとりだけになっていた。

 迷子センターには積木やぬいぐるみやお手玉などの遊具が所狭しと並び、不安で泣きじゃくる子どもたちの心を和ませるような配慮がなされている。でも、遊び方がわからない。仕方なく幼児番組を流すテレビをぼんやり眺めるが、やはり楽しくない。

 セレネは心配しているだろうか。


「たぶん怒ってる」


 セレネは決して甘やかしているわけではない。特に食事の作法やお残しには厳しく、ご飯粒ひとつでも残せば彼女は容赦せず叱る。

 でも夜中にうなされて飛び起きると、いつも枕元にはセレネが満月のような笑顔で座っている。そして決まってこういうのだ。


『大丈夫。そんなに恐くないよ』


 その言葉をもらえれば、どんな悪夢も影を潜めていた。

 なんでこんなことをしたんだろう。

 後悔がウルの小さな胸を締めつける。

 ぼんやりと眺めるテレビは相変わらず、赤や黄色の巨大な着ぐるみが踊っていた。


『番組の途中ですが、ここで臨時ニュースをお伝えします』


 テレビの映像が突如、深刻な面持ちの弁士に変わった。急拵えのセットの奥では何人も番組スタッフが緊張した表情で行き来している。エプロン姿の職員が何事かと集まってきた。


『……東アジア連合議長が北米との和平交渉の席上で襲撃を受け、軽傷を負いました』


 職員たちがざわめく。自分たちも気になるニュースを投げかけられ、固唾を飲んで画面を見つめる。

 戦前から発足していた東アジア連合は、地球と火星を結ぶ唯一の拠点だ。その長が襲撃を受けたとあれば、職員たちも心中穏やかではいられない。

 弁士は冷静に続ける。


『この襲撃を受け、議長はホワイトハウス他、北米政府の重要施設八ケ所を占拠するよう軍に指示を出し、実行されました。繰り返します。東アジア連合軍が北米政府の重要施設を占拠しました』


 占拠、という言葉を弁士は強調した。


『現在入ってきている情報では、議長以外の負傷者等は出ていない模様です。これにより、北米は東アジア連合の監察下に置かれることになりました。……えー、ここで議長の会見を……』


 女性職員のひとりが、「やっと戦争が終わった」とつぶやいた。事実、この日になってようやく東アジア連合は終戦宣言を発布し、翌週には軍事裁判を開始した。

 そんなこと、ウルにはどうでもいいことだった。大人がなにを騒いでいるのか、ちっとも分からなかったし、セレネに見捨てられたかも知れない、という思いが心を支配していたから。

 お腹がすいた。

 もう帰りたい。

 でも帰れない。

 目に涙が溜る。

 ひとりがへいきだなんてうそだ。

 ぼろぼろと大粒の涙がこぼれ出してきた。しゃくりあげ、大声で泣き出してしまう。いままでおとなしくしていたウルの豹変に、職員たちはぎょっとして駆け寄る。ぬっ、と突き出された手に、


「いやあっ! さわらないで!」


 金切り声で噛みつき、部屋の隅っこにさがってまた泣き始める。あやそうと職員が近寄るが、今度は手近な座布団やぬいぐるみを投げつけて防戦する。どうにかその弾幕を掻い潜ることに成功した職員に今度は、


「やだあああっ!」


 耳をつんざくような大声で反撃した。

 もうこうなっては保護者の到着を待つ以外に打つ手はなく、ウルは放置された。それがまた寂しさを呼び、涙がさらに激しくなった。顔は涙と鼻水でべしゃべしゃになっているが、ウルは絶対にさわらせなかった。

 そのまま、三十分ぐらい泣いただろうか。

 ぱたぱたぱたっ、と軽い足音が近付いてくる。それだけでウルは泣き止んでしまった。 勢いよく障子戸を開け、顔を突っ込んで近くの職員に問いかける。


「すいません! ここに、ウルっていう……」

「お姉さ、んっ」

「ウルちゃん……、よかった……」


 ほっ、と胸を撫で下ろす。びしょ濡れの髪やバイクスーツがぽたぽたと滴を落とす。ウルは両手を広げてセレネに駆け寄る。足元にタックルのごとく抱きつかれても微動だにしない。


「お姉、さんっ、お、姉さんっ」


 濡れた太ももに顔をこすりつけ、何度も何度もしゃくり上げる。

 安堵したのは職員たちも同じだ。ひとりが手ぬぐいをセレネに手渡した。すいません、と受け取り、一つを自分の頭に掛け、別の手ぬぐいでウルの顔を拭く。


「ったくもう……。あ、この近くに銭湯あります?」

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