第十五話 手紙
ウルがいなくなった。
セレネの目の前から。
三年前のあの日よりも辛く苦しい別れの果てに。
セレネはカグツチが浸水し、溺れる前にショウジが助けてくれた。カグツチが最後の力を振り絞って重力膜を維持していてくれたおかげだ。脇腹のケガも出血が多かっただけで内臓まで達しておらず、カグツチの応急処置が迅速だったことも幸いして致命傷には至らなかった。どれだけ彼に感謝すればいいか分からない。
ショウジをサポートしたのはカグツチだった。ハンガーに固定されながらも薬箱や部屋の場所などを鉢金を通して教えていた。その彼もいまはハンガーでスサノオと並んで眠っている。
セレネが目を覚ましたのは翌朝。
ウルが居なくなったことを思い出した彼女は突然暴れ出した。
三年前の、冷たい小雨の降る晩秋の日からずっと、セレネはウルのことだけを考えて生きてきた。ウルの世話をするのはせめてもの罪滅ぼしだ。
ウルが居てくれたからこそ自分はおどけたりだらしなく振る舞えた。そうしていないとあの日の記憶に押しつぶされてしまいそうだったから。
自分のミスでまた親しい誰かがいなくなる。そう考えるとセレネは脳みそが沸騰してなにもできなくなる。自室で大声で喚き散らしながら、塞がった傷口を痛めつけるように部屋のものを投げ散らかし、激痛と発熱で意識を失うまでそれを続けた。
「……落ち着いたか?」
ふたりがいるのは八畳ほどの居間。中央に、黒くて大きい文机が鎮座し、部屋の隅には大型テレビが設置され、普段はここで食事を取る部屋だ。綿のつぶれた座布団にショウジは座り、ずず、と緑茶をすすりながら障子戸の脇に立つセレネを見上げた。
「はい。お見苦しいところを、見せてしまいました。まだ、大丈夫じゃないですけど、冷静にはなれます」
目が赤い。声も枯れ、誰もが目を奪われた黒髪からは艶が消え失せ、べたっ、と垂れ下がっている。だがショウジはそれらには一切触れず、急須から彼女の分の茶を注ぎながら淡々と告げた。
「……了解。状況が状況だ。御影セレネ大尉、あんたはしばらく軍での階級通り、俺の指揮下で動いてもらいたいが、いいか?」
今回の一件をショウジは誘拐事件として扱うことにした。大佐の権限を振りかざして目ぼしい情報があればすぐにショウジの元へ届くようにしてある。軍と警察の境界線があいまいな火星だからできる荒技だ。
荒技、といえば昨日襲撃を行ったフェンリルたち。装者は全員が逃げ出したが、残った機体は軍に連行させて調べさせている。どれだけ情報が引き出せるかの期待などほとんどしていないが、やらないよりはマシだと思えてやらせている。
被害者でもあるセレネを捜査に起用するのは彼も気が引けたが、人手が足りない以上仕方がない。
注いでもらったことに会釈して、強ばった表情でらしからぬ冷たい声で言った。
「はい。あたしも、誰かが手綱を握っててくれると安心します」
機械闘技に参戦登録すると同時に発生する軍属としての義務。それを知った上でセレネはカグツチを駆ることを決めた。ウルにご飯を食べさせるために。そして軍での辛い訓練の日々は、性根が猫と大差無いセレネにさえ「上官の言葉が絶対正義」の精神を叩き込んだ。
かかとを合わせ背筋を伸ばして敬礼する彼女に答礼し、ショウジは仕草で座らせた。そこでやっと彼の前にパソコンが設置されていることに気付いた。
「それ……」
「ああ。ねえさんが暴れてる間に第三都市全部のゲートを洗い出して、連中の動向を調べておいた」
はい、と頷く。自分が彼の立場でもそうするだろうから。
ショウジは頭をがりがりとかきむしり、何故か迷いの表情を浮かべてセレネを見る。
「で、だ。暴れるなよ。連中は第三都市を出たあと、足取りがつかめなくなった」
「うそ、だって、そんな、そんな」
やっぱりだめじゃねえか。取り乱しそうになるセレネの両頬をぺしん、と挟むように軽く叩く。
「落ち着け」
「は、はい」
びっくりしたように何度も瞬きをする。心に生まれた波紋をきれいに打ち消したようだ。
よし、とうなずいてショウジは続ける。
「俺が手配したときはもう、連中は第三都市の網からは逃げていた。またこっちに戻ってくるような阿呆だとも思えんから、他の都市に逃げたのか、まだ建設中の第四か第五都市に向かったのかも知れん。これは連絡待ちだ」
連中が宇宙船で火星圏から脱出した、という最悪の可能性は口にしなかった。港の管制室と軍、ふたつの目が行っている宇宙港および火星圏へ出入りする船の監視の目をくぐり抜けることはほぼ不可能であるし、これ以上セレネの不安を煽っても仕方がないというのも理由のひとつだ。
「……はい」
結局なにも分かっていない。子どものようにうなだれた。
「俺がやれたのはここまでだ。結構大変だったぞ。一日でここまでやるのは」
「すいません」
「気にするな。俺にも責任の一端はあるんだ」
「巻き込んでしまって、なんていっていいか……」
うつむいて恐縮するばかりのセレネの頭をぺしん、と叩く。
「ばーか。あれは俺のケンカだよ。最初にあんたたちを助けた時からな。だから、そんなに背負い込むな」
そのまま髪の毛をかき回す。
それだけで十分だった。
「……………………ごめんなさい…………っ」
そうとしか、言えなかった。
髪で表情は見えないが、肩が小刻みに震えているのでは―。
「あー、ったく……」
少し、迷って。やはり教えることにした。希望になればいいと思って。
「なあ、あの嬢ちゃんから電文があるんだが、読むか?」
肩の震えが止まった。ゆっくりと顔を上げる。不思議そうにショウジを見つめ、
「めーる?」
子どもにはまだ早い物だから、との理由で、ウルには携帯端末を持たせていない。なのになんで、と首を傾げる。少しかわいい。
「ああ。カグツチ宛てだったが、ねえさんは読む権利はあるだろ。……俺は目を通していない。安心してくれ」
思い出した。
あのゴリラもどきが重力弾を撃つ直前、カグツチは電文を受け取っていた。状況が状況だったのでセレネもそれきり忘れていた。
「あ、あれ、ウルからだったんだ……」
呆然とつぶやき、思案する。
「カグツチはな、『セレネが読みたくないのなら、すぐに消去してくれ』って言ってた。嬢ちゃんたち本当は、ねえさんに読ませたく無いんだろうな」
ウルが、電文を。
「どうする? 触りたくもないって言うんなら……」
弾かれるようにショウジに詰め寄り、みっともなく叫んだ。
「読みますっ! 読ませてくださいっ!」
セレネの顔があまりに近く、そして彼女からいいにおいがしたものだから、ショウジは少年のように照れた。
「お、おう」
席を替わり、セレネはパソコンの前にちょこんと座った。モニターにはメールボックスが展開されていて、休眠状態に入る直前にカグツチが転送したメールが未開封のまま表示されていた。
件名は、『セレネには、絶対、見せないでね』とあった。
キーボードに指を置き、そこでまた迷う。
ふたりだけの会話なら、自分が見聞きしてはいけないのだろう。
でも。読んでおきたい。読まなければいけないと思う。
「……ウル、カグツチ。読むね」
小さく詫びて、セレネはメールを開いた。
ショウジは無音で立ち上がり、そのまま席を外した。
『先に、謝っておくね。
カグツチ、いまからあなたを攻撃します。でも、ハッタリの攻撃だから安心して。それで最後にするから、ひとつだけお願いを聞いて欲しいの。
セレネをカグツチごと、海にぶっ飛ばすから、カグツチはセレネを守って欲しいの』
目を疑った。
「……え?」
『あたしは、あの男と一緒にセレネの前からいなくなります。
でもそれは、セレネを守る為なの。あたしはあの男以外にも沢山の連中から狙われていて、あたしがあいつらの所に行かないと、セレネが殺されるの。
でもこの人型、すっごいバカだからさ。
プログラムをいくら書き直してもちっとも言うこと聞かないし、寸法ばっかり大っきくて着心地は最っ悪だし、うまく加減できるかどうか、分からないから。
あたしも、たぶんセレネも気持ちが変になってるから、カグツチにしか頼めないの。
本当はね、セレネがあたしの父さんと母さんを殺したかどうかなんて、どうでもいいの。
でもね、そういう拠り所が無いと、あたしはセレネを攻撃できないし、セレネも諦めないと思うの。
……セレネには言わないでね。セレネに嫌われてないと、セレネはいつまでもあたしを追いかけて来るだろうから。
あたしがいたら、セレネを危険な目に遭わせちゃうから。あたしなんか、居ない方がいいんだから。
でも、セレネだって悪いんだからね。
何があったか、ちゃんと話してくれるだけでよかったのに、あんな意気地なしな顔見せるから、ちゃんと、加減できないじゃないっ。
……ごめん。
あたしがいなくなってもカグツチ、あたしの大好きなセレネを守ってください。
カグツチも、元気でね。
さよなら』
読み終えたセレネは天井を仰いでいた。
あんな小さい子に、こんなにも重い物を背負わせていた。
守る守ると口では偉そうに言っておきながら、何ひとつ守れていなかった。
堪えきれずに、声を上げて泣いた。
捨て犬のように切なく、苦しそうな声で。
ショウジは壁にもたれながら、セレネが泣き止むのを随分長い間待っていた。トイレに行こうかと思ったが、あまりにデリカシーが無いと思い直し、止めた。
「……ったく……」
開けるぞ、とひと言置いてから開けたが、それでもセレネは大慌てで涙を拭って取り繕うとしていた。ショウジはどこからか持ってきた手ぬぐいをセレネに投げ渡し、
「風呂入って顔洗ってこい。さっき俺が沸かしておいたから」
みっともないところを見られた。恥ずかしさでうつむいたまま、無言でうなずく。
「上がったらメシにするぞ。俺が作ってやるから、ゆっくり浸かってこい。傷口はもう塞がってるだろ」
また、無言でうなずき、静かに立ち上がる。障子戸の前で立ち止まり、ぐすぐすとハナをすすりながら、
「あ、冷蔵庫に、ナスとお豆腐が残ってるので、それを使って下さい」
「わかったよ」
しっかりしてやがる。こんなときまで。
ぺこり、とお辞儀をしてセレネは風呂場に向かった。
いくら自分の家であっても、無防備すぎるセレネに対し、ショウジの脳にヨコシマな野望は一切浮かばなかった。
実に悔やまれる。
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