第十話 真夏のぬくもり
ふたりが暮らす家は海が近い。
火星改造の時に溶かして海にした極点の氷は、予想通り豊富なミネラル分を含んでおり、おかげでたった数度魚介類を投入しただけで優秀で豊富な漁場にもなった。収穫時期を迎えた真夜中に縁側から海を眺めれば、星明かりをそのまま落とし込んだような漁火が海岸線で踊っていて、中々幻想的な雰囲気に浸れる。ウルが眠った後、これを見ながら一杯やるのがセレネの密かな楽しみだ。
「んーっ、今日もいい天気ねっ」
黒地に朱で縁取りしたフルフェイスヘルメットを片手に、セレネは大きく伸びをした。明け五ツの日差しが降り注ぎ、彼女の黒髪を一層輝かせる。
「海風が気持ちいいよ、ウル」
ショウジに会いに行くというのに、衣装はいつもの鳶色の作業着。胸元から覗くのは無地の白シャツ。頬紅ひとつ差していないのはご想像の通りだ。
セレネの脇には黒の大型バイクが一台。昨日カグツチのトラックに乗せて一緒に帰宅させている。連中が腹いせにパンクでもさせていたら、と少し心配はしていたが杞憂だった。
「またそんなこと言って、今日もお仕事無いのをごまかさないでよ」
ウルの皮肉にもセレネは動じない。むしろ笑顔を浮かべている。
「気にしない、気にしない。お金なら昨日賞金もらったばかりじゃない」
セレネの笑顔にウルは不満そうだ。
「もぉっ、もったいないじゃない。あんなに立派な設備があるのにぃっ」
十二基ある整備用のハンガーをはじめとして、庭先はトラックの出入りや、修繕の終わった人型の模擬戦をやれるようにと、陸上競技場ほどの広さがある。
「しょうがないじゃない。みんなヴァルハラさんの方がいいって言うんだし」
他の都市でこそ互角のシェア争いをしている出雲機工社とヴァルハラ社だが、第三都市での成績は惨憺たるものだ。
第三都市の正式な稼働とほぼ同時期に工房を建設すると有望な若手踊士を囲い、彼らを使って大々的な宣伝を行ったヴァルハラ社の前に、二十歳そこそこのセレネ支社長はろくな反撃も行えないまま敗北してしまった。
仕方なく社員たちは他の工房に異動してもらい、いまは何人かと年賀状のやりとりがある程度。工房は月に一度あるかないかの整備依頼の為に残してあるような経営状態だ。
「最近はちょびっとだけ増えてるでしょ。それでいいじゃない」
「そりゃ、セレネが王者やって宣伝してるんだもん。増えてくれなきゃ困るよ。いつまでも貧乏工房のそこそこ美人社長なんて言われたくないよ。恥ずかしい」
そこそこ美人社長、の言葉にセレネは唇を尖らせた。
「あたしだって地道に営業とかやってるわよ。でもねー、一回向こうに傾いちゃうと、中々戻せないものよ。それにさ」
「それに?」
「ウルが元気なら、あたしはそれでいいの」
思いがけない言葉だった。
ウルは照れたような、怒ったような顔をして、一度怒鳴ろうとして、やっぱり止めた。
「……ばか。もっと社長さんらしくして、よ」
怒鳴れなかった。
セレネは多分、地球を見ていたから。
―─ずるい、よ。
こんな時だけ、大人になるんだから。
がぽっ、とヘルメットを被る。短いひさしのついた、黄色くて子どもっぽいデザインがウルはあまり好きではない。
セレネはバイクの後部座席にウルを乗せ、第三都市の外周を通る環状道路へ押し出す。中心部からかなり離れたこの通りをふたりが話している間、車は一台も横切っていない。セレネもシートに座り、ウルの両腕が自分の腰に巻き付いているのを確認すると、にやりと嗤った。
いきなりフルスロットル。
「っ!」
首を寝違えそうな衝撃に、ウルは声にならない悲鳴を上げた。
* * *
御影邸から出て、第三都市をぐるっと取り囲む外周道路の約八分の一、百キロほどをバイクで駆け抜けると、第三都市を縦断する主要道路に繋がる。この道路は他の都市へも繋がっているので、毎日明け六ツから五ツ半頃までは恒例の渋滞が発生している。
「さすがにここまで来ると渋滞してるね」
ヘルメットのゴーグルを開け、後ろのウルを振り返るが、
「……いま、話しかけない……でっ、うぷっ」
ぐったりと青ざめていた。
「んー、ウルにはまだ早かったね。試合中に視界を共有してるし、昨日もカグツチで試合してたから、平気だと思ったんだけど」
あはは、と無責任に笑うセレネに、ウルは必死の形相で噛み付く。
「昨日は、カグツチが加減してくれたから、に決まってるでしょ!」
そっか、とカグツチの男気に感心し、セレネは話題を変えた。
「もうちょっと遅く出ても良かったね」
「だから言ったじゃない。こんな時間にお邪魔しても、ショウジさんきっと寝てるって」
そんなの分からないよ、と唇をとがらせ、
「どっちにしても時間はかかりそうね。ウル、休憩所で……」
休む? と訊こうとしたセレネの瞳が、空いている反対車線を走り去るトラックを捕らえた。
―人型搬送用のが五台も? どこかのお金持ちが買いそろえたのかな。
人型の平均全高は一丈。約三メートルの巨体は膝を折り曲げてもまだ大きい。そのため搬送用のトラックはひと目でそれと分かる。
「セレネ、どうしたの?」
シャツのお腹の部分を引っ張るウルの手を優しく撫で、しかし視線は鋭くトラックたちを睨みつけていた。
―あいつ……っ!
最後尾のトラックの運転席に、あのノリスの姿があった。
「しっかりつかまってて、ウル」
うん、とウルが返事をするのを待って、セレネは反対車線にUターンした。アクセルを全開にしたいが、いまそれをやれば、ウルは間違いなく気絶してしまう。加速は滑らかに、減速は緩やかに、安全運転を心がける。
「あたしは大丈夫だよ。しっかり掴まってるから、心配しないで」
シャツを掴むウルの手は少し震えている。もう一度優しく撫でてセレネは指示を出す。「大丈夫。それより、ポケットから携帯端末出してさ、」
「家と工房に鍵かけて雨戸を下ろしておいて、カグツチを起こしておくのね」
聡い子だ。ウルの精確な状況判断がなければ、機械闘技で勝利を掴むことなど到底ムリだ、とセレネは思う。
「うん」がこっ、とゴーグルを閉じ、「復讐とかするような、安っぽい連中だったってこと」滑らかに加速した。
ノリスとはこれまで何度も顔を合わせている。慇懃無礼を絵に描いたような男だが、それでも人型を使うようなことはしなかった。少なくとも昨日までは。そんなにまでして、こんな幼い子をいじめようとする気持ちなんて、セレネには想像がつかない。
「……恐い?」
「へいき。……セレネが、いてくれるから」
うれしかった。顔が赤くなったと思う。だから照れ隠しにこう返した。
「なによ。おだててもお小遣いアップしないからね」
「ちぇ~、ざんねん」
おどけてみせたが、へいきだと言うウルの気持ちも本物だ。ぎゅっとセレネを抱きしめ、頬を背中に押しつけた。
「こら、あんまり強く抱きつかないで」
「うんっ」
夏なのに、シャツ一枚を通しての体温がとても暖かかった。
それがなによりも嬉しかった。
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