生きゆく君と 春を忘れじ
目覚めると、薄暗い天井が目に入った。
体を起こそうとすると、ぐわんと世界が揺れた。吐き気が込み上げ、息を止める。落ち着いたところで息を吐く。
二日酔いだ。
いつの間にか布団で寝ていたのに気付く。
雪子さんは?
物音一つしない部屋。まさか。
僕はくらくらする体を這うようにして動かし、リビングに続く襖を開けた。
舞い上がる埃が陽射しに煌めく。静かな休日の部屋の中で。
雪子さんは、炬燵に入って本を読んでいた。
時折、ぱらりと頁を
雪子さんは熱心に読んでいたが、しかし、その表情は虚ろだった。探し物をしているかのように、ぱらり、ぱらりと頁を繰る。
「雪子さん」
僕の声で彼女は、はっとしたように顔を上げた。表情が戻る。
「晴彦さん。起きてこられたんですね」
「飲みすぎました、すみません。途中から記憶が無いんですが、ご迷惑をおかけしませんでしたか」
「大丈夫ですよ。日本酒は、後できますからねぇ……。付き合わせてしまって、申し訳ないです。私の我儘で」
いやいや、と口ごもりつつ、洗面所に向かう。顔を洗い、水を一気に飲むと少し正気に返った気がした。
雪子さんは台所で何やら苦心している気配だったが、点火の音がして、やがて懐かしい優しい香りが漂った。僕はこどもに戻ったような気持ちになる。
「食べられますか?」
雪子さんが昨夜の夕飯の残りを卓上に並べる。ご飯はまだ胃が受け付けず、差し出された味噌汁だけ受けとる。啜ると、滋養が身に沁みる感じがした。
「お味噌汁は、二日酔いにいいんですって」
微笑む彼女に、礼を述べる。
「私もご相伴していいですか」
雪子さんは再び台所に向かい、「玉子、頂いていいですか」と僕に問う。どうぞと返して時計を見ると、もう昼近い。ずっと食べずに起きるのを待っていてくれたのだろうか。
雪子さんが味噌汁とご飯をお盆に載せて運んできた。こんこん、と玉子を皿に割り入れると、こんもりした黄味が現れた。醤油をたらりとかけ、嬉し気にぐるぐるかき混ぜる。ご飯の窪みに流し入れ、そのまま手早く混ぜると、茶碗ごと
「美味しい」
なんだか僕まで笑ってしまった。
「すみません、待たせてしまって。お腹空いたでしょう」
「いいえ。あの、そういえば、勝手にご本を借りてしまってたんです。夢中で読んでて…無断ですみません」
「構いません。何を読まれてたんですか?」
何気なく尋ね、見せられた背表紙。
小川洋子氏の、「凍りついた香り」。
突然亡くなった恋人。調香師の彼が作った香水「記憶の泉」を手掛かりに、彼が少年時代に訪れた異国を彷徨う主人公。
孔雀の洞窟から漂う「記憶の泉」。秘められた彼の記憶。彼の想い。
ラスト。彼の死後、初めて彼女は彼を想って泣く。静かに頬を濡らす彼女に寄り添うチェロの音色。風に揺れるポピー。
「読み終わりましたか」と尋ねると、彼女は頷いた。感想は聞けずに、静かな彼女の横顔を見つめる。
淹れてもらったお茶を啜る。同じティーパックなのに、彼女が淹れたお茶には心地よい渋味があった。ざわざわした心が、ゆっくりと静まっていく。
今日の雪子さんは、初日に来ていたきなりのワンピースだ。
「お嫁に行く時、母に持たされたものです」と言っていた。
「戦争が終わったら、これを着て夫婦で出掛けたらいいわって、母が。私が雪人になって家を出たら、お米に変えられちゃうと思って、着て出たんです」と。
今日が終われば、また彷徨うのだろう。
「どこか、行きたいところはありますか」
最後に、という言葉は飲み込む。
雪子さんはそっと微笑んだ。
「晴彦さんが好きなところ」
「は?」
「晴彦さんが好きなところに、連れていってください」
薄明かるい昼下がり。雪子さんは向かいで平和にお茶を啜っている。思案に暮れる僕を、悪戯っぽく眺めながら。
「きゃあぁぁぁ!!」
雪子さんの悲鳴が
打ち出される白い球。時折遠くで、ずばん、かきんと小気味良い音がする。
この街のバッティングセンターは、程よく寂れている。色褪せた看板。人はまばらで、受付に座った初老の男性は熱心に雑誌を繰っている。
「晴彦さん、これ、なんで打てるんですか」
雪子さんはガチガチに固まっている。僕は苦笑し、「もう少し、力を抜いてもいいですよ」と声を掛けた。雪子さんに代わって再び打席に立つ。
「タイミングを合わせて振るんです。最初は、難しいですけど。1、2、3で打つ」
体に伝わる心地よい振動。白い球を見送って、雪子さんが小さく拍手する。
いち、に、さん。雪子さんは口の中で呟きながら、スイングを重ねる。体がほぐれてきた。バットに球がかする。雪子さんの瞳が輝く。やはりというべきか、雪子さんは負けず嫌いだ。僕の存在など忘れたかのように球を見つめ、一心にバットを振っている。
バットを球に当てる。それだけなのに、その人が表れる。面白いものだと思う。
人が生きている限り、そこには想いが表れる。
海稲の言葉が過る。
バッティングセンターに僕を連れて来たのは、父だった。
「思い切って、振ってみろ」
こどもの頃、よく父に言われた言葉を思い出す。
僕は臆病なこどもだった。最初の一歩はなかなか踏み出せなかった。バットを振るのも躊躇った。僕の後ろに転がっていく球に、途方に暮れた。
父は「いち、に、さん、だ」と声を掛け、しかし多くは指導しなかった。じっと、後ろで僕を見つめていた。
遂にバットが球を捉えた時、飛んでいく球と一緒に、心のもやもやも飛び去った気がした。振り返ると、父は目を細めて笑った。くしゃくしゃと、僕の頭を撫でた。
父は、何を思いながら僕を見ていただろう。
一人暮らしを始めた街で、時折僕はバッティングセンターを訪れた。かきん、かきんと、僕自身を打った。
かきん。
雪子さんのバットから、小気味良い音がした。そのまま振り抜く。球は放物線を描いて飛ぶ。
「きゃあぁぁぁ!」
歓喜の声をあげ、雪子さんは万歳した。満面の笑顔で振り返る。
僕は彼女に拍手を返す。
青空の手前で、球はネットに絡めとられるけれど。
いつも、そのまま飛んでいけばいいと願っていた。今もそうだ。今朝の彼女の虚ろな瞳を思い出す。
青空の果てまで、飛んでいけばいいと思った。
「楽しかったです!」
雪子さんは朗らかに言う。よかった、と僕も呟く。夕飯の買い出しに、そのまま商店街に立ち寄る。年月を経た店並みは、どこか懐かしい。路地裏を猫が駆け去ってゆく。
つい、と彼女の視線が逸れた。その先を追うと、ショーウィンドウ。硝子越しに見える、いかにも手作りの素朴なケーキ。
雪子さんは吸い込まれるようにそれらを見つめ、しかし視線を切り替えて歩き出した。僕は吹き出しそうになるのを堪える。
「寄って行きますか」
彼女は勢いよく振り返り、そんな自分を恥じらうように目を伏せた。僕は笑ってしまう。
店内には、狭いながらも椅子とテーブルが置かれたイートインスペースがあった。厳選したケーキを見つめ、雪子さんは恐る恐るフォークを口に運ぶ。瞳が大きくなる。
彼女は無言で頷いた。抑えられない様子で、何度も。
ありふれた苺ショートが、
「美味しいですね」
僕の声に彼女が頷く。静かな昼下がり。僕達はゆっくりと、幸福を味わう。
西陽が差す台所。雪子さんは小さく歌を口ずさんでいる。
菜の花畠に 入日薄れ
見渡す山の端 霞ふかし
僕は炬燵で彼女を眺めながら、さっきまでの二人の記憶を辿る。
アパートに戻ると、夕暮れだった。いつもは気付けば夕闇が広がっており、夕暮れはぽっかりと抜け落ちている。久々に見る茜雲。赤い夕陽は、ごくゆっくりと、しかし確実に沈みゆき、月を連れてくる。夜に包まれる。
あぁ、一日が終わるのだと思った。
カンカンと階段を上りながら、目の端に映った野の花。
小さなナズナは、冷たい風の中で、すっくと立っていた。
沈みゆく夕陽がひとすじの光を投げて、それは輝くようだった。美しく、きらきらと。
春風そよふく 空を見れば
夕月かかりて にほひ淡し
雪子さんと出会って、考えていた。
今日一日ずっと、想っていたこと。
「お待たせしました」
雪子さんが食卓に鍋を運んできた。
鍋敷の上に着地させ、重い蓋を開ける。途端に立ち上る湯気。ふっくらした団子と、具沢山の野菜、鶏肉。醤油のいい匂い。
「美味しそうですね」
ふふ、と雪子さんは笑う。故郷の味なのだと言っていた。小麦粉で作った平たい
遠くから彷徨って来たんだなと思う。
「お祝いの席で食べたりもするんですよ。お家によって、具も違ったり、醤油仕立てだったり味噌だったり」
よそってくれた椀を受け取り、雪子さんの向かいの席に置く。雪子さんは戸惑うように僕を見た。僕は席を立ち、もう一膳箸を用意する。昨夜の日本酒と、お猪口代わりの小鉢も。
「こちらは、あなたのご主人の席です」
僕は彼女の横に座る。無人の席に目礼し、目の前の料理に手を合わせる。
「この料理も、ご主人との思い出の料理だったんじゃないですか」
雪子さんは黙っていた。やがて静かに、向かいの小鉢にとくとくと酒を注いだ。
柔らかな
食事の間、雪子さんは黙りこくっていた。説き伏せて僕が夕餉の片付けをし、戻ると、依然として向かいの席を見つめていた。
雪子さんが、ぽつりと呟いた。
「あの日も、団子汁を作りました」
虚ろな瞳。僕は黙って彼女を見つめる。
「お義母さんと私、方々駆け回って、具材を集めて。お義母さんは、あれが無いこれが無いってこぼしながら、料理していました。みんな実家に集まって…あの人を囲んで」
雪子さんの表情は動かない。
「みんなが、あの人に何か、勇壮な言葉をかけて、あの人は笑って頷いていた。私はだんだん堪らなくなって、途中で家に帰ったんです。具合が悪い振りをして」
「一人になったら、涙が止まらなくて……これじゃいけないって……布団に隠れて」
「そのまま、泣き疲れて眠ってしまって……気付いたら、あの人が帰ってきてた。でも」
雪子さんはぽつんと言った。
「あの人の顔を見たら、泣いてしまいそうで。私はそのまま寝た振りをしたんです。あの人は、何も言わなくて」
「朝がきても、あの人はいつものように穏やかで……私は俯いたままで。そのまま、あの人は行ってしまった。私はみんなと一緒に、万歳をして送り出してしまった」
「何も言えなかった……最後まで」
雪子さんは固まったまま、空白の席を見つめている。
「あの人が、もう帰ってこないと分かってからも……あの人のことは、話せなかった。あの人にもう会えない哀しみも、後悔も、怒りも、語れないまま……あの人の存在は宙に浮いたようだった」
「ただ、その哀しみと共に居たかったんです。突然いなくなってしまったあの人、何も言えずに送り出してしまったあの人と、一緒に居たかった。だからきっと、私は雪人になったんです。でも」
雪子さんは、ゆっくりと僕を見た。
「本当は、彷徨ううちに、あの人の記憶は薄れて……哀しみだけ、残って。あの人との日々は、彷徨った歳月に比べて、あまりに短くて……儚くて」
雪子さんは途方に暮れたこどものように見えた。
「私はこのまま、彷徨うのでしょうか」
小さく、掠れた呟き。
「私と一緒にい……て下さいますか」
逝って?
生きて?
どちらでも、構わないと思った。
「いいですよ、雪子さん。僕はあなたといます」
雪子さんの凍りついた瞳。
「あなたがまた、凍りついて彷徨うとしても、たとえ僕が雪人になったとしても、僕はずっとあなたといる。二人でいたら、何かが変わるかもしれない。僕との日々に、あなたの哀しみを織り込んでいけばいい」
これが、最後なら。
「あなたの、本当の名前は?」
しばらく間があった。
「……千秋」
僕は立ち上がって引き出しから取り出したものを卓上に置き、彼女の向かいの空白の席に着く。
真っ白な便箋。
ペンを手に取る。想いが入り交じり、熱を帯び、出口を求めて疼く。
伝えることが許されなかった、彼女の想い。
彼の想い。
僕の、想い。
万人に届かなくても、いい。
ただ一人に、響けばいい。
彼女は、黙って僕を見つめている。
どうか、最後の
祈るように、一心に。
綴った想いを差し出す。受け取った彼女は、畏れるように固まっていた。それでもゆっくりと、便箋を開いた。
千秋。
死を目前にした恐怖も、無念も、私の中に渦巻いている。それでも、私は最後まで、千秋との変わらぬ日々が過ごせたことを、ありがたく思う。
その日が来るのを指折り数えながら、自分の人生を、一つずつ思い返していた。
親を残して逝くことを諦め、友との別れを諦め。一つずつ、手放していった先で。
諦められなかったのは、千秋のことだった。
千秋と共に過ごした日々。何気無い日常が、甦る。それは短くとも、私の中に刻まれている。
私は自分の中に、
共に、生きたかった。
千秋が涙を堪える姿を知っていた。
涙を堪えて微笑む分だけ、千秋の想いを受け取った。
私は最後まで、その想いを抱えて生きる。
私は、空に還るよ。
千秋が見る朝焼けに、あたたかな陽射しに、茜雲に、星の瞬きに、私はいる。
傍にいる。
千秋が心から笑える日がくることを、願っている。
雪子さんは動かなかった。
やがて、そっと手紙を胸に抱いた。
「
固まっていた瞳から、
刹那、僕は生まれて初めての衝動を感じた。
嵐の中で、一途に船を繋ぎ止める杭を打つ、漁師のように。
天敵が待つのを知りながらも、故郷を目指して激流を登る鮭のように。
初めて我が子を胸に抱いた母親のように。
分かち難く、一つになりたい。
僕はその想いのままに、彼女を抱き寄せた。華奢な背中に手を回した。強く。
彼女は一瞬身を震わせたが、やがて僕の背中にそっと手のひらを重ねた。
後に残されたのは、記憶の断片だけ。
月明かりに浮かび上がる、本当の姿の彼女。
ぎこちなく触れた唇。
重ねた肌から、直に温もりを感じた。
彼女に流れる赤い血潮。
あたたかい。
彼女の洞窟。
奥で揺らめく、
滴の音が静寂に
敬虔に僕自身を捧げる。慈しむように。
天を仰いで、彼女が喘いだ。自身の指を組むかのように、彼女と指を絡める。
そのまま、二人、
空に向かって、祈るように。
決してひとつになることは叶わない、どんなに願っても真に分かち合うことはできない、僕たちの生が。
僕と彼女の血が、想いが、ひとつに融けてゆく。
炎が、燃え上がる。
彼女の瞳から零れ落ちた泪を、そっと拭う。熱い手のひらを重ねる。強く、強く。
もう離れないように。
ひんやりとした冷気に、漂っていた意識が覚醒する。
ゆっくりと目を開ける。布団から飛び出た右手は冷たいけれど、布団は僕の体のあたたかさに満ちている。左胸に手をやると、どくんどくんと力強い鼓動を感じた。
僕は、生きている。
そっと傍らを見る。
そこに居るはずの姿は、無かった。
僕は身を起こし、窓に駆け寄る。カーテンを引き、窓を開け放つ。息が白く凍る。
視界一面に飛び込んだのは。
天からふわふわと舞い降りる、清らかな想いの結晶。
三月の、名残雪。
夢現に聞いた声が甦る。
「ありがとう」
雪子さんの、柔らかな笑顔。
僕は弾かれるように居間に向かった。
頬を伝うものを、拭いもせず。
猛烈にパソコンを立ち上げた。画面が現れるまでの間がもどかしい。深呼吸する。
ネットに接続し、諦めていた世界の前に立つ。
僕自身の、真っ白な世界に向き合う。
怯んだのは、一瞬。
僕は迷いながら、でも浮かび上がる想いを捕らえる。僕の指は、縦横無尽にキーボードを走る。推敲は後だ。今はただ、この想いを打ち込むだけ。
僕の生を。
彼女の生を、刻む。
それは、生まれることができるだろうか。
人知れずとも。
ひとすじの光を受けて、輝くだろうか。
一時保存しようとして出来ず、タイトルをまだ入力していなかったのに気付いた。
心に浮かんだ言葉を紡ぐ。
『三月の雪女』
「これでいいですか、雪子さん」
優しく降りしきる雪の中で。
ころころと鈴を振るような彼女の笑い声が、空に響いた。
(「朧月夜」作詞 高野辰之、作曲 岡野真一
一部抜粋 )
〈了〉
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