胸の哀しみ 織り込んで

僕は大学の講義室で、遥かな薄曇の空を眺めていた。今朝も、外の空気はしんと冷え込んでいる。

教官が読み上げる仏詩が響く。


時こそ今は水枝さす こぬれに花のふるふころ

花は薫じて追い風に 不断の香のに似たり


僕はペンを玩びながら、今朝の雪子さんとのやりとりを思い出す。


「これで、当座の身の回りの物を揃えてください」

財布から差し出したお札に、雪子さんが目を見張る。

天は人の上に人を作らず。お札の人物は僕を鼓舞するように頷く。雪女も、人といえば人だろう。思わぬ出費は痛いけれど。

「頂けません。居候の身で、このような大金など」

「でも、今日の着替えも無いのでしょう。男ならまだしも…」

雪子さんは途方に暮れたように俯く。不似合いなジャージの余った裾を、無意識にいじりながら。


それまで半分妖のように思っていた彼女が、生身の人間として現れたのは、風呂から上がった時のこと。

「いいお湯でした。ありがとうございました」

朗らかな声に何気無く振り向いた僕は、絶句した。

濡れそぼった黒髪、上気した頬。寝間着代わりに貸したジャージはサイズが余り、華奢な体つきが反って強調されるようだ。

犬猫を預かるような気持ちでいたが、人間の、しかも女性だったと……今更ながら僕の中の何かが覚醒する。

ドライヤーの使い方を教え、雪子さんが髪を乾かす間に呼吸を整える。

「奥の布団を使って下さい」

「晴彦さんは?」

「僕はここで寝ます、大丈夫ですから」

物言いたげな雪子さんを、半ば強引に奥の部屋に追いやる。炬燵に入って嘆息した。頓挫していた小説を引っ張り出す。すぐには、眠れそうに無い。


日や落入りて溺るるは、こごるゆふべの血潮雲

君が名残のただ在るは、ひかり輝く聖体盒せいたいごう


上の空のうちに、講義は終わった。昼食をとりに食堂へ向かう。

雪子さんは、無事買い物に行けただろうか。手頃な衣料品量販店までの地図を書いて渡したが、小首を傾げてじっと眺めていた。男が一緒では買いにくいものもあるだろうと遠慮したが、付き添えばよかったか。雪女だということを差し引いても、どこか浮世離れした人だ。迷子になってないかな。


「晴彦」


僕の行き場の無い思考は分断される。

海稲かいねだった。伸びすぎた後ろ髪、着古したジーンズ。わざわざ僕の隣に腰を降ろす。盆に載ったスパゲッティが、僕とお揃いだったのに困惑した。大学の人気メニュー、鱈子にツナに塩昆布、絡んだ玉子、隠し味のマヨネーズが絶妙。

「今度、合宿あるんだ。来いよ」

海稲はさも当然のように言う。出会った時からだ、迷いもせず僕を下の名前で呼んだ。旧知の仲であるかのように。

「行かないよ。映研の手伝いはもうしない。バイトしたいし」

「お前、単発バイトばっかりだろ。暇は作るもんだ。俺の新作、手伝えよ」

映研こと映画研究会は、海稲が所属するサークルだ。一度、断れずに撮影を手伝った。それからずっと声を掛けられる。

「手伝いなら他の奴の方がいいよ。僕は映画のこと、よく知らないし」

「他の奴に声掛けていいのか」

海稲が僕を見ている。この瞳が苦手だ、と思う。強い光。眩しくて目を反らす。

僕はスパゲッティを飲み下し、無言で席を立つ。


学園祭で、海稲の撮った作品が上映されていた。海稲に強引に誘われた僕は、しかし簡易なスクリーンに惹き付けられた。

安く抑えるためもあるのだろう、舞台は大学で、役者も素人同然の同級生だ。海稲のことだから奇抜な作品だろうと思ったのに、それは淡々とありふれた僕らの日常を描いていた。

それなのに。

映し出された世界は、美しかった。

木漏れ日の中で、女子学生が歩いていた。長い髪がさらさらと揺れて、彼女の独白は空に溶けてゆくみたいで、振り返って笑ったけどその瞳があんまり淋しくて、僕まで切なくなった。切り取られた一瞬が、刻まれていた。


どうやって、こんな世界を作ったんだろう。


海稲に誘われ、現場で手伝った。

カメラを回す海稲は飄々としていた。独特の空気が彼を包み、それは波みたいに広がって、海になる。みんな魚に還って、気持ち良さそうに泳いでいた。静かに、その世界に向き合っていた。

僕は海稲に背を向けた。強い光が、眩しくて。


アパートの階段を上りながら、ふと思った。

考えてみたら、あの身の上話を除いて、雪子さんの出自は不明だ。部屋はもうもぬけの殻で、間抜けな僕が一万円騙しとられただけ、という展開もあり得るのだ。

ゆっくりと鍵を回す。


「お帰りなさい」


台所から声がした。ひょいと見やって、息を呑んだ。


雪子さんは、一変していた。


大輪の花が咲き誇るワンピース。長い髪はシュシュでまとめられ、白いうなじが露になっている。


「どうしたんですか、それ」

呆けた僕の呟きに、雪子さんは嬉々として答える。

「教えて頂いた道の途中で、市が立っていたんです。皆さん親切でしたし、お安くって。これもよかったらって、つけてくださったんですわ」

この髪止め、とシュシュを指差す。

市。おそらくフリーマーケットではないか、と思う。途中の広場で、定期的にそんな催しがあった気がする。行ったことはないけれど。

「あんなにたくさん、物が溢れているなんて。好きなものを選べるって、楽しいことです」

しみじみとした呟きに、僕は返す言葉を探して口ごもる。

と、雪子さんがこちらを振り向いた。

「夕餉の買い物もしてきたんですけれど…」

見ると、ボール代わりの丼に切られた野菜が盛られ、コンロには水を張った片手鍋が乗っている。

雪子さんは、頬を淡く染めて俯く。

「どうしても、アレが使えませんで……。晴彦さん、お願いできますか?」

僕は苦笑した。コンロに歩み寄り、火を点ける。雪子さんが、嬉しそうに拍手した。


「いただきます」

目の前に並んだ料理に、手を合わせる。

豆腐と葱のかき玉汁。さわらの塩焼き。キャベツの浅漬け。菜の花のお浸し。

質素な二人の食卓は、あたたかだった。

さわらは優しい味わいだった。シンプルに塩で美味い。魚など自分ではまず調理しない。ゆっくりと味わう。

キャベツの甘味に驚くと、雪子さんが「旬ですから」と笑った。これが旬ということか、と思う。

菜の花は摘んできたのだと言う。戦時中は食べ物が不足していただろうから、珍しいことではないのだろうか。恐る恐る口に含むと、ほろ苦い春が広がった。

「美味しいです」

豆腐のあたたかさが嬉しい。雪子さんは向かいで静かに微笑む。

「よくスーパーにたどり着きましたね。地図に無かったのに」

「お家の近くに、商店街がありましたから」

僕は素通りしていた商店街を思い浮かべる。心なし野菜がスーパーのものより生き生きしている気がする。

今度行ってみよう、と思った。


「それにしても、お金よく足りましたね。ちゃんと必要なもの、買えましたか?」

食器を流しに運びながら声をかける。背後で、雪子さんが改まった気配がした。

振り返ると、何故か正座して僕を見つめている。

「……どうかしましたか」

僕までつられて正座してしまう。雪子さんは重々しく口を開いた。

「晴彦さん。自分で言うのも何ですけど、私、かなり節約したつもり、なのですわ」

お札の皺を伸ばしながら僕の前に置き、硬貨を並べ、領収書を添える。

「晴彦さんの、大事なお金ですもの。それは十分、承知の上で」

ですから、と言葉を継ぎ、どんと卓上に、ある物を載せた。

「……どうか、許して頂けませんか」

僕は呆気にとられて、彼女の顔と、目の前の物体を見つめた。

美しい緑がかった硝子の瓶。中で透明な水面が揺れている。

日本酒であった。


こうして僕は、雪女と差し向かいで日本酒を酌むことになった。

お猪口なんて気の効いたものは無くて、小さな白い小鉢に注ぐ。

手にとると、底に描かれた薄紅色の花が揺れた。

清冽せいれつな芳香。

八海山。魚沼の酒だと、雪子さんは言った。

「主人が贔屓にしていたお酒なんですって。二人で飲むことは、出来ませんでしたけど」

僕が初めて飲む日本酒だった。思っていたよりまろやかで、ふわりと酔いが広がった。

目を伏せた雪子さんの、肌の白さは変わらない。すいすいと杯を重ねる彼女。戦時中は酒などそう無かっただろうが、どうも飲み慣れている感じがする。

「ご主人、どんな方だったんですか」

一瞬、間があった。

「いつも、黙って私の話を聞いてくれました。他愛ない話に、微笑んで相槌を打ってくれた。私、お義母さんからは、そそっかしいとよく叱られたんですけれど。主人は、楽しいと言ってくれました。お前のすることは予想もつかなくて、楽しいと」

「優しい方だったんですね」

雪子さんは頷いた。頷いたけれど、僕は彼女の虚ろな顔が気になった。いつものくるくると変わる表情は抜け落ちて、人形のような無表情だった。


彼女の優しい夫は、過酷な戦地で何を見たのだろう。

笑って彼を送り出さねばならなかった、行き場の無い彼女の哀しみを思った。


「晴彦さんは、大学で何を学んでおられるのですか」

それ以上の介入を拒むかのように、雪子さんは会話の矛先を変えた。僕もそれに乗る。

「文学部に在籍していますが、まだ専攻は決まっていません。一般教養…いろんな学問を一通り噛っている、というところですか」

彼女の瞳が輝く。

「文学部?では、物語を書かれるのですか?私、物語が好きなんです」

無邪気な問いが刺さった。慣れぬ酒のせいか表情が繕えず、向かいの彼女の顔が強張ったのが、写し鏡のようだと思った。

「……僕は、書けません。僕は、何者でも無いんです」


僕は例の如く誘いを断れず、海稲達と撮影の打ち上げの場に居た。

僕は皆の輪に入れず、ぼんやりとグラスを傾けていた。

「晴彦、おつかれ」

海稲は僕の沈黙は意に介さず、グラスを合わせた。少々酔っていたらしい彼は、そのまま座り込み、思案中の脚本について語った。

「僕なら、そうはしない」

酔いも手伝って、普段なら出ない言葉が出た。自信に満ちた海稲が眩しくて、しかしどこか癪に触ったのもあったかもしれない。

いつもは鳴りを潜めている僕が、目を覚ました。

海稲は遮らずに僕の話を聞き、ビールをあおった。彼は2、3質問をし、僕は少し考えてそれに答えた。そのまま海稲が黙りこんだので、怒らせたのかとひやりとしたが、彼は不意に顔を上げた。


「お前、物語を持っているだろう」


僕は瞠目して海稲を見つめた。

「……そんなこと無いよ」

声が掠れた。

海稲は僕の言葉など聞いていないかのように、一気に話した。周囲の笑い声が遠のく。


人が生きている限り、そこには想いが現れる。ありふれた日常の中に、それぞれの想いを織り込んで人は生きてゆく。それは主婦が腕によりをかけて作った夕飯の一品であるかもしれない。友と心の底から笑い合うひとときであるかもしれない。無心に山を登った先で見上げた、朝日の中にあるかもしれない。

想いは、尊い。歓喜、悲哀、憎悪……どんな想いであっても。それは人生を彩り、俺たちの生を深くする。俺たちはそれぞれのやり方で、想いを刻む。

物語も、想いから産まれる。自分の想いだけから産まれるんじゃない。人生ですれ違う人々の想いが自分の中に渦巻いて、物語が産声を上げる。育つかどうかは、掛けだ。一つの物語が完成する時、それは美しく輝く。昇り始めた朝日に煌めく朝露のように、人知れずとも、確かに輝くんだ。


俺にとっての物語は、映画の形をとる。映画を撮ることで、俺は生きている。

お前の物語は、何だ。


海稲の声は産まれたてのように素直だった。

潮騒が聞こえた。

静かに煌めく、海稲の世界。

海稲が求めるものは分かっていた。けれど、僕は言った。


「それは欺瞞だ」


波が打ち寄せる。僕は砂に足をとられながら、踵を返す。返そうとする。


「物語が産まれたとして、そこに想いを込めたとして、それが何だ。それが伝わるのは、一部の人間だけだ。多くは顧みられず、ただ朽ちてゆくだけじゃないか」


潮風が香る。僕は浜辺を駆け上がる。波に拐われてからでは遅いのだ。


「僕は、お前とは違う。お前だから、そんなことが言えるんだ」


浜辺に揺れた、ハマユウの花を目の端で捉えながら。

僕はきっぱりと決別する。


波に拐われてからでは遅いのだ。

海に還れない自分に気付く前に。

僕の空洞を、悟られぬうちに。


グラスの氷はすっかり溶けていた。水と化した中身を飲み干す。薄っぺらな味がした。

宴会は収束し始めている。席を立ち始めた流れに乗るように、海稲から離れる。


「でもそれは、美しいんだ」


それでも、海稲は静かに呟いた。


「それは、確かに輝くんだ」



雪子さんは、向かいで静かに聞き入っている。

「僕は、昔から書くことが好きだったんです」

世界は仄かに揺らめいている。今が何時いつなのか分からない。とりとめのない呟きが漏れる。

「僕は嫌な子どもでした。本をよく読んでいたから、書くことが好きだったから、同年齢のこども達より語彙があって。少し飾り立てた文章を書けば、大人が喜びそうな言葉を繋げれば、簡単に賞がとれた。みんな僕を、賢いとは、思っていたでしょう。どこかで、そんな僕を見抜けない周りを見下していた。そうやって、周りに馴染めない自分を保っていたのかもしれない」

「けれど」

「空しくなった。いくら褒められても、そこに僕はいない。何も無かったから」

「いつしか僕は、生きにくさを感じ始めました。日常の流れは早すぎて、周囲との会話は上滑りで、うまく咀嚼できなくなった。僕は日々のことを書くようになりました。僕は何を感じたのか。相手は何を感じていただろうか。僕は書くことを通して自分の想いを知り、相手の想いを知った。それはきっと、僕が見下していた周りの子達が、普通にやっていたことなんです。時には自分の想いをぶつけ、相手の想いに耳を傾ける。……僕は書くことを通して理解されることを願った。誰かが僕を見つけてくれることを」

「でも同時に」

「飾りを捨てて、誰かの真似をするのを止めて書こうとした時、僕はやっと気付いた」

「僕は、何者でも無かった」

「そこにあるのは、ありふれた想いだけで、いくら書いたって、僕はどこにも行けない。僕の中に特別な輝きなど、無かった。声を限りに叫んだって、顧みられることはない。いくら想いを込めた物語を書きたいと願っても、何も無い僕から輝く物語は産まれてこない」

「僕だって、そんな風に生きたかった。想いを書くことが、物語が僕の生だと……」


気付けば、僕は泣いていた。泪がぽろぽろと、頬を伝った。

物語から、想いから離れられなかった。試しに、小説の投稿サイトも利用した。もしかしたら、一人で書くのではなくこういう場で書けば、何かが変わるのではないだろうかと。

けれど想いは彷徨うばかりで言葉にならず、むしろそこに溢れた膨大な物語に、僕は打ちのめされた。

陽の当たる物語。それは、一部の人間だけのものなのか。

僕は書くことができずにいる。

輝く想いを、見つけられずにいる。


「雪子さん。正直なことを言えば、僕はあなたが羨ましい。永遠に彷徨うほどの愛を、あなたは知っているのだから。凍てついていたとしても、あなたは想いに溢れている」


淡々と僕の話に耳を傾けていた雪子さんの気配が、変わった。眼差しを感じる。

僕は不意に現実に立ち返る。

何を言ったのだ、彼女に。ひとり、孤独に哀しみと向き合い続けた人に。軽々しく、羨ましいなどと。酔狂、などで済まされない。

羞恥心で体が火照った。僕は謝罪しようと、顔を上げた。


雪子さんは、静かに微笑んでいた。


「私が想いに溢れていると、あなたは言ったけれど」


雪子さんの声が、優しく響いた。


「私には、あなたが想いに溢れて見える。難しいことは、分からないけれど。そうやって悩み苦しむあなたは、紛れもなく生きている。人ならぬ身には、それが眩しい。ここに溢れているのは、大事なあなたの想いではないの?」


雪子さんの細い指先が僕の頬に触れる。彼女は僕の泪を拭った。慈しむように。


「私の想いは、どこへゆくのかしら。それは、尊いのかしら……」


「いつか日常に、織り込まれてゆくのかしら。それはいつか、輝くのかしら……」


大輪の花に包まれた雪子さんを見つめながら。

手のひらの温もりに包みこまれるように、僕の記憶は途切れていった。



(シャルル・ボードレール「悪の華」 「薄暮くれがたの曲」より一部抜粋)










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