朝霧

朝餉の後に眠る

 なんだかんだで自分もあのひともこのままだといろんなものを拗らせて良くない方向に突き進みそうなので、この家を出ようと思う。

 そもそも私がここにいる義務などありはしないのだ、まだ夫婦といわけでもないのだし。

 互いに結婚出来る歳ではないからそういうことになっていないだけだということからは目をつぶって、そろりそろりと家を出ることにした。

 家というよりは屋敷に近い家屋から庭に出て、ひたりひたりと門へ向かう。

 行くあてなどない、家族は全員殺されてしまったし、無能な私がどこかで役立つとも思えない。

 あてもなくふらつけばどこかでくたばることができるだろう、どちらにせよ、元々生きる気力など全くないのだから。

 さて、と大きな門を見上げる。

 ここから出て行ってしまえばいい、振り向かずにふらふらと、できるだけ遠くへ誰にも見つからないように。

 だけど、そこから先の一歩が踏み出せなかった。

 心臓を細い糸でぐるぐる巻きにされて強く縛り上げられたような苦しみと痛みに、脂汗がだらだらと流れていく。

 ――勝手に外を出歩いちゃ駄目だよ。

 たった一言、ここに連れてこられた時にそう言われた。

 言われたのは随分前の話だ、それなのにたったその一言に逆らおうとしただけで、まだここまで苦しくなるのか。

 あのひとは妖怪でもなんでもないし、行ったこともないような神聖な土地にいるという神でもなければ呪いを扱う術者でもない。

 ただの人間だった、人間離れした強さを持つ剣士ではあるものの、妖しい術を使えるわけではない。

 それなのに、どうしてあの言葉に、声に自分は逆らえないのだろうか?

 恐怖によって支配されているわけでもないのだ、実際脅されたのも手を上げられたのも家族を全員殺されて死のうとしたあの冷たい満月の夜の時くらいだ。

 それなのに、あの淡々とした言葉に逆らえない。

 それが逆にとても恐ろしかった。

 死ねと言われれば死ぬ自信があるし、誰かを殺せと言われれば殺す自信がある。

 だから私はここにいない方がいい、いつか何かがおかしくなる前に。

 そう思うのに、私は結局最後の一歩を踏み出せなくて、気が付いたらいつも通り日が明けかかっていた。

 橙色の空と黄金色の雲を見上げて、何かを叫ぶ代わりに大きく溜息を吐いた。


 すっかり日が昇った頃にあのひとは帰ってきた。

 あの人は妖怪を殺す剣士だから、仕事は妖怪が出没する逢う魔が時から朝までなのだ。

 そんな人と生活を共にしているからか、私もいつの間にか昼夜が逆転した生活を送るようになっていた。

「ただいま」

「おかえりなさい」

 先ほど出られなかった門の前で出迎えると、どこか生臭い血の匂いを感じた、同時に小さな違和感も。

 珍しいこともあるものだと思ったけれど、それ以外は特に異常があるようには見えなかった。

 いつも通りの美しい人形のような顔にはなんの表情も見えないし、感情なんてものをひとかけらも感じられない。

 明るい日の光の下で見るとその美貌に目を潰したくなるけど、恐ろしいことにこの男の美しさが最も際立つのは月明かりの光の下なのだ。

 もう二度と見たくない、思い出しただけで全身に鳥肌が立って、心臓を冷たい氷の刃で貫かれたような痛みを感じる。

「どうかしたの?」

「……いえ、なんでも」

 死ぬその瞬間に確実に思い出すであろう記憶をうっかりまた思い出してしまって、慌てて首を振る。

 こちらの様子を問う声もいつもの通り脳の隅々まで染み渡るような淡々とした声だった。

 やはり今日も特に何事もなかったらしい、ただの勘違いだった。

 そう結論付けたら、右手を掴まれた。

 温度の感じられない自分よりも大きな掌に引っ張られた。


 あのひとが湯浴みをしている間に朝食の準備を済ませる。

 準備が済んだ頃に戻ってきたので一緒に朝食を食べた、いつも通り特に会話はなかった。

 食べ終わった後はせっせとお片付けをして、それが終わったので自室に引っ込んで夜まで寝ることにした。

 したのだけど、背後でひたりと足音が。

 後ろから名前を呼ばれて、一瞬心臓が止まるかと思った。

「おいで」

 振り返りたくないと思いつつ、逆らえずに振り返る。

 数歩離れた所に立っていたあのひとのすぐ前までいつの間にか移動していた。

「口開けて」

「……」

 ぱかりと大口を開く、虫歯の確認でもしたいのだろうかと現実逃避をする。

 帰ってきた時に感じた違和感は気のせいではなかったらしい。

 おそらく今日の仕事はすごく大変だったのだろうと月並みに思う、こういう時は大体そうなのだ。

「もう少し閉じて。目は閉じないでね」

 その言葉の通りにしていた。

 温度のない腕が私の肩と腰に回る、感情なんて一欠片も感じられない神様に作られたような精巧な顔がこちらに近づいてくる。

 拒めはしなかった、ただ受け入れることしかできなかった。

 薄い色の唇が私の唇を塞ぐ、温度のない舌が私の口の中の入ってきて上顎をそっと撫でた。

 思わず目を閉じかけたけど、黒くて光のない瞳がこちらの目をまっすぐ見ていることに気付いて、閉じられなかった。

 そもそも閉じるなと言われているのだ、それに逆らえるわけがない。

 あのひとの舌は上顎を撫でた後、ゆっくりと歯列をなぞって、最後にはこちらの舌に絡みついてくる。

 私はされるがままだった、脳味噌がドロドロに溶けて生命の危機を感じていたから本当はすごく逃げたかったのだけど、身動きひとつできなかった。

 しばらく嬲られた後にやっと解放された、少しの間こちらとあちらを結んでいた唾液の糸が切れた直後に、足から力が抜けた。

 抱きしめられていなかったら尻餅をついていたと思う。

 完全に腰が抜けている、しばらく自力では身動きできないだろう。

 こちらが動けなくなったことに気付いたのか、あのひとは私を難なく抱き上げてそのままあのひとの寝室まで。

 何かを言わなければとは思っているのだけど、何も言えずにされるがままに。

 敷きっぱなしになっていた柔らかい布団の上にゆっくりと降ろされて、仰向けのまま額をそっと撫でられる。

 見上げたその顔がほんの少しだけ穏やかな表情を浮かべているように見えたけど、見間違いだったらしくよく見直すといつも通りの無表情だった。

 あのひとは何も言わずに私の横に横たわって、こちらの身体を抱きしめてくる。

 流石に何かされるのではないかと身構えていたのだけど、耳元で『おやすみ』と囁いたきりあのひとは動かなくなった。

 どうやらいつも通り本当に眠ってしまったらしい、私はまた湯たんぽの代わりにされただけのようだった。

 溜息をつきかけて、代わりに聞こえないくらいの声で『おやすみなさい』と呟いて目を閉じた。

 当然、いつもの通り一睡もできずに私は黄昏時を迎えたのだった。

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朝霧 @asagiri

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