4-24.恋の花
《こんなことになるはずではなかった、許せ。わらわは、王によってこの穴に突き落とされたが、すぐには死ななかった。そう……最後の日々は辛くはあったが、一番幸せでもあったのじゃ。なにせあの頃、わらわは生まれて初めての恋をしていての。だが神々はわらわの願い……ずっとこの男(ひと)のそばに居られるように、という願いではなく、もっと純粋なる願いのほうを聞き届けた……あの頃、近習たちは誰もわらわに力が失われていたことを教えなんだ。
力が、わらわが身籠っていた子に移っていたことをな。
その子こそが、わらわのあのひとを天上の庭へと導きたまったことをな……》
「………!」
《もしも王宮に行く前にあのひとと出会っておれば……そう何度も考えた。なれど、それなら我が娘には会えなかったのだと思うと胸がはちきれそうなほど苦しゅうもなった。幾重にももつれあったあさましき自らの偽心を恥じたわらわは髪を切り尼僧になろうとした……我が子の前で短剣を握りしめた瞬間じゃった、どこからか盗み見ていた僧院の若坊主めが、わらわが赤ん坊を殺そうとしていると皆に叫んだ。わらわは捕えられ……赤子は引き離されたの……》
聴いているだけで血も凍る心地の中、ただ、“彼女”だけが軽やかに語り続けていた。
《……でもあのひとだけは。
無実を信じ、負けが決まった時ですらも味方をしてくれた。貴女の子は私が育て、いつかこの国に還すと。わらわは心配無用、というてやった。我が子は好きに生きればよいと……。他の皆がこの呪わしき穴底に突き落とされたわらわをさげすみ、すぐに立ち去っていった。じゃがあのひとだけは穴の縁からいつまでも見下ろし、暗闇になるまで涙を流してくれた。そうじゃ、わらわは好いた男をとうとう泣かせ、目の前で膝まづかせたのじゃ!》
歓喜の声が、虚ろな地下空洞に響き渡る。闇の中に散ろうとする火花のように。
《たとえどんな姿になっても、あのひととわが娘の居るこの世界を見守りたい……わらわは、最後に持っていた冥蘭を使い、朽ちていくおのが肉体を捨て、大いなる地女神の御力に縋って魂を混ぜ込んだ……じゃが、わらわの意志は二百年前からここに潜みし邪悪なものに呑まれ、厄災そのものとなってしまった――――そなたらが来てくれなければ今もってそうであったろう。輝かしき時代はもう二度とは戻らぬ。善き竜は皆、下の海へ還っていった。人のように成りきってしまうのを恐れてな。細々と残っているものもある……魔香のように。それもいまの人の身には毒でしかないのかもしれぬの。
権力者たちの欲望の道具にされ、罪なき人々が苦しんでおるようだ。まこと、由々しきこと……が、貴殿のように、いにしえの誇りを失わぬ一族がまだいてくれたことは僥倖じゃ。なにせマンドラの竜王はわれらの王統が早々に殺めてしもうたのでな……》
それは、ヴェガに向けられた言葉であった。
ヴェガが進み出て、女神の言葉に同意するように膝をつく。
雄々しき彼がそうするのを見た瞬間、ミケランは立っている自分に畏れを覚えた。
自分も膝を折るべきなのか?
マンドラの王子という立場がどれほどのものなのかもはや見当がつかない。
そもそもこの世で一番偉いのは一体誰だと言えるのか。
だが、ひとまず怒りを買ってはいないと思われた。
それに彼女自身が断言した――――
マンドラの王家は、”竜殺し“だと。
「お母様も……誇りある人たちの、お一人でした」
シャオが涙を浮かべながらも、懸命に微笑んで言うとセリカの意志もそれを汲み取ったように明るく“笑い”返す。
《……そうでもない! そのように悲しむことはないぞ、娘たちよ。わらわは皆がうらやむ恵まれた女じゃったからの……だが、せっかくこうして、そなたらのお蔭で解き放たれたというに、もう何もかもが、いうことを聞かぬ。すまぬな……里帰りしてくれたのに、すまぬな》
「お母様!」
《せめて緑神の力のひとかけらでもこの地に残っておるのなら大切な種を慈しむように最後の力を振り絞り花咲かせてやれようものを、それすらもこの島には残っておらぬ。何よりも……わらわの胸には、火もない……》
それを聞くや否や、絶望に曇っていたシャオとアルメリカが同時にはっと顔をあげた。
「……あるわ? あるわよ!」
レンヤが水筒を差し出した時のようにいとも簡単に言ってのけたアルメリカにミケランは完全に肝を冷やした。
ヴェガが、死体袋を再び担いで、女神像の正面に下ろす。
一体、何を始めようというのか? ミケランにはまるで分からない。
「お母様、わたくしとシャオ様から贈り物があるの! きっと、二重にお喜び頂けるものと存じますわ」
《……なんと? なんと……ああ、そなたは!》
抑えきれない歓喜の念が、重苦しい世界全体を震わせる。
《教えてたもれ、娘たちよ……この者は……この者はもう妻帯しておるのか?》
それまでの威厳に満ちた女王の如き声のまま、どこか初めての恋心を必死の思いでうちあける乙女のように震える心を必死で隠している。
「いいえ」
「マンドラ島での思い出に浸るばかりで、女っ気一つありはしませんわ!」
二人の言葉が残響となって上昇するに従い、生臭かった空気が歓喜に震えて清冽な芳香を放ちだし、死体袋から、久しく見なかったほど明るく澄んだ白光がほとばしり、汚れていた壁を震わせながら岩天井をも突き抜けていった。
《この者は、すべての仕事を成し遂げ、緑神は戻られた。この者は働きに見合う最高の報酬を速やかに得るであろう。イルライ山は蘇り、汝らにも心を開くはず。世界樹を潤していたのと同じ水を互いの手で飲ませるがよい……それで万事“元通り”、じゃ! さらばだ娘たちよ。わらわは……わらわも、幸せな過去夢にでも浸るとするわ……エーサラ……いや、アルメリカ!》
その直後に起こった二つのことを、ミケランは一生忘れないと思った。
再び、マンドラ島全体が激しく揺れ始め、しかもそれが一向に止まないこと。
そして、死体袋が、ひとりでにうごめきだしたことだ。
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