4-23.風の道

「ぐっ……ああっ……!」


 どこかを切ったらしい、シャオの口の端から血の筋が流れおちる。

 ずるり、ずるり、と。何かが底から這い上がってくる。

 否、穴に溜まっていた闇そのものが動きだしてくるかのように。

 穴の縁に“手”がかかり、それが姿を現した。


 ミケランは、屍穴の底には汚泥のようなものが溜まっているものだと思っていた……敢えて、覗き込んだことはなかった。

 だが、違ったようだ。穴を占拠していたのは、ただ、貪婪な“闇”――――

 

 強欲という触腕を生やし、巨大な口と獲物を見つけるための抜け目のない眼を持つ、悪夢のような蛸(タコ)が、そのものがマンドラ島の中枢を吸い尽くしていたのだ。


 影色をしたおぞましい触腕が、頭部のような塊から何十と生え出していた。

 シャオを襲ったのもその一つで、こみ上げてくる嫌悪感に堪えながら見つめていてもそれが実体を持つのか、あるいは悪夢が生み出したまやかしなのかすらも分からない。

 それが、猛り狂ったように咆哮した。広大な地下空間すらもがあまりの音圧に張り裂け、全ての岩盤が崩壊してくるような恐怖にミケラン自身も耳を塞ぎながら叫びだす。

 振動が、新たな”地震“となって島を恐怖に陥れる。

 膝が、勝手に崩れ落ちる。


(頼む……誰か、この狂ったバケモノを止めてくれ!)


 すると、闇の中央に突如、一つだけの眼が見開いた。

 御前晩餐会で使われる、レグロナ帝国から贈られた黄金の大皿の何倍も巨大で、無慈悲で、貪婪な金色の眼……瞳孔だけが黒々と、虚無を見つめている。

 それが、満月よりもしとやかに濡れて自分たちをふるふると見つめている。

 背筋が違う恐怖でぐらついた。 

 このバケモノは、哀しんでいるとでもいうのか。

 どこかで見たことのある目だ。そう思ったのは自分だけではなかったらしい。


「……同じだわ、わたしの、目の色と……」


 同じく苦痛にあえいでいたアルメリカが言い、ついで、自分で自分が吐き出そうとする呪わしい言葉を押し戻すかのように口を押さえ、かすれた声でつぶやく。


「まさか……セリカ……母様?!」


 瞬間、声にならない叫びを放ち、激怒を押し殺したようなシャオが宮護刀で自らを束縛する触腕に切りつけた。

「シャオ!」とヴェガが警告したが間に合わない。

 反撃を喰らった暗黒の蛸が腕を振るうと、シャオの体が空中でしなり、叩き落される。

 次はどれから獲ろうか……そう吟味するかのように、触腕がミケランたちを狙う。

 あの目の奥が、というより、無数の腕そのものが考えているかのような動きだ。 

 茫然と目を見開いたミケランの前に触腕が迫る。が――――


「わたしは……負けない……絶対に!」


 暴風をも乗り切った海鳥のようにシャオが眼前をかすめ、触腕を自分の方に引きつけた。

 ヴェガも彼と呼吸を合わせるかの如く、戦斧を抜いて突撃する。

 ごちそうをお預けにされて苛立ったように触腕がシャオを追い回す。しかし青年は取り戻した直感と身のこなしでそのすべてを避けきった。

 彼といえどもただの人間だ。こんな化物にはこれ以上、近づく事すら出来まい。

 が、彼は一人ではなかった。

 ヴェガが、触腕を一挙に断ち切った。

 どす黒い粘液をまき散らし、苛立った魔物が、残りの数十本もの脚で岩壁を叩きつける。

 新たに崩れ落ちた岩がシャオの頭上を直撃すると見えたが、彼は転がりながらからくも避けた。

 巨大な眼球をぐりんぐりんとはげしく回しはじめている。

 哀しみに沈んでいた黄金色が消滅し、憤怒だけの深紅に染まる――

 怒りに我を忘れ、狂乱した鮫のような怒りに全身を激しく波打たせ、黒いその表皮すらもが銀色に、燃え上がる。


「でああああっ!」


 瞬間、蒼い稲妻のごとき影が裂帛の気合いと共に宮護刀を構えて飛び立った。

 おぞましい闇の腕を船の策具を渡るかのごとく駆け抜け、宮護刀ごと体当たりすると叫びと共に怪物の眼球を斜め上方へと切り上げる。

 切り裂かれた眼球の奥から噴き出したどす黒い体液からも身をかわしきったシャオが離れてた床に着地する。

 闇は、海の底の生き物が地上で形が保てなくなったかのように急速にしぼみ始めた。

 やがていじけた小さな蜘蛛のようにこそこそ岩穴に逃げ込もうとした。

 それを、小さな絹の靴が目敏く踏みつけて、踏みにじる。

 アルメリカはおそろしいほどの無表情で、ゆっくりと足をあげた。


 そして、そのままくたり、と顎をのけぞらせると……後ろへと倒れ込んだ。


「アルメリカさん!」

 茫然自失していたシャオがすかさず抱き止めた。

 一時、気が遠のいた様子のアルメリカが震える瞼を上げ、気丈にも微笑んでみせる。

「良かった……シャオ様がご無事で。わたしなんて、見ているだけで、死んでしまいそうだったのに……とても素敵だったわ……何もかも」

 同時に、すぐ近くで地響きが足元を揺るがした。

 東玻帝国が造り上げた“扉”が、突然ひび割れ、海竜と海魔の彫刻が互いに頭突きでもしあうように倒れ込み、床で瓦礫と化して散った。

 そしてその後背より。

 二百年の間、隠されていた闇の奥から見つめ返す顔があった――――

 驚愕する皆の中で、ミケランも茫然と呟いた。


「あれは……地女神(エリシタ)……!」 


 隠蔽されていた、竜頭の女神……マンドラ島で最も古い神の像は、いかつい頭部の下に豊満なる乳房を剥きだしにし、下身には世界樹の文様で彩られた薄衣を優美にまとった美女の体でそこに座していた。

 鱗に覆われ、尖って後ろに跳ね上がった両耳、角、ずらりと並んだ牙、炎の色に輝く紅玉の瞳……恐ろしい姿である。

 それでも、この像は微笑んでいると分かる。闇の中からでさえも。

 右手には大地を揺り動かすという黄金の錫杖、そして左手に、大地と宇宙のつながりを象徴する卵……目を疑うほど巨大な宝石でびっしりと装飾された卵形を持つ。卵から女神の臍(へそ)につながった金の飾り紐も、蜘蛛の巣と埃にまみれている。

 それでも、ほとんどが略奪もされずに残っていたのは意外でもあった。

 東玻帝国は金銀宝石にはまったく目をくれなかったらしい……

 だが、女神から最も大切なものを盗んだのだ。

 女神の膝の下には四角い穴が開いていた。元は、女神像の彫刻の一部として塗り込められていた玄室への入口だろう。

 今、その穴を、二百年ぶりに呼吸が通ったとでもいうようにひゅうひゅう……と微かな風が通った。

 そして、その風のささやきに混じるかのように。


《……礼を言わねばならぬ、そこの者たち……》


 突如、地下を震わせつつ、個々の鼓膜に囁きかけるかのような声が響き渡った。

 これまで聴いたどんな美声よりも麗しく、優しく……澄んだ鈴が鳴るように。


《よう来てくれた。わらわはもはや物の身体をもたぬゆえ魂の色しか見えぬが……無力な母を許せ。じゃがおかげで、あの忌まわしき魔物からは解き放たれた……》


「セリカ様……お母様、お母様なのですか?!」

 シャオが、ようやく明らかにされた女神像の方角から響いてくる不可解な声の主に向かって涙をためた目を向けた。

 しかし、同じく驚愕している時でさえミケランの内心は複雑だ。


 シャオめ。いきなりセリカをお義母(かあ)様呼ばわりとは……

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