4-18. 聖なる道
シュリガの娘アルメリカとその豊満なる侍女レンヤ、彼女と謎の密命を結んでいたらしいカーラ。突如南の海から乗り込んできた美貌の東方王子セイミ・シャオ、シャオを船長と慕う荒くれ船員たち、さらに謎の棺桶を背負った雄々しきヴェガとその配下の猛きタルタデス人戦士団……
そして、死刑を宣告され王宮からの逃亡者に身をやつしたマンドラ王国のミケラン王子と従者ルシンタ。
もはやどこからどこまでが重要で誰が何の当事者なのかも分からない有様だ。
それなのに、皆の心は不思議と一つだ。まるでこの先、誰も見たことのない、また書物にも記されたことのない帰結が待っていることをそれぞれが確信しているかのように。
結局ミケランはイルライ山へ至る神聖な石畳の坂の通行を、人種も宗教も国籍も混合するわけの分からない一行に許可するしかなかった。ランダが知ったらミケランの罪状に八つ裂きの刑も付け加えるかもしれない。
だがジンハの神々は今の僧院にはびこる僧侶たちよりよほど寛大だ、そう信じた。
誰も近寄らなくなった聖地への道は、以前はすっかり緑に呑みこまれていた。
だが久々に目の当たりにして、ミケランの肌は総毛だった。
「か、枯れている……いや、枯死している……!」
かつて深くこの地を包み込んでいたアルテルシマの樹の回廊は墨でもぶちまけられたように黒ずんでいた。地面は腐敗した根や葉の残骸で埋め尽くされている。
「これは……しかし、急激になったようにも見えます。まだ生臭い……」
ヴェガが何かをシャオに訴えた。シャオが通訳した。
「地面から邪気が吹き出し、植物を枯らしているのだそうです。ヴェガの故郷でもこの悪しき力によって植物のみならず動物たちも死に絶えてしまったと……」
不吉に腐敗した風が、立ち尽くした一行の全員の肌を撫で上げる。
「……でも我々は、進むしかありません。ミケラン王子」
他の誰でもないシャオの前で怖気づくことだけはミケランの矜持が許さない。
敢えて答えは口にせず、無言で闇の道に対峙する。
「火はご勘弁を。森に巣食っている魔物たちが襲い掛かってきます。それに、このような闇の中では強すぎる光はかえってまなこを曇らせるでしょう」
新たなたいまつをつけようとする船員たちをルシンタが冷静にたしなめた。
「じゃ、マンドラ人はこんな真っ暗な道をどうやって歩くってんだ」
「答えは簡単……歩きません。夜の森は死神(セダラー)の領域、出遭えば魂ごと連れ浚われます。解説するなら、毒虫や毒蛇が活動する危険な時間帯だからではないかと」
「ふうん。マンドラの王子さんよ、あんたは光の妖精とか魔法は出せないのかい?」
「わ、私はそんな、おとぎの国の王子様ではないっ!」
軽い冗談に本気でつっかかってくるミケランを船員たちが白けたように見やる。
まったく腹立たしい限りだ……自分が。
ともかく一行の中で問題がなさそうなのは闇も死神も毒虫も恐れないヴェガとタルタデス戦士団だけだった。
「ああ……それなら。いいものがあるのを思い出した!」
その時、シャオが久々に明るい声をあげた。
腰帯に付けていた小さな道具袋から何かの小瓶を取り出す。
「これは赤道の沖合で採取したものです。ルシンタさん、どこかに海水……いや真水でもいいかもしれない、ないでしょうか?」
「あ。あたし持ってるわ」
レンヤが水筒をシャオに投げ渡した。シャオが小瓶の中に水を少しずつ注ぎこみ始めた。シャオが軽く振ると明るすぎず昏すぎもしない青白い光を発し始めたではないか。
「ルシンタさん、これならどうですか」
「申し分ありません、シャオ様!」
「さっすが、俺たちの船長だぜ!」
闇の中で不安そうにしていた一行が一斉に沸き立つ。
ルシンタすらもこのぼんやりとした控えめな希望のような光の中、傷だらけになって以来初めての笑顔を見せた。
「あの、シャオ様……不躾ではございますが、よろしければ後ほどその海水について教えてくださいませんか? このような不思議なもの、初めて見ました」
「ええ、喜んで。何に使うでもなかったのですが、これには何か、秘密が隠れているような気がして。アルメリカさんの兄君に、怪我をさせるわけにはいきませんから」
そしてシャオ当人はというと、ぽつねんとしていたミケランを気遣うかのごとくいやに親しげな笑顔を向けてくるのだった。
(くそう“シャオ様”めが、私は、私だけは断じてそちの信者になど成り下がらぬぞ! ……しかし実際助かった)
夜空の月をもその手に掴み取ってみせたように冷光を掲げるシャオと周囲を固めるタルタデス戦士団に護られ、亡霊にでもなったような気持ちで上り詰める。
緩い坂の上のどん詰まりに立ちはだかる、古くて堅牢な石の門が見えてくると誰も口を利かなくなった。
黒い根が、がっちりとまるでタコの怪物か何かのように門を閉ざしている。
正直いって、あれが本当にアルテルシマの樹の根であるとは信じられないほど禍々しかった。
「これ……? これが、イルライ山への入口だっていうの? こんなものをおじ様は、いったいどうやってくぐったというの?!」
「先代の時はいとも容易く出来たことでも、我らには出来なんだ……最後の希望は」
老婆のしなびた手が、驚くべき人物の手を握り、引っ張り上げる。
よろめきながらも、引き出されたシャオが決然と頷いた。
「――――やります、やってみせます」
「な?! ま、待たれよ! なぜだ、なぜシャオ殿が? 何がどうなってそうなったのかまるで分からぬ、シュリガでもないばかりか、男、しかも外来人ではないか?!」
抗議しかけるミケランを、カーラが「シッ!」と蛇のように威嚇する。
ルシンタも何も言えずにいる。神事に関して大神女の言うことは絶対なのだ。
カーラに指名されたシャオが周囲の喧騒を祓うように前を向き……胸の前でまるで西方人がやるように手を組み合わせた。
「お願い……力をお貸しください……!」
禍々しく黒ずんだ木の根に固められた門の前に立つと、その門前に手を突きつけた。
風の一つとして吹かないまま、数秒以上が過ぎた。誰もが身じろき一つ出来ない。
「開け……開け、開け……! なぜ開かない! わたし達を、皆を助けてください、マンドラの神様。あなたたちはまだそこにいらっしゃるはずだ!」
シャオが、喉も枯れよと叫びを放つ。
呪われた森に巣食う夜鳥たちが、気高き獣の断末魔でも聞きつけたかのように驚き、慌てて飛び去った。
こんなに我を失い、激情を見せる彼を見た瞬間、ミケランの呼吸も苦しくなった。
確かにこの完全無欠の美青年には複雑な、むしろやっかみめいた感情を覚えてきた。
だが、ついに何かに屈してしまう姿を見たかったわけではなかったのだ……ましてや、このような絶望的な闇夜の最中に。
「くっ……!」
壁に手をついたままうなだれたシャオに、見守っていた仲間たちも震える。
「……ダメ、じゃったか……」
「”神は、死んだ“……ここにミルザーの野郎がいたらそう叫んだかもしれないな……」
成り行きを見守っていたずんぐりした二等航海士が苦み走った口調でそう言った。
「シャオ様……カーラお婆ちゃん」
その時である。一歩引いて見守っていたアルメリカが声をあげる。
「わたしも、やるわ。そうよ! わたしたちでやらないと、意味がないのかも。だって、わたくしとシャオ様は、“一心同体”……そうでしょう?」
「アルメリカさん……!」
手を取り合った傷心のシャオとアルメリカに見つめられ、老婆が震えながら頷く。
「呼吸も鼓動も一つにせねばならぬぞ、精神(こころ)を合わせ、邪念を排し……! さもなくば、二人もろとも……手ひどい神罰を受けかねぬぞえ」
前に立ったアルメリカはシャオ王子の身体に背中を預けるようにしながら、手を門にあてた。その手にさらにシャオの白い手がやさしく重ねられる。
「うふふ……これって、あの夜と同じですわね。覚えていらっしゃるでしょう、温室で、わたくしが貴方に失礼を働いてしまったとき……」
「ええ。“あの時”は突然で……少しだけ怖かった。でも今は、何も怖くありません。ヴェガも、どうか手を貸してください。貴方の御力も、何かを起こすかもしれません」
シャオ王子が上級タルタデス語でもう一度言うと、彼も同意した。
「ねえシャオ様、何か言った方がいいのかしら」
「大丈夫、何も言わなくてもわたしたちなら大丈夫……大丈夫です……!」
瞬間、シャオとアルメリカの重ねられた手から、月光よりも透き通った光が生まれ、石に吸い込まれていく。
瞬間、重々しい音がした。東玻様式の石門にヒビが入る。
黒ずんだ木の根が、狂ったようにアルメリカとシャオに伸びる。シャオはアルメリカを横抱きにしたまま飛び退り、一方、木の根はヴェガの手にがっしりと握られていた。
雄叫びをあげて、ヴェガがその木の根を力まかせに引きちぎった。断じて人間の手でちぎれるようなものではないはずものが、どす黒い樹液をまき散らしながら引き剥がされていった。呪われた木の呪縛から解かれた石の門が崩れ去り、凄まじい轟音を発する。
「やった……やったぞ、道が! 道がある!」
喜ぶミケランたちの横で、カーラだけが何故か蒼ざめ、沈黙している。
地面に倒れ込んでいたシャオがアルメリカを素早く背負い、きっと行く手を見やる。
「……行ってきます。皆、待っていてください。さあ、ミケラン様!」
走り出すシャオとヴェガに、ミケランとルシンタが続く。
タルタデス人軍団と船員たちは、入り口を護る布陣で自分たちを見送った。
黒い森を抜けると、眼前には円筒状の巨大なる絶壁の岩山――――イルライ山の威容がそびえたっている。その山肌につづら折りのように作られたいかにも心細い道がうっすらと見て取れる。夜明けが近いらしい。
だが、夜明け前の闇が一番濃いとも言う。
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