4-19. 微かなる希望

「はあ、はあ……はあ……も、もうダメだ、ルシンタ……私はもう、死ぬ……!」

「ここでですか? 本当に?」


 真顔で問いかけながら手を差し伸べてくるルシンタの強靭さにほとんど憎しみを覚えながら、ミケランはその手を躍起になって振り払う。

 ようやく、イルライ山山頂への最後の一歩を乗り越え、ミケランはぐったりと膝をついた。

 曙光が、東のほうに滲み出している。分厚い横流しの雲が光を遮っていた。


 平たい山頂は広さにして芙蓉宮の謁見の間ぐらいはゆうにあろうか。

 そびえたつ岩山の上にはただ、緑神を祀っていた廃寺院の跡とおぼしき石組みが残っているにすぎなかった。

 何もない山頂に、何も見出せないまま立ち尽くしている自分たちはひどく滑稽な存在に思えた。

 棺を地面に下ろしたヴェガも、じっと、曇天の夜明けを睨みつけている。がっくりとその場に最初に膝をついたのはシャオだった……

 折れることを知らないはずの、彼が。 

「何も、ない……? ここが、本当にイルライ山の山頂? グレンおじ様が、緑神に会ったのはここなんでしょう? お兄様!」

 アルメリカが、怒りに満ちた声でなぜかミケランを叱責する。

「し、知らぬ……私も、初めて来たのだ……!」

 両手の中に顔を埋めてしまったシャオを、いまやアルメリカがなぐさめている。

「シャオ様、もしかしたら、違う入口があるのかも知れないわ。グレンは……おじ様はきっとわたしをからかったのよ! このどこかに、天上の庭ってところに行く仕掛けか何かがあるはずよ……!」

 その時、アルメリカの身体がぐらりと傾いだ。はっとなったシャオが寸でで抱き止める。

「アルメリカさん、しっかり!」

「……セリカの娘御たちよ。ここが間違いなく、聖地でございますのじゃ」

 振り返れば、見かけによらずかくしゃくたる足取りで登山道を登ってきたカーラの、しょげかえった姿がある。

「天上の庭など、やはりただの伝説。緑神はもはやマンドラを見捨てたもうたのでしょう。先ほど申した通り神々の御意志は人知でははかれませぬ、いいえ、はかってはなりませぬ。ともあれ聖地は回復された。これが……全ての終着点でしたのじゃ……!」

「いいえ……いいえ、大神女様。天上の庭はどこかにあるはずよ、だっておじさ……フレイアス卿はそこで手に入れたのだから、冥蘭の種を!」

 アルメリカが苦しげな息の下で切々と訴えた。

「なんですと?! 姫様ばかりか、冥蘭の種まで持ち出したのか!」

「何より、ここはもう、誰にも……マンドラの人々にさえも、思いを寄せられていない……水も枯れている、廃庭のようなものです」

 アルメリカをしっかりと抱き抱えたま、シャオも睫毛を震わせた。

「なぜ、こうなってしまったのでしょう?」

「地女神(エリシタ)の神力がこの島を揺るがすようになってから……ランダめは、それがその……セリカ様の死後の呪いの力だと吹聴するようになりましたのじゃ」

 カーラが憤りを秘めた声で告発する。

「ヴェガも、西南陸塊に魔物が現れるようになったのは十年ほど前だと言っていた……」

 ふいごの風を送られた火床のように、シャオの闘志が再び勢いを取り戻していく。

「そう、マンドラ島を狂わせているのは緑神じゃない、地女神と、そう差し向けようとした誰か、です。カーラ、ここ以外にこの島に聖地は? 地女神の力が集まっている場所がどこかにありませんか?!」

「あ、あります、ありますとも! まさに、芙蓉宮の地下深く、今は屍穴と呼ばれておる場所こそが、かつて太古の地女神の神殿の入口で、そして王家の始祖シュリガル王の墓所……二百年前、東玻の手の者がその亡骸を盗んだゆえに今は空ですがの!」


 ようやく登山の苦しみを抑えつけたところだったミケランは、見えてきた話の成り行きに愕然となる。 


(私は行かぬぞ、もううんざりだ、下ったり登ったり下ったり!)


 と、その時。摩耗し割れた石床の上を、瑠璃色の甲虫がとことこ……と横切った。

 疲労が吹き飛び、素早く柔らかく手の平に握り込む。


(おお、おぬしは新顔だな! その翅の小さきこと、さてはこの山頂にしか住まぬものか? もっと広い下の森へ連れていってやろうか……)


 束の間考えた末、そっと地面に戻す。

 たとえどんなに狭く味気ない所に思われても、ここもまた世界の一つには違いない。

 素知らぬ様子で甲虫は石床の上を這っていき、うっすら緑神の植物紋が残る砕けたタイル床の隙間に潜って消えていった。

 膝を払ってようよう立ち上がったその時、シャオの腕の中、朦朧としたアルメリカの唇が切なげに「お兄様……」と動いた。

「な、なんだ、姫?! どうした?」

「お兄様お願い、わたしを、わたしたちをあのクソ忌々し……いえ、とっても恐ろしい地下空洞にもう一度連れていって……一生のお願いよ!」

「し、しかし……しかし! 私は父に死刑を宣告されている。追手までかけられて。この状況で、王宮にどうやって戻れると言うのだ、蟻になれとでもいうのか?!」

「おそれながら殿下、そんなのはおそらく取るに足らない問題かと……」

なぜかルシンタまでもが彼らに加勢する。

「セイミ・シャオに、シュリガ族の正統なる血を引く姫、大神女にタルタデスの王、ついでに下界には屈強な戦士団と海賊くずれ、狡猾なマーカリア商人に男たちの目を奪う美女までも……一体、誰がこのような面子(メンツ)に立てつこうなどと考えるでしょう?」

 ルシンタがミケランを挙げ忘れたのがわざとなのか否かは、定かではなかった。

 

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