4-10.疑心暗鬼

 ミケランにとって、慎重になるべき局面だった。


 一点の曇りのないシャオの目を見ていると怪しむ心がそれだけで溶かされていきそうになる。ある意味でアルメリカ並みの魔性を秘めた青年だ。手が、汗ばむ。


「マーカリアからの船? もう東風も吹き止んだゆえ今年は来ぬのではないか……」

「殿下、何を隠そう、我々が追いかけてきた男というのは、マンドラでもおなじみ……というか多分禁句(タブー)の、あのグレン・フレイアスなのです。融通のきかな……あ、いや、厳格な御仁でしてねえ、これが」

「それに、フレイアス家の養女殿も一緒にいらっしゃるはず」

「………その人が、一体貴方のなんだというのです?」

「いえ、それはあの、その……も、申し訳ございません!」

 不意に凛々しいばかりのシャオの美貌に朱色がさし、色香までもが匂い立つ。

「元はといえばわたしのせいなのです、その……ウィンドルンに到着した日の行列の最中に彼女をお見かけして……その……」

「いわゆる一目惚れするあまり、フレイアスの家に侵入……いやその、約束なしにご訪問までされただけですよ、ハハハ。船長もすっかり隅に置けませんな!」

 しどろもどろになっているシャオにウィルが助け舟を出す。


(確かにアルメリカならば目に留まることもあるであろうが……このいじらしさは何なのだ? 見ているこちらが恥ずかしい……)


「そもそも貴方は、ウィンドルンで投獄されていると専らの噂でしたが?」

「それにつきましても手前がお答え申し上げましょう。手前はウィンドルン総督スタイフェル様にも特にお引き立ていただいておりまして。あの総督閣下の磁器への情熱、それに気前のよろしいことといったら、正直申し上げてあれは病気の域ですよ、ええ、もちろん褒め言葉、でございますよ?」

 ハハハハ! とやたら空元気を振りまくウィルにシャオが何やら気の毒そうな目線を向けたりしている。

「そして折りも折、勿体無くも知遇を頂いたシャオ様より、祖国よりお持ちの磁器について然るべき御方に譲れないだろうかとご相談を頂きまして……それで閣下をご紹介しました縁で“釈放”頂いた次第で」

「……なるほど。王子が自由の身になられた事情はわかった。しかし本当に、あの恐ろしい《下半球》を、あのような船で突破してきたと申すのか?」


 そうだ。詐欺集団だとして、船員はどこか大陸の港や他船から調達出来たとしよう。

 だがあの唯一無二の東方船は? いったいどうやってここまで運んでくる?


「俺はアガルスタ人のガーラ教徒です。懲罰神シードラにかけて、嘘は申しません。そうです、俺達は、恐ろしい海竜のうごめく大西海を命からがら渡りきりました」

 首飾りをした船乗りが、危うげではあるが澄み切った目つきでシャオの言葉を継ぐ。

「まだ名前もつけられていない岬に流れ着き……切れ目が見えずにいた西南陸塊が切れて、海がずっと東の彼方にまで開けました。俺達は補給を求めて、這々の体で上陸しました。見るも恐ろしい魔物が襲ってきて、幾人かが命を落としましたが、それ以上に皆、ミアンゴ人の剣術を習っていたシャオ船長に救われたんです。黒い肌の蛮人たちが現れた時は全員殺されるかと……でも!」


 少し、雲が多くなってきた。海岸に影が落ち、すぐにまた、日差しが戻る。

 夢中で語る首飾りのガーラ教徒の瞳に、涙混じりの紛れもない興奮が浮かぶ。


「船長が、何の前触れもなくタルタデスの言葉を発したんです。信じられますか? しかも船長の言葉は、奴らの部族の中でも平民には使えない、王が臣下に語りかける為の言葉だった。狩人たちは皆、雷に打たれたようになってひれ伏し、それ以降は全員生き神のように扱われました。俺たちは船長が奇跡を呼ぶのを何度も見てきました。しかし、あれほどのものはありませんでした!」


 シャオが呼ばれたように目をあげ、好ましく控えめな態度で言葉を継いだ。

「わたしは、ただの弱い人間に過ぎません。東の海を見つけるまで、わたしは、自身の心も暗い海の中へ沈めてしまいたいと願うほど暗い深みを彷徨っていました。体中が痛みに苛まれ、冷たくて……そのまま死んでしまえたらと思うほど……」

 ふと堪らなくなったように顔を俯け、自分で自分の手を握り潰そうとしている。

「わたしさえ居なければ、あの人は死ななかったかもしれない、と……!」

「……誰かを、亡くされたのか」

 シャオの背後で、船員たちもより深くうつむいた。

 とりわけシャオの側に従者のように控えていた年若い少年水夫は、ほとんど目を上げられないようだ。

「……ええ。でもその時、隣にいるこの、友達のウィルが、わたしを懸命に励まし、呼びました……皆を導けるのは、貴方だけだと。わたしはようやく悟りました。自分には知らないことがたくさんある、知らねばならないこともあると……生きて、必ずや陸(おか)にたどり着こう。この船の皆が命を賭け、それぞれの特別な旅を潜り抜けマンドラに至りました。いずれはこの航海の記録をふさわしいように伝えねばなりません、それが生き延びた我ら聖なる囚人号乗組員たちの、使命です」

 まっすぐに見つめられるうち、ミケランの脳裏に、黒光りめいたひらめきが生じる。


 ジャルバット王は狂気に陥る以前、サンガラ王国の首都ナガルを訪問したことがある。往時の街の様子や王の様子について”話が合う”はずだ。合わなければ、おかしい。

 暗い期待と、焦りを麻痺させるような悦びが湧き上がる。

 どんなに颯爽たる王子でも、マンドラの残虐王の前ではただの餌食なのだ……


「シャオ殿……それでは長旅でお疲れでいらっしゃるはずだ。まずは、我が芙蓉宮へ参られよ。出立前に簡単な宴も用意致すゆえ……酒も、果物も、美しい踊り子たちもふんだんに」

 ミケランの言葉に、船員たちがはちきれんばかりの歓声を上げた。

 ただ一人、シャオだけは表情を変えず、背後で狂喜している仲間たちを慮ったのか、「ありがとうございます」と丁寧な所作で頭を垂れた。    

        ※       

 だが。シャオの一行を引き連れて雨林の登り道を辿り、ほぼ四日ぶりに芙蓉宮に戻ったミケランは、アルメリカと侍女レンヤが王宮から逃亡したことを知らされた。


 そして見張り役を果たせなかったルシンタが王の虜囚となったことも。            

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