3-10. 儀式

 船は進み、日差しが強まり、海水の温度が上がっていった。

 ヴェガが教えてくれたように南海の海は砂漠と同じだった。目を凝らしていると、時折海面が真緑に変色している所があった。目の錯覚かと思ったが、確かめる前に船はその海域を快走していった。


 修行の成果もあり、今では船の上を自在に行き来出来るようになった”アルメリカ“はいっそ見張り役を申し出ようかとうずうずしたが、ハルにたしなめられ、相変わらず孤高の王子様役に徹し続けていた。 


 まもなく、赤道を超えた。西方世界の常識に照らせばここから先、海はどんどん煮えたぎり呪われた怪物たちの跋扈する魔の世界が始まるのだ。

 船長からの祝いとして”アルメリカ“は酒蔵を開放し、船員たち全員とささやかな宴に興じた。

 このまま順調に進んでいけばそろそろ大いなる風が……西南陸塊の南端の海に吹いている強風の息吹が感じられるのではと期待していた。


 ところが風はどんどん弱まり、やがて帆は空き家のカーテンほどにも揺れなくなった。


 じっと、じりじり動かぬ好天と凪いだ海を見ていた半裸のアンセルが、北方人の彼にはまるで似つかわしくない炎天の真下で告げた。

「無風地帯に入ってしまいましたね、王子」

        *

(強い南風は? どうして吹いていないの? 話が違うじゃない!)


 船長室で、ほとんどだんまりになった“アルメリカ”が石のようなチーズを削り出して夕食を採っていた時、甲板で騒ぎが持ち上がった。

「……ケンカ?」

"アルメリカ"は立ち上がり、部屋を出た。いつも、ラム酒をなぜか瓶からではなく一度小皿に注いでからちびちび飲むという奇癖を持つハルも小皿を置いて後に続いた。


 三日月が照らしている船首楼付近で、誰かがタルサオラで積み込んだ山羊を引き出していた。

 船尾には舵輪を握っている船員以外誰もおらず、就寝中の乗組員以外の全員が船首側に集まっている。

 ある種、それだけでも異様な光景だったが、船員一人一人を見渡していった"アルメリカ"は息を呑む。


 ミルザーが、顔におそらく染料……たぶん、タールか何かだと思うが……をぬったくってつば広帽子をかぶっていた。

 表情は翳っていてよく見えない。黒い毛皮のマントを裏返しにして羽織り、片手には木桶につっこんだむき出しの鉈を下げている。

 他数人の水夫も似たような異様な黒い化粧に、麻袋に穴をあけただけの妙に粗末ななりをして追従し、さらには全員ブーツを左右逆に履いている。


「……これは、なんだ。何かの祭りでも始めるのか?」

 努めて“アルメリカ”は平静に尋ねた。

 船尾楼甲板で舵取係の背後に控えて後ろ手に手を組んだアンセルが王子、と諌めた。

「あれは、海の亡者の王ですよ。”帰らずの岬”を越えさせてくれた神々と、この先、冥海の風から魔を払うための儀式、だそうです」

「儀式……?!」

「やめさせますか?」

 北方人が見下ろしながら静かに問うてくる。 

 即答できずにいると“祭司”役のミルザーもまた王子、と呼びかけてきた。

「船長の貴方に、誰か一人、生け贄の海の王女役を選んでもらいたい」

 わたしが? と戸惑って、思わずハルを見た。彼はいつもの心得顔で断言した。

「うちの王子は女装はいたしませんよ?」

「分かってる。王子様や密航総督閣下にやってもらうわけにはいかないしな……」

「決めろといわれても……男の人に女装、なんて。その山羊はどうするつもりだ?」

 逡巡するばかりの“アルメリカ”に業を煮やした甲板長のブランが言った。

「一番若くて細いのは、イアルだろう」

「そうだったな。おいイアル! 王子様のご指名だ。王子に感謝して貰えるぞ?」

 指名なんて、していない! と叫びそうになった。

 愕然とした目つきで、引き出されてきたイアルが“アルメリカ”を見返す。

 縄に引かれた山羊のメェェ! という悲痛と悲嘆の入り混じった声が波音に被る。


 ミルザーが、ギシギシとなる夜の甲板上、円陣を組んだ船員たちの真ん中でヴァルダリ語の呪文を唱え始めた。

 瞬間、哀れな声で泣く山羊を押さえつけ、鉈でその喉をかっ切る。

 溢れ出た血を甲板へ、そして呆然自失のまま円陣の真ん中で花飾りを頭に載せられた(それが、女装の代用らしい)イアルの頭へ、口の中へと流しこみ始めた。

 蒼白なイアルはその血を懸命に飲み干した。きっと自分(シャオ)の顔も、彼と同じぐらい蒼白になっている。

 模造品の花飾りが黒く無惨な色に塗れそぼっていく。


「海神よ、我らの生け贄を受け取りたまえ!」


 ヤギの血にまみれた花飾りをイアルの頭から取り外したミルザーはそれを海へと大きく投げ込んだ。次に助手に命じてイアルをロープで縛りはじめた。

 なんとか我慢していた“アルメリカ”が飛び出そうとするのを――すっと、ハルの右手が引き留めた。


「ハル、あれ以上は……だめだ!」

「船乗りってのは何かしらこういうことをやりたがるんでさ」

 ハルが、強張っている“アルメリカ”の顔を見て淡々と説明した。

 彼の黒目がこう言っていた。「御辛抱を」、と。

 それにこうも言っていた。「貴方以外の者の生死など、知ったことではない」と。


 荷下ろし用の滑車にロープがかけられた。イアルは外聞もなく泣きはじめていた。

 船員たちは、自らの代わりに生贄になったイアルを見て苦しむシャオの姿をじっと見ていた。

 瞳の奥を暗くぎらつかせて……責めるように。あるいは、愉しむように。


「……だめだ!」

 ハルの元を飛び出しミルザーの肩に手をかける。

 その動き……相手の先手を行く的確さに驚いたのは、“アルメリカ”自身だった。

 まるで空気を動かさずに動くハルみたいだった。

 ミルザーも完全に不意を突かれて驚き、怒り損ねたという風情だ。


「ミルザー、頼むから待ってくれ。彼をどうするつもりだ?」

「決まってますよ……帆桁の端から海中に沈めるんです。ほら、例の私の父の船では船長が自らその役を勝手出て船底くぐりをやってのけたって言ってましたよ」

 意味がわからず、ハルを振り返る。するとハルすらも珍しく渋面になっていた。

「ああ、船底の竜骨の下をくぐらせ、反対舷から吊す刑罰でさあ」

「そんなことをして大丈夫なのか?」

「いいえ、全然。奴の父親が乗っていた船とやらはまともじゃなかったんでしょう」

「ほざくなミアンゴ野郎! お前がタバック船長をハメたことは分かってるんだ!」

「ミルザー、いま話をしているのは私だ、言いたいことがあるのなら私に言ってくれ。もう十分だ。ヤギをささげただろう?」

「ヤギ? 王子……この世でもっとも高貴な魂はヤギなんかじゃない。人間だ!」

「それは……違うと思う。動物も、植物も、人間も、魂の本質は同じだ。そこに優劣はない。肉体は魂の入れ物に過ぎない。どちらが欠けても、だめだとは思うけれど……」

 "アルメリカ"の反論に弱気が混じるや、ミルザーが黄ばんだ歯列を剥き出して嗤った。

「じゃあ、なんですか? チーズにわいたうじ虫と人間の魂が同じだとでも?!」

「わたしが言いたいのはそういう見かけのことではない! 人間は、他の動物たちとは違って広く世界を眺め、自分自身を知ることが出来る……そこだけが特別なんだ。鳥の目から見下ろすように遠くから見つめてみるんだ。ミルザー、貴方はイアルを瀕死になんてさせなくても、海と渡り合える強い海の男だ。そうだろう?!」

 その時、滑車につながれたままだったイアルが身じろきして金切り声をあげ出した。

「皆、見て! あれを、海の中が、光ってる!」

 確かに、右舷前方の海面が妖しげな青緑色に一斉に瞬き、そして一斉に消えた。

 雷雲の中で光が明滅するのにそっくりだった。でも今は凪いだ海の上で、何の音もしない星空の下なのに。


「あれは海魔王のしもべ、海で死んだ亡者たちの魂だ、生贄の催促に来やがった!」

 ミルザーが恐怖と歓喜のないまぜになったような声をあげて船首楼への梯子階段を駆け上がった時である。

「おい、お前達何をやっている?! なんだこれは……くそっ、異教徒どもめ!」

 誰かが知らせたのだろう、非番だったバックスが専用船室から出てきて、ミルザーの扮装を一目みるなり飛び掛かろうとした。


 我に返った“アルメリカ”は、両者の間に飛び込み―――笑みを浮かべた。


「バックス! これは……ちょっとした習慣の相違だ。だがもう解決した。非番の最中に驚かせてすまない。それから、大事なことを言う。この船では信仰の如何も問われはしない。私も同じく異教徒同士だ……わかるな?」

「……了解です。失礼しました、王子」


 バックスはミルザーの奇怪な姿を睨みつけ、主舵の後ろで傍観しているアンセルにも気づいた。視線をしばしかち合わせたのち、二等航海士が先に踵を返して行く。


「王子、すみません、すみません……!」

 解放され、抱きついてきた血まみれのイアルを“アルメリカ”は受け止めた。

 王子の絹布の美服に山羊の血がついた。

                 

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