3-11. 風向き

 赤道越えの祝いの夜とは一変……

"儀式"ののち、聖なる囚人号の船内は不穏な空気に包まれてしまった。

 ただ、ようやく南からの風が吹き始めたことだけが幸いだった。


 何かに備えるように息を潜めたスタイフェルに、顔つきの変わった船員たち、イアルがシャオ王子を見つめる熱っぽい眼差し……

 "アルメリカ"が理性的な話が出来る相手は、ハルだけになった。

        *

何はともあれ船は西進を再開した。

それまでの停滞が嘘のように満帆(クロースホールド)で未知の海域へと快走し始めたのだ。


 "アルメリカ"が解決すべきことはもう一つあった。 

 あの、夜になると光る海中の青緑に光る水(船員たちは死霊の魂だと信じきっていた)の正体を掴むことだ。


 ひとまず船尾甲板で船速測量用の錘のついたロープを引っ張りあげ、付着物を観察してみることにした。


「ただの海藻しか引っかかってこない。海藻なんかが一斉に光ったり出来るとは思えないし……もしかしたら、冥海の水、そのものに秘密があるのかな……」

 いずれにしても、死者の魂の群なんかではないと断言出来る。

 いまだに解明されていない、世界の秘密の一つに過ぎないと。

 しかし今、船長としてそれを名言するのが、なんだか恐ろしかった。

 理性で正しいと思うこと明言するのが恐ろしい、なんて今まで考えもしなかった。

(それに、わたしだって……本当に理性的といえるの?)


「海藻じゃああっしの手にも負えませんが……船内の害虫退治くらいならば、いつでも」

「……ハル、ミルザーを拘束するのは本当にどうしてもって時にしたい。とにかく赤道は越えたんだし、航海だって順風だ。だから彼も大人しくならないかな……って」

「あやつは航海の無事より、貴方様の”魂”にご執心のようでしたよ」

 ハルの言葉で、船上で過ごすうちに半ば忘れかけていた事実を思い返した。


(わたしの、魂? ここは、わたしの魂のあるべき場所じゃないのに……)


「それだけじゃありません。ミルザーに同調した半数近い水夫が、船長に対して反乱を企てている可能性がありますよ」

「反乱って……何をするんだ? わたしを殺すのか。引き返せとでも言うのか」

「いいえ。今じゃこの船もウィンドルン総督の鳴り物入りですしここまで来たら奴らとて先に進みますって。代わりに死に損ないのイアルや目障りなあっしを排除し、貴方を自分たちの支配下に置いて安心を得たいんでしょう。でも……」

 ちら、とハルは“アルメリカ”を見つめ直してから付け加える。

「……貴方様が思ったよりもしっかりなさってきたから“手”を出しにくくなっているんです。実は、迷信に弱い一等航海士(アンセル)はずっと見て見ぬ振りでしょう。信頼がおけるのはせいぜい骨のある二等航海士(バックス)ぐらい……やはりこの海域にゃ魔が潜んでおりますね」

「信条は人それぞれだから、仕方がない……そう、思ってきたけれど」

 宗教にあまり固執しないと言われるマーカリア人たちだが、マーカリアがレグロナに対して起こした独立戦争は元はといえばエルド教の主神をめぐる宗派の違いだったという。

 同じ神の元でも争うのだ、ましてやここは、諸外国の人々が集う狭い船上である。

「嵐の中に入った瞬間、あっしらを押さえつけるつもり……かも知れませんねえ」

 ご覧なさいまし、とハルがまるで空と海の仕切屋のように指さした先を”アルメリカ”も見た。

 西の水平線上が真っ黒になっていた。それが時折、白く荘厳に明滅する。

 遠い稲光を見やる横顔を冷たい海の飛沫が掠める。風は徐々に強まっているようだ。

 ハルが両腕を広げ、全てを吹き飛ばすように風を受け止め、湿った空気を吸い込んだ。

「ああ、この風、嵐の前の空のざわめき、あっしはこれが大好きでしてね! 生きているって感じがしやせんか?」

「本当か? 良かった」

「へえ?」

「その……いけないことなんじゃないかって思っていたんだ。嵐がくる前って、怖がりながらもわくわくしてしまう自分がいて……」

「この辺りは暖流が渦巻いているようです。だからぐんぐん温くなって、ああいうタチの悪い嵐がポコポコ出てくるんでしょ。そりゃあ気分も浮き立ちますって」

「冷たい海の水が流れ込み、暖かい海と混ざりあうところ」


 言いなおした瞬間に思い出した。ヴェガ……今は遠い友の言葉を。


「……我々が目指しているのはそういう海域だ、ハル。総督の話ではそろそろだって!」

 ”アルメリカ”は錘つきロープを放り出し、急いでアンセルを呼んだ。船長の意図を聞くや、彼は船員語に直してから復唱した。

「野郎ども、軽量帆を畳め! 右舷開きでケツまくってずらかるぞ。バカ野郎、作りかけの船首像みてえに突っ立ってるんじゃねえぞ、下舵いっぱいだ!」


「一応、今は回避するんですね」

 策を引き、縮帆のためにマストを登って行く船員たちを上甲板から見渡しながら“アルメリカ”は頷く。

「わたしに前に、言ったな……この世界で一番強いのは、貴方とわたしで、オリエンタではない、と。でもこの大海原をこんな船で……木板一枚きりしか海と隔てないで呑み込まれそうになっているとそれが揺らいできてしまうんだ。やっぱりわたしなんて取るに足らないちっぽけな存在で、この航路(みち)も本当はどこの海にも繋がっていないんじゃないか……って」

「あっしの前だけにしてくださいよ? この期に及んでのその弱気」

「ハルだから白状しているんだよ……もちろん」

「エンカンダロスの輪なんてものは人間の想像力で考えたものに過ぎませんでしょう? じゃあ、貴方の想像上のマンドラ島はどこにあるんです?」

 え? と横のハルを見返す。

 謎多きミアンゴ国の彼に言われるとますます奇妙だ。

「その……大南海の真ん中、赤道の少し上……エンカンダロスの輪のすぐ近く?」

「誰もマンドラには“南”からは近づけない。その常識を、貴方は打ち破ろうとしているんでしょう。誰もやろうとしなかったことで、それだけで大変なもんですって」

「じゃ、ハルは? ハルにとってマンドラ島はなんだ?」

「そうですねぇ。今までは東西世界の要、魔香の産地……ぐらいにしか考えておりませんでしたが……さぞや胸がすくでしょうなあ、サンガラの王子が新航路でマンドラ島に到達したと、世界中を驚かせられるのなら。それを眺めるのも一興かと存じます」

「それはいい考えだ。たとえ王国が滅ぼされてもサンガラ人の魂は滅びていないって、皆にみせつけてやろう。わたしとハルで……この船の、みんなで!」


 "アルメリカ"は、自分でも強く、強く、そう信じこもうとした。

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