3-9. 海図の外へ

 タルサオラ港で船の改造を待つ間、“アルメリカ”は時折航海士たちに申し出て星の観測と測量について質問をするようになった。

 彼らはそんな王子をもう小馬鹿にはしなかった。

 日夜、陸(おか)と言わず海辺と言わず、ハルが仕掛けてくる熾烈な“鬼ごっこ”でひどく痛めつけられていることを知っているからだ。

 逆に、ひどく体を案じてくれるようになった。


 ハルはツバメというより本当は鶚(ミサゴ)なのではないかと思うほど抜け目がなく、しかも容赦がなかった。でも“鬼ごっこ”はまだいい方なのだ。

 最初の三日間、「まず自然に身体を動かすことからでさぁ」と延々同じ姿勢で立たせられたり、あるいは腕立て伏せなどをさせられていた時は、さしもの強健な身体も疲労困憊し、吐き気がして何も食べられなくなるほどだった。


「海の上で、一体どんなすばしっこい奴らと戦うおつもりなんです? ミアンゴ人があんなに強(こわ)い顔をしてるの、見たことなくって……皆心配しています、王子がその、事故に見せかけて殺されてしまうんじゃ、って……」

 筋肉痛に効くという軟膏を塗り込むのを手伝ってくれるイアルが心配と不審の入り混じった声で案じてくれる。

「あはは……そんな、まさか」

“アルメリカ”は笑って言った。笑い声で身体を揺らすだけで全身の筋肉が悲鳴をあげていることはひた隠して。

「これは、戦いというより神聖な踊りのようなものなのだ……私の故郷、サンガラの。彼の審美眼は人一倍厳しくてね」

「本当ですか? それにあいつ、僕や航海士たちが王子と打ち解けるのを見張っているんです。王子は自分だけのものだと思っているんですよ」

「それならもう少し、皆にも愛想よくしてくれるよう頼んでみるよ。たまには笑顔を見せるようにすれば……」

「……余計怖い気がしてきたのでやっぱりいいです、王子」


 自分からやると言い出したことだ。絶対に投げ出そうとは思わなかったが、朝も晩も半信半疑には陥った。

 自分がふがいないばかりに腕立て伏せと鬼ごっこだけで終わり、船のほうが先に完成してしまうかもしれない。

 ハルがようやく“アルメリカ”に刀を持たせ、抜刀や構えの練習をさせはじめたのはじつに七日目の朝からのことだった。      

 船は結局十二日目に改造工事を満了し、“アルメリカ”もどうにか立ち業(わざ)の入門ぐらいまではたどりつけた。

「ここまでついて来たのなら洋上の揺れる甲板上でも鍛錬が出来ますって」

 ”アルメリカ“はそうする、と約束した。

        *

 王子の衣装は、ハルと相談し最小限のものを残して売ってしまった。王子の思い出の品を独断で処分してしまうのは心苦しかったが貴賓船室はもう解体されてしまったし、少しでも無用な積荷を減らしたい。ただ磁器だけはバラストの一部として残してある。


 以前の海上の宮殿めいた峻厳華麗さはなりをひそめ、装飾的なものが削ぎ落とされた黒い船体は真新しい決意のようなもので磨き抜かれて見えた。

 修行の合間に"アルメリカ"とハルは並んで眺め、褒め称えた。


「この船も、ちょっと貴方様に似てきましたね」

「わたしはハルにも似てきたと思うよ」


 まるで進水式のような大騒ぎの中、生まれ変わった聖なる囚人号は船尾楼甲板に立つシャオ王子とハルの目の前で抜錨され、イム族の勇士たちが漕ぎ船を乗り出して沖合まで曳航していった。

 普段排他的なイム族がこれほど好意的なのは初めて見た、とエクシャナスも驚いたのち……神妙な声で種明かしをした。

「多分、あんたらが“死の旅”に出て行くってことを感じとってるんだろうよ……」

        *

 船は絶海に出れば出るほど海に浮かぶ神殿めいている。

 風のお告げ、星の囁き、絶え間ないうねりに感覚を合わせることが己を保つ唯一の術(すべ)。

 白く輝く積乱雲の真下は、真っ暗な嵐だという驚き。 

 航海には岸辺を目測しながら進む方法と、偏西風や季節風を利用して一気に海の真ん中を突き進む方法がある。より速いのは後者の航法だったが、風の吹く季節を知り風待ちの港を利用しなければならない。

 そして、いざ大洋の真ん中に出れば目印は何も無く、補給港も無くなる。特定の星を観測し緯度を観測しながらの天文航法に頼る他ない。


 出航して三日後、大波というより連続する丘のように襲いかかる大時化の中、ついに船は帰らずの岬を回った。強い北風が吹き荒れ、改良したばかりの帆柱がしなっているのを見て”アルメリカ”は久々に恐怖したが、乗組員に言わせれば風の神が我々にはついている、とのことだった。

 これより南、赤道へと向かう船舶は居ない。


 船長室船倉に下りて行くと、荷箱で作った急ごしらえの机の上を覗き込むようにしていたスタイフェルが顔を上げた。

 机の上で灯火ランプが振り子のように揺れるたびに影が室内をよぎった。 

 元々乏しい資源を節約する船の生活で灯火の油は最小限しかないが、“アルメリカ”はそれをさらに切り詰め、総督に回していた。彼は船倉の密航者身分をようよう抜けだし、船主兼海図係の任についている。

 ”アルメリカ”が記録盤をそっと脇に置くと、

「ああ、ありがとう」

 生返事の総督はすぐに航海地図に目を戻し、定規で新しい線を書き加えてみせた。

「ご覧なさい、王子。明日には我々はこの海図の外側に出てしまうんですよ」

 エクシャナスとイム族の頑張りによって風が変わりきってしまう前に出航出来たおかげだとスタイフェルは言ったが、声色に浮き立ったところはない。

「未知の海域の場合、陸を見ながら進むのが基本です。ですがアルヴァーロの航海記録を見ると、赤道境界を越えたのち何百タリクも西の海原へと向かっています。恐らく南からの強い向かい風が吹いているのでしょう。それを避けるために西に進んだのではないかと。精緻な計算だったのか、行き当たりばったりだったのかは図りかねる所です」

「どんどん西へ流されて……それから、どうしたんだ?」

「大きく左回りの弧を描いて、風上へ……東南へ回りこんでいます。彼は恐らくこの辺りで、何かしら未知の風を掴んだのでしょう。それはたぶん左舷側から吹いていたはずです。やがて《下半球》に突き出た西南陸塊の南東を巡る海流に乗り……」

 総督の、連日の手仕事でかさついた指先が“魔海帯域(エンカンダロス)の輪”が取り巻いているとされるあたりを彷徨ったあげく、止まる。

「しかし困ったことに、すでに我々の計算と彼の残した記録には少なからぬ誤差が生じています。彼は航海の専門家でしたが、計算が得意というわけではなかったようでして。ま、その微妙な間違いが図らずも、かえってこの記録が彼の“本物”だという根拠にもなっていますがね……目的地の緯度にそって直角に移動するのが航海の基本なのにこんな風に突然飛び出していって、未知の風と海流任せに回ろうだなんて……どうかしていますよ」

 ”アルメリカ”も、それがどれほど途方もないことか、わかっているつもりだった。

 西南陸塊についてはヴェガからいつも聴いていたし、タルタデス語も少し習っていたくらいなので、全く想像がつかないというわけでもない。

 だが大西海原のさらに向こう、エンカンダロスの輪の際までは冥海と呼ばれ、もはやこの世の一部とは考えられていない。


 この世の果てに向かって、たった一隻で何百タリクも進んだアルヴァーロ・ナルディアスですら途中で引き返した航路(みち)を自分たちは突き進む。

 エクシャナスや港人たちが狂人を見るような目つきをしていたのも、今なら分かる。  

 これは戦場におもむくよりもなお不吉な、帰る約束のない旅路だ、と。


「この先、我々に必要なもの、それは忍耐と、運と、風ですぞ……王子」

 まるで王子の畏れと逃げ腰の先回りをするかのように、総督が念を押した。

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