3-6.花の秘密


 ウィンドルンの街は大西海のほとりに咲いた大輪の白花にたとえられる。

 が、航海者たちに言わせれば、アガルスタ神王国が大南海をのぞむ中央海峡に開いた大港湾城塞都市アルナムこそが"世界一"の港であった。

 ここを見ない者は世界の半分も見ていないと口をそろえ、ここに無い物は世界のどこにもないと言い切る。


 中央大陸と大南海の商業と海運の中心を護る長大な大城壁は何者の侵略も寄せ付けない。

 その大城壁からつづく巨大な絵画でもあるかのように、波止場には何百種類もの大小さまざまな帆船や帆かけ舟がひしめき、帆の色味だけで画家のパレットが足りなくなりそうだ。

 九の月も中旬が近づき、東風の季節が終わりに近づいている。港の人夫たちの動きもどこか忙しない。


 輝く海の女神号はいま、グレンの指示で万国旗を掲げアルナムの沖合に投錨している。

 神像の襲撃で損傷をこうむった船体の修理と補給物資の積み込みを終え、中央海峡を抜けるための水先案内人を待っているところだ。

 頑なに入港をしていないのは、先日の罠をしかけてきたアルナム太守への無言の牽制であった。

 が、なにせ砲兵も乗っていない優美さだけが売りの船であるから、行き過ぎる船舶も、のどかな好奇の眼を向けてくるのみであった。 

        *

 “シャロン”はパンと魚の干物、それに豆のスープに、アルナム産の切ったオレンジを載せた盆を片手に持ち、船主の部屋にノックなしで入っていった。

「お昼よ、おじ様!」

 窓から遠く離れた壁面にある寝台は空だった。

 窓辺に置いた長椅子に座り込んでいる黒衣の姿を見、目が合う前に慌てて逸らす。

 机の上にわざと音を立てて盆を置いた。

「相変わらず強引ですわね、樽に押し込めた死者を、あっさりと聖人に祀り上げたり」

 ヴァーミのラルカンの遺体はグレンが船大工に発注した棺のうちの一つに入れられた。そして、悪魔払いで命を落とした聖人として港で大量の金袋と共に引き渡された。

 哀れなニルナの遺体もアガルスタのような全くの異郷に残していくよりは、と現地のエルド教神殿の司祭を招き、葬儀を行ってから丁重に水葬にされた。

「我々は急ぐのだ。あのようなことで足止めを食らっている暇はない」

 グレンが盆の上を見つめた。それだけで、内心、“シャロン”はほっとする。

 ここ何日かは食べ物を持ってきても見向きもしなかったのだ。


 魔物に噛みつかれてから丸二日、グレンは生死の境をさまよい臥せっていたが、幸い噛み傷自体は浅手であり、魔物や獣から受ける傷病に詳しいヴェガの看病が何より役だった。


 "シャロン"が長居は無用とばかり退室しようとした時だ。

「アルメリカ。今のうちに、貴女に私が伝えるべきことを全て伝える。そこに座れ」

 グレンが、テーブルをはさんだ向かいの椅子を指し示した。


 “シャロン”は動かなかった。いや、動けなかった。


「座れ」

 背筋を凍らせる、お馴染みの眼光と命令口調。

 うつむきながら従い、スカートの上で両手を握りしめた。

「ご相伴にしては物々しいわね」

「私が貴女に強いようとしていることで、貴女に無理をさせてしまったようだ」

 やはり、どんなに巧妙な演技をしていてもグレンは養女に違和感を感じていたらしい。

 無理なんてしていないわ……そう言い返すつもりだった。

 だが、言葉がうまく出てこない。

 自分がやっていることはどう美化しようとも嘘の上塗りだ。

 これ以上重ねて、どうする? 

「今日は本当のことを言って欲しい。私も、本当のことしか言わぬ。あの日……冥蘭が咲いた晩、セイミ・シャオに何をされた? いや……何を感じた?」

「……だからもう言ったじゃない、とくに、何も――」

「入来(イルライ)山の頂きには“イルライシス・マンドランシス”……私がそう西方語で名付けた”世界樹“と呼ばれる大樹が生えている。この樹とその根の及ぶ場にはマンドラの過去、現在、未来すべての祖霊が宿り、天と地と生命をつなぐ緑神(マンダー)がそれを導きたまう。冥蘭はこの樹に着生することで成長する幻の花だ」

 グレンが長椅子の端に積まれていたいくつかの本の一つをとりあげた。紐綴じの大判冊子……手製の標本図鑑の一つだった。

 骨ばった指が頁と油紙をめくると、あの夜、散ってしまったと思っていた冥蘭の白い花びらと葉が押し花にされていた。

「かつて大南海には知られざる魔法の大陸があり、それがマンドラ島を残してほとんど沈んだことは知っているな? ゆえにマンドラ島や東南諸島の限られた諸島には常識では考えられないような生物が残り、赤道を超えて突きだした西南陸塊にもその一部が残った。世に出回っている魔香材料のほとんどがそれらの地で発見されてきたものだ。中でも最も稀少かつ門外不出のものこそがマンドラのもので、とりわけ冥蘭の花……扱えるのはシュリガ族の神女だけ……神女の感情によってのみ、真の力を“開花”させる」


「……そう、だったの」

 

 この船で目覚めて以来、今ほど”シャロン“の自信が揺らいでいったことはなかった。

 そんなことはもちろん露知らず、グレンが続ける。


「私は、ある場所で手に入れた冥蘭の種を貴女の母上に返そうとした。が、お別れの際に持っていけと言われた。でも決して植えてはならない、とも……蕾をつけてもなお、本当に開花する可能性は低いと思っていた。花は貴女の“愛”の力に応えたのだ」


 “シャロン”はまず自分の耳と、何よりも叔父の精神状態を疑った。


「あ、あの、おじ様? 聞き間違えたのなら許してほしいのだけれど……あ……“愛”? 愛って、仰った?」

「貴女の力に呼応したにせよ、冥蘭がウィンドルンでも咲いたことには意味があるはず。なぜなら、冥蘭は世界樹と深い関係にある。世界樹は、かつては世界中の大陸のすべてに根を行き渡らせていたという伝承がマンドラにはある。そしてその秘密の暗い道を神秘の力や精霊たちが盛んに行き交った……」

 まるでその暗い道の奥を睨め付けるような眼光をグレンが浮かべる。

「私は、タルタデスの南端部を旅した時に異様な光景を目にした。井戸が枯れ、植物が動物を襲い、飢えた人々が離散していた。あの大地はおそらく古代大陸の陸地のかなりの部分が衝突して形成されたのだ。調査半ばで引き上げてくることになったが……防ぐ手立ては見つかっていない」

「もしかして、ヴェガはその方法を探して、おじ様に協力しているのね?」

「彼は……私や、他者の一存如きでどうにかなる男ではない」

 否定とも肯定ともつかない返答をしながらもグレンは話を進めた。

「マンドラの修行者や王族たちは古来、世界樹のある天上の庭園で緑神にまみえることを最高の功徳と考えている。私はかつてそこに至り、緑神を見たことがある……行きたいと願っても誰もが行ける場所ではないことは後で知った。下山するや否や、私の目の色の変化を見た住民たちに聖人として崇められてしまい、商売にも支障を来すようになってしまった」


 確か、ハルによれば魔術師か仙人か聖人でもない限り、魔香が効かない人間は存在しないということだった。

 グレンは、まさにその聖人だった。

 今更わかっても遅いが、あんまりな真実だ。


「マンドラで私が師事していた大僧正は私に仰った……私が見失ったものはいつか必ず海が返してくれる、緑神に触れた者にかけられる慈悲によって、と……冥蘭が咲いたことは、吉兆である、はず……っ」

 その時。

 淀みなく語っていたグレンが背中でも刺されたようにのけぞり、かけ布を掴んだ。“シャロン”は一挙に血の気を引き、立ち上がる。

「だ、大丈夫?! 傷が痛むの?!」

「……なんでもない」

「でも、なぜ? なぜおじ様は、植えてはいけないと言われていた冥蘭の種を植えたの?」

「………」

「わたしが……セリカお母様の血を引くわたしが居れば異国の地でも咲くと思ったのね、お母様との思い出の花が!」


 グレンは答えない。

 いや、答えることが出来ないようだった。

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