3-5.ハルとの約束

 船の大改造に伴う陸(おか)での思いがけぬ足止めは、船員たちにとってだけではなく“アルメリカ”にも嬉しい休息となった。


 ウィンドルンを離れてしまってから初めての湯あみを終えた。

 衝立の陰に運び込まれた浴槽で、身体は十分火照っていた。住民が精いっぱい供出してくれた柔らかな綿布で、一人で拭きとった。

 ここは宿屋の二階の大部屋で、王子のためにまるごと当てがわれている。聖なる囚人号から運びこまれてきた調度や衣装箱、華麗な姿見を見ると、奇妙に心が落ち着いた。

 ついこの前まで一秒でも早く船を降りたいとばかり考えていたのに、今は少し、船が恋しくもある。


(これから、最短で十日間、か。その間どうしようか?)


 姿見の中から、濡れそぼった黒髪の青年の青い双眸が不安げに見つめ返している。

 最後に”お会いした”時よりも幾分目が落ちくぼみ、頬に翳があるけれども瞳から輝きが失われたわけではなかった。しかし。

(このままじゃ、王子様がしおれていってしまいそう。わたしが鈍いせいで……)

 

 王子の腕……引き締まった筋肉が陰影を落としながらも滑らかな上腕や、なまめかしいほどの首筋や鎖骨を見つめる。

 始めの数日はとにかく目に触れるだけで恥ずかしくてたまらなかった。

 けれども今は無心に、美しいひとだと眺められる。

(それに王子様は綺麗なだけじゃない、じっとしている人じゃなかったんだ)

 この身体を見れば彼が日ごろから体躯を引き締めていたことがわかる。

 なぜ? もちろん、世界のどこまでも旅して行けるように、だ。


(あの時……)

 "アルメリカ"は、酒場で、この肌で感じた感触を思い出していた。


(あの時、ハルはスタイフェルさんが何を言うのを恐れていたのだろう?)


 そして、もしもの時はいったい誰の息の根を止めるつもりだったのだろう。

 以前の"アルメリカ"なら、用心深いハルが発したほんの微かな殺気に気がつかなかったかもしれない。

 でも、いつもハルといた時間や航海が、陸では無防備でしかなかった"アルメリカ"の感覚を鋭くしてくれたのかもしれない。


(スタイフェルか。それとも……わたし、だったのか)


 ふつふつと、ある思いつきが胸の奥で熱を帯び始めていた。


 着替えを済ませ、廊下に出て隣室に向かった。

 夕暮れというには暗すぎるが、雨音は小降りになっている。

「入るよ、ハル」

 寝台の上で膝を身体の下で折りたたむような独特の姿勢で座り、じっと虚空を見つめていたハルが、すねた子供みたいな態度で振り向いた。

「御用なら、呼んでくださればよいのに……」

「……どうしたんだ? なんだかつらそうに見えるけど」

「つらそう、ですって?」

 ハルが細い目を見開き、怒っているような奇妙な表情をした。"アルメリカ"は少しひやりとして、思っていたのとは違うことを口走った。

「その、膝……痛くないのか?」

「あ……これのことでございますか。これは単なる東方座りでございますよ」

「昼間は、ハルがあんなに強かったなんて知らなかったよ」

「そりゃ、隠してましたからね」

「どうして?」

「だって怖いでしょう。四六時中、御自分のそばに、簡単に人間を叩きのめすヤツが居るってことですよ? 怖くないんです?」 

 ”アルメリカ“は思わず笑い出しながら答えた。

 辺りが暗いと声も自然、落ち着いていった。

「大丈夫、わたしはいつも、わたしよりずっと大きくて、強くて、でも本当に優しい人達の側で過ごしてきたんだ………って、そんな気がする。それに正直あの時はすかっとしたよ、きっとサンガラ人としてね」

「あっしは大きくもなけりゃ優しくもありませんがねぇ?」

 どこかおどけるようにハルが肩を揺らす。

 "アルメリカ”はハルにも優しいところがあると信じていたが、今ここで口にしようとは思わなかった。

 彼は言葉よりも心を読む人だ。

 だからきっと、少しは感じてくれていることを願って。


「その、わたしは……わたしはずっとハルに頼りきりだった。とても感謝している。でも、いつまでもこのままではいられない」

「へえ?」

ハルはちゃんと聞いてくれている。

勇気を振り絞った。

「手始めに、少し身体を動かしてみたいと思っているんだ。船のマストの上り下りをしてみても船員たちは驚かないだろうか?」

「は? シャオ様が上り下り? それは……以前の御身分ならともかく、貴方は今は船長様ですからね。水夫や船大工たちに余計な気を遣わせやしませんかね?」

「そ……そうだよ、な。泳ぎの練習をしようかと思ったがいまは毒クラゲの季節だそうだし……」

 容赦のない光を浮かべたハルの黒い目に圧され、ふくらみかけていた勇気もしぼんでいく。


「……やっぱりわたしは、皆に迷惑をかけないようじっとしているべき、だな」

 邪魔をした、と引き返しかける。

 すると存外に、王子、と呼び止められた。


「――それじゃあ、あっしと刀の稽古なんていかがです?」

 光を呑みこむようなハルの物静かな黒目が、今度は鋭い錐のように自分を射抜いている。


 全てを剥ぎ取られ、曝け出されるような……極限の感覚に全身が震えた。

 恐怖でも驚きでもない。

 なんだ、これは。


「か……カタナ? その、ハルがいつも持っている刀、ということか」

「へえ。以前の貴方はお自分の美しさを武器に使う術を心得ておられた。だからあっしも刀を抜く必要もまれでしたし護身術を教えて差し上げる必要もございませんでした。とはいえ弟子なんかとったことありゃしませんからどうなるやらわかりませんよ? あっしの言うことを、信じてくださっておりますか?」

「も、もちろんだともハル」

「まあ、実の所、貴方に教えて差し上げられることはたったの二つ。一つは……すなわち、この世界で一番強い者が誰か、ということでございます」

「……東方大王(オリエンタ)?」

 違います! とハルが笑って否定した。

 心臓が凍りつきそうな心地がした。

 それが初めて見たハルの心からの笑顔だった、と、後から理解した。

「違いますって。貴方であり、手前でございますよ、シャオ王子」

「わたしと、ハル?!」

「そうです、自分を信じるものが一番強い、ほかの誰に負けるというのです?」

「もう一つのこと、とは?」

「何を於いても風上に立ち、太陽を背にすることです。海の狩りの基本と同じでさあ」

 ”アルメリカ“は目の前のハルが急に人間(ひと)になってくれた、感じた。

 これまでの彼は、ただ従順に、こちらに合わせて動いてくれていただけだった。

 まだ波打っている心臓の音が、きりきりするものから弾むような心地に変わっていく。

「眼のあるうちはよぅく開いて世界をあるがままに。眼なきときは心を澄ませるのが肝要にございます。貴方様はもうただのサンガラ王国の生き残り王子じゃございません。貴方は……やがてはこの世界の意志になるべき御方なんです」

 予言めいた言葉は理解することが難しかった。それでも頷いてみせる。

 ハルがよっこらせ、と寝台から降りた。

「……じゃとりあえず表に出てもらいましょうか」

「今から? まだ雨が降っているけれど」

「だって、あっしが三十年かけてやってきたことをたった十日足らずで貴方に教えなきゃならないんでございますよ?」

「ハルっていくつなんだ」

「秘密です。何も王子を伝説の暗殺剣使いにしようってんじゃありませんが、目指す所は“ツバメの舞い”です。ツバメ、見たことございます? 中々古巣が忘れられない困った所もある鳥ですがね、ともかくあの軽々とした飛翔を思い描くんです」

 ツバメの飛翔。

 もしも、自分がそうなれたら。

 おののきは、やがて歓喜に変わっていった。


「……わかった、ハル。わたしはツバメになってみせる、強くて素早い、ツバメに!」

 傷ひとつない美しい手を、体をぼろぼろにしてしまうかもしれない。でも。

 そっと、握りこぶしにした。王子と一心同体になった自分の、手を。


 戸口で、イアルに行き遭った。

「王子様? こんな時間に、どこへ……?!」

 彼はそのまま、夜の雨中に出て行く主従を困惑したように見送った。

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