2-7.船上生活

 安心を生み出す壁はもうどこにもない。

 揺れないベッドも、世界中の秘密が詰まった素晴らしい本棚に囲まれた静けさも、お庭や植物園から浴びるように感じていられた植物たちの安らぎも……

 養父の淹れてくれる茶の優しい芳香も。


“アルメリカ”は、瞳を焼き焦がすような強い陽光の下で目をすがめた。


 遮るもののない蒼空と、シャオ王子の瞳と同じ色をした海の波間を飛ぶように奔る“聖なる囚人号”……自分だけが異常事態のままだ。

 代わりに手にいれた、非の打ち所のない強健さと美しさをあわせ持つ人の身体――噂に聞く船酔いにも疲れにも無縁でいられた。

 シャオ王子として目覚めてから二度夜が過ぎて行った。彼の中身が弱気な”アルメリカ“だなんて、自分自身でもいまだ信じられないくらいだった。


 どうにかあのとんでもない場所にある貴賓船室から船尾楼甲板との行き来は出来るようになったが、帆縫いをする甲板夫の横でよろめいたり、船首と船尾の方向を間違えて行ったりきたりする失態を見せるたび、乗組員たちからの刺さるような視線を感じ、どんどん気が重くなる。

 そもそも“アルメリカ”は総勢四十人にも上る男性たちと、こんな狭い空間で衣食住を共にしたこともないのである。


「出来ることが思い出せないんなら、どうぞ舳先の近くに立って物憂げに水平線でも御覧くださいまし、舳先がどっちかはいい加減おわかりですよね? 嫌味で言ってるんじゃございませんよ、御身の魔性の如きお美しさにはある種の神通力が備わっておいでなんです、立ってるだけで絵になるってなもんで……ま、なんとかなるでしょう、へえ」

 ハルの助言に従い、潮風に吹かれ、太陽を浴び、星を眺めた。

 憧れていた船乗りの生活が現実になった。その驚きで心躍る瞬間も確かにあった……

けれども。

        *

 船上では二時間ごとに鳴らされる鐘の音、それに太陽と星だけが時を刻む。当直(ワッチ)は四時間ごとに組まれ、船員の等級によって担当する時間が組まれている。

 大雑把にいって、一番視界が悪くなる日の出と日の入りの時間帯が熟練者たる航海士たちの担当だ。

 日の出と共に彼らは甲板を洗った。ブラシを両手に掴んで頭を垂れたり、上げたりを繰り返す彼らはよく大声で歌を歌った。

“アルメリカ”は彼らの歌を知らないし、当直にも入っていない。

 何かを期待されても困るが、何も期待されていないことも、空しかった。


「それにしてもトンズラしたのはいいが、袋の鼠だ。艦隊が追ってくるに違ぇねえぜ」

「そうかあ? 奴ら帰らずの岬の大嵐にビビって追ってこれねぇんじゃねえのか? マーカリア人にゃ生まれつきタマが付いてねえのかもしれねえ」

 ケラケラと、新しい甲板長がこれみよがしに聞こえるように嗤っている。

 彼らはとにかく“タマ”という言葉を頻繁に口にする。

 それが何か“アルメリカ”にだっていい加減分かっている。生理現象に従い用を足すときは完全に目をつぶっているから王子の身体に失礼はしていない。それに他にも乙女なら耳を塞ぎたくなるような単語を日に何度も耳にしている。

 もはや何の恥じらいも感じない。

 恥じらいなど初日のうちに贅沢品と化した。


「タマ無し総督野郎の手からタバック船長とラシードをどうやって取り戻す?」

「王子が助けを求めりゃ、どこかの艦隊が動きそうなもんなんだがな……」

 しかし、船員たちはそこでちら、と、船首楼甲板でハル一人を連れ、ほぼいつも直立不動になって海を見ているだけになった王子の背中を伺う。

「……マーカリアでタマを失くしちまった御仁がもう一人、いるみてぇだけどな」

 "アルメリカ"は、彼らの刺すような視線に気づかぬフリをして振る舞うのが精一杯だった。


 朝八時。当直が一巡する時間であり、毎日全体集会が開かれる。

 つまり、この時ばかりは船長が御言葉を発しなければならない。

 この日の朝も甲板上にはすでに醒めた空気が流れ、船首像の前……船長の立ち位置に立たされた”アルメリカ“は固まっていた。

 固まりながらも確信していた。

 やはり、王子の魂が“女”であることを白状するのは今よりもまずいことになると。

 海の女神や女妖の嫉妬を恐れて、航海者たちは女を船に乗せたがらない。でも”アルメリカ“には何より、彼らの憎悪や屈強な肉体そのものが恐ろしい。

 船への指示は横のハルがまず小声で囁き、それを”アルメリカ”が一等航海士のアンセルに伝え、アンセルがそれを甲板上に向かって声を張り上げるという何だかどこかの時代遅れな宮廷みたいな雰囲気だった。


 北方人のアンセルはほとんど白に近いような短い金髪をした快活な海の男で、一見したところ”アルメリカ”のことを変わらず敬ってくれている。一等航海士は積荷の管理と船長の補佐を担当し、いざというときには船長にもなれるのだという。

 がっしりした体格に顎髭をはやした二等航海士のバックスは、西方大陸と北海の間にある島国ウェスリア出身だ。思慮深そうな性格ながらまだ“変貌したシャオ王子”への態度を決めかねているようだ。彼は航海計画や航海機器の管理をしている。

 三等航海士ミルザーは砂色の髪に褐色の肌をしたアガルスタ人である。冷ややかな灰色の目で時折鋭く”アルメリカ”を見据えている。首から穴の開いた石に皮紐を通して作った貴石護符(ロンダリオ)とガーラ教の神像の首飾りとを二重にかけている。

 最低限この三人の航海士とはうまくやってくださいよ、とハルにきつく忠告されている。


(でも……怖そうでも、ヴェガよりも大柄で強そうな人は、一人もいないわ)

 それだけが、“アルメリカ”が持てるただ一つだけの強みであった。 


 定点報告が終わった直後、待ち構えていたように三等航海士ミルザーが発言した。

「王子、貴方は本当にタバック船長が自分の船を燃やそうなんて考えたと思ってたのか? あんたの飼い犬のミアンゴ野郎がそうのたまったせいであんないい船長が監獄にブチこまれているんだぞ! 拷問されて、吊されでもしていたら……」

「マーカリアの法も、総督も、そんなに横暴じゃない……」

「やけにマーカリア総督の肩を持つな」

「まったく。給金はきちんと払ってもらえるんだろうな?」

 レグロナ人の甲板長ブランまでもが同調し始めた。

 急いで横を見やる。ハルが”アルメリカ”にだけ分かるほど微かに頷く。

「このことについてはあとでじっくり話し合いましょう。ブランさん、給金の件はすぐにお知らせします。ウィンドルン側とも交渉して……」

「交渉? 交渉も何も、奴らは黙って砲弾をブッ放してくるに違いないぜ」

 もっともな意見だ。しかし内心で”アルメリカ”は首を傾げてもいた。

 港からの逃亡者を追うにしてはマーカリア艦隊の動きが遅すぎやしないか、と。

 集会が終わり、肩を落として船室に戻ろうとする”アルメリカ”にイアルという名の若い見習い水夫がそっと近づいてきた。

「王子、大丈夫ですか? お身体の具合は、もう?」

「あ、ああ。心配してくれて、ありがとう。もう、大丈夫」

 いそいそと言い置いて船室の扉の前で待っているハルの方に駆け寄る。親愛さをいっぱいに浮かべていたイアルが傷ついたような顔をしていた。


 船長室への専用の舷梯(げんてい)は、船長と航海士、および“臣下”のハルしか使うことは出来なかった。他の船員は皆、船尾楼甲板にあがる時には左舷の舷梯をつかう。それを“アルメリカ”は身を持って覚えた。

 一度左舷側を使ったら白い目で見られたのだ。

 彼らが船長室に入れないのと同様、“アルメリカ”もまた、下甲板にある非番の船乗りの居住区に立ち入ることは出来ない。


 狭い船上にも見えない“縄張り”や力関係が存在する。"アルメリカ"はまるで、船というより蜘蛛の巣の中で生きているような心地しかしなかった。

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