2-6.魂のゆくえ
食堂を出た"シャロン"は、苛立ちのあまり足を止め、隔壁を拳で打ちつけた。
「冗談じゃないぜ、なんでおれが、見ず知らずのガキに嫁ぐ羽目になるんだよ?!」
可愛らしくも混乱しきった怒声にぎょっとして我に返る。
大丈夫、誰にも聴かれてはいない。壁にギリギリと押し付けていた小さな拳も慌てて引っ込めた。
この汚れなき乙女が一体、なにをしたというのだ?
ペテン師(“シャオ王子様”のことだが)に誘拐されそうになったり、蛇の怪物に襲われたり、養父には山に登れだの神女だか嫁だかになれだのと命令されたり……
今しがたの自分の反応はお手柔らかに過ぎたのではないか? いっそフォークをグレンの取り澄ました額に投げつけてやるべきであったか。
再びしずしずと甲板へと歩き出しながら、顎に手を当て、考え込む。
(だいたいジャルバット王っていったら、”マンドラの残虐王”じゃないか!)
いまや南海に悪名を轟かせる狂王である。なにせ反逆者を生きたまま食うとか言われているとんでもないやつだ。
(そんなところへ、大切な養女をやるのか? 本当に血も涙も無い男だ。アルメリカの母親……セリカ、だったか。一体グレンとはどういう……)
女っ気皆無な叔父だと思っていたが、どうやら認識を改めた方が良さそうだ。
強烈な太陽に照らされた甲板に出た瞬間、目を細める。
温かい海風が、白銀に変じ、より輝く少女の髪を乱すのを手で整えた。
水平線をなす海の青と空の青が、右舷に広がる陸地から吹き寄せる黄金色の砂塵のせいでぼんやりと堺目を失っている。
岸部には滅多にお目にかかれない壮麗な帆船に向かって手を振る現地人たちの安穏とした姿……
いつもと変わらず、世界は目の前にある。皆、疑いもなく地に足を着けて生きている。
なのに自分は。どこかに属しているという実感を欠いたままの漂流者のよう。
本物のアルメリカは入れ替わり先……シャオ王子の中にいるのだろうか?
今頃彼女は汚れた牢獄の壁に囲まれ、泣き暮れているかもしれない。
どうすればいいのだ、どうしてあげれば――――?
あの夜の庭園での自分はセイミ・シャオとして振舞うのが精一杯だった。しかし、シャオ王子としても失格だった。なにせ雇い主やハルの意向に逆らい、誘拐を諦めたのだから。
(どうせおれの人生は壊れた羅針盤みたいなものだった。でも自分だけならまだしも、あの子の人生までめちゃくちゃになるなんて……)
急に倦み疲れた心が闇に落ちるように深く沈降しかけたその時である。
「もうっ、何だって、飛び入り女が一等船室で、わたくしが二等なのよっ?! 来るんじゃなかったわ! ……あらあ? 誰が盗み見しているのかと思ったらアルメリカお嬢様じゃない!」
驚いたことに“シャロン”も帆柱の向こうに立っていた金髪娘を知っていた。
王子様歓迎昼食会で堂々と真横の席に陣取り、やたらと媚びを売って全員を辟易させていた娘。名前は……
「まあ……ごきげんようレオノラお姉さま! 船の上でもお元気な貴女のお声、まるでカモメたちが陽気につがっているのかと思いましたわ」
知り合いに会えて、束の間"シャロン"は嬉しくなった。隠微な笑みを浮かべながら楚々と接近を開始する。
一方、高慢さを露わにしていたレオノラはなにか想定外のものでも呼び込んだかのように身を竦めていた。
「な、なに?! 何が何ですって? 貴女、なんだか……」
「いえ……どうかなさって? お姉さま。船酔いで、舷側を覗きこんでいらっしゃったの?」
「ち、違うわ! 貴女こそ、いやに慣れた歩き方ね、そこら辺の水夫みたい! それにその髪は何事なの? 髪型は……かっ、可愛いけれど、御婆さんみたいな色よ。貴女の大事なタルタデス人のお友達との馬乗りごっこには飽きてお色気を出すことにしたってわけ? やっぱり、ね。あんたは猫を被っているって思っていたわ!」
”シャロン”は目を丸くしてみせた。
「お姉さまは、ご自分の従僕の乗り心地には満足していらっしゃらないようね?」
「そっ、そんな下品なことをわたくしがしているわけないでしょう?! 貴女とは違うのよマンドラ人! 貴女は闇宰相がマンドラ人の使用人に生ませた娘なのよ。それがバレそうだから、本国に送り返されるんだって皆が言ってるわ!」
そんな噂が立っているとは。不快感を感じつつ、
「それじゃあお姉さま、貴女は一体、なぜここにいるの?」
「“蒼の乙女会”の研修旅行に、前日になって無理やり飛び入りしてきたのは貴女たちの方じゃない。保護者も保護者なら、娘もまったくいいご身分ね!」
なるほど、と"シャロン"は納得した。
昔から、蒼の乙女会はウィンドルンでは有名だ。未来の“聖女”候補たちの旅行計画に、グレンはアルメリカのマンドラ島帰還を迷惑も顧みず紛れ込ませたのだ。
「ねえレオノラお姉さま……未熟な小娘のアルメリカに、教えてほしいことがあるの」
小さく歩みを進め、舷側に立つレオノラに近づいていく。柔らかな身体同士がそっと触れ合った瞬間、息をつかせぬ速さで手をレオノラの両の頬に添えた。
表情にかかる金色の髪もそのままに、十分美少女の部類に入る乙女が、"シャロン"の小ぶりな手の中で雛のように捕らえられていた。
うっとりと、微笑みかける。
「なっ、あのっ?! なにを……っ」
「しっ……お姉さまのとても綺麗な金色の御髪をよく見ていたいの……ずっと、お姉さまと仲良くなりたかったわ、だって一人って寂しいの……お姉さまにはアルメリカみたいな小娘じゃ物足りないわよね? でも、でも……ああ、もうだめ!」
だだをこねるように、引き絞られたドレスの腰に強く抱き着き、胸に頬を寄せる。膨らみかけた胸の感触に、逆にひやりとする。
上目遣いに小声で囁いた。
「お姉さま、怖がらないで……アルメリカのこと、そんなに嫌?」
捕われのレオノラが大きく息を喘がせながら、首を振った。
「い、嫌じゃないわよっ、本当はいつも貴女のこと、見ていたのよ、どんな時もとても気品がおありで……わたくし、“品が無い”ってお母様に叱られてばかりなの……皆わたくしを取り巻いているけれど、それはわたくしが機嫌を損ねると自分の親の地位が危なくなるからだわ。貴女にも嫌われているものだとばかり……」
「まあ、なんてことでしょう。なんていってもわたしの保護者は史上最低最悪に陰険な闇宰相でしてよ? 貴女のお父様なんてこれっぽっちも怖くなんてありませんわ!」
「貴女がフレイアス卿のことをそんな風に言うなんて珍しいわ……」
「うふふっ、お上品さなんて楽しく生きていられればどうだっていいじゃない? わたしだってたまには悪い子になりたいのよ、お姉さま……」
“シャロン”は密着をゆっくりと解いていった。
頬を紅潮させたレオノラがよろめく。
「アルメリカさん、本当に……わたくしとお友達に?!」
「うん……わたしたち、ただ仲良くなれば良かったのよ。友達なんて古臭い言葉にも縛られたくないでしょう? ねえお姉さま、もしもよ、もし、自分が本当はどこかのお姫様で、王子様と結婚するんだって言われたどう思って?」
「……信じないわ。そんな詐欺みたいなこと、ありえないもの。それに王族って不可解だわ。シャオ様とお食事したけれどわたくしなんかには目を留めてくださなかった……聖女にも選ばれたこのわたくしを。もっとも他のお姉さまがたも袖に振っていたのでいい気味だったけれど。それにシャオ様って、実は男にしか興味がないらしいっていう噂を聞いちゃって」
嘆息するレオノラの陰で“シャロン”の目は半眼になった。
「それ……誰が言ったの?」
「誰って、確か王子の船員の一人が。港でも女性をお近づけにならないとか……」
(あいつら! ひとの禁欲生活をなんだと思ってやがるんだ!)
それでも、“シャロン”はなんとか少女らしい笑みを湛え続けた。
「ではご機嫌よう、可愛いお姉さま。夜会では一番にわたしと踊ってね。絶対よ!」
脱力気味にへたれ込んだレオノラから遠ざかりつつ、すぐに激しい後悔に襲われる。
(お前はやっぱり愚か者だシャロン! 何を楽しんでる……!)
こんな罪深い茶番はもう止めよう、これ以上わけの分からないことになる前に全てをグレンに告白しよう。
彼が最も愛する養女の中に彼がこの世で最も忌み嫌う甥の穢れきった魂が入り込んでいると知れば、すぐさまマーカリアに引き返すだろう。
(でも、もし戻っても、取り返しがつかなかったらどうなる……?)
目の前に昏い紗がかかり、息苦しくなった肺が呼吸を求め、のどは喘ぎだした。思わず、舷側に掴まる。
(本当は怖いんだろ……自分をこのまま失い、皆に憎まれるのが!)
だが、そもそも"自分”とはなんだ?
世界の半分を巡ってきたのもシャオであって“シャロン“ではなかった。
シャオと違って”シャロン”こそ誰にも必要とされていない。今この瞬間にこの世から消えたって誰一人気づきもしないし、悲しんだりもしない。
(でも。どんなに無用な人間だろうと今のおれはアルメリカ、なんだ。こんな所でのたれ死ぬわけにはいかない……)
シャオに言い寄られて舞い上がらない人間が皆無であることは自分が一番よく熟知している。感情や意識すら、王子の魅力は一変させることが出来る。老若男女問わずに。
摩訶不思議が居残るマンドラ島の古い血を引く無垢な少女をシャオが突然魔法使いにしてしまったのかも知れない……ありえない話ではない。
人と人の魂を入れ替えるなど、物語の中でしか聴いたことのない魔法であっても。
懸念はそれだけではなかった。シャオ王子の従者にして共犯者、ハルのことだ。
彼はシャロンが演じるセイミ・シャオの出来栄えには満足していたが、その彼が本来の役目を果たせないと知ったら、どう動くだろう。
昏い展望に身が竦んでいたその時。帆柱の影からこちらを凝視する人影があった。
「なっ、何。何を見ているの!」
いえ……といって、侍女のニルナがくるりと背を向け、船室に入っていった。
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