2-5.対決
輝く海の女神(マレディアマンテ)号は三本マストを擁する純白の大型帆船だ。
船体の長さは一級艦に匹敵するほどだが、上甲板の幅はやや狭い。船首像は船の模型を小脇に抱えた海神マリアス。
この大きさの帆船が風の弱いテシス内海沿岸を航行するのは、人目を引く。
裕福で特に急ぎの用事もない者たちは昔ながらの観光と食事を交えた寄港付きの船旅を好んでいるようだ。
甲板上では短いマントを羽織ったマーカリア人の紳士やご婦人方が寛ぎ、着飾った少女たちが船尾(とも)で舵を取る二等航海士にまとわりついている。
金持ち連中の間を召使いに案内されながら、"シャロン"は航海人の目で船を見回した。
(一体全体、この船はなんなんだ?)
が。上客専用の食堂室に通され、すでに着席していた人影を認めた瞬間、意識が凍りついた。
すぐに目を合わさずに済むようスカートをつまみ、目上にするにふさわしい挨拶をする。
「何の真似だ」
確かに身内に向かって一々かしこまるのは考え物かもしれなかった。それは認めよう。でもその言い方はないだろう?
むっとして顔をあげ、心構えもなくグレン・フレイアスの冷徹かつ不可解な色味をした眼差しに晒された瞬間、小さな胃がでんぐり返りそうになった。
なけなしの楽観も、太陽の前の氷菓子のように溶けて消えていく。やはりこの状況は夢ではないらしい。
「具合はいいのか」
「……上々ですわ」
「本当に、何ともないのか?」
「わたしが元気だと何かご不満でも? お優しい、おじ様?」
理由もなくむくれたまま、"シャロン"は席につく。ヴェガが足早に後に続いた。
長いテーブルの中間、大人用の椅子に浅く腰掛ける。
つま先が、やっと床に触れる。無闇に高い椅子だなと思いかけて、そうではなく自分が小さいのだと認識を改める。
給仕たちが前菜や焼き立てのパン、珍重される魚卵をソースにした土地の魚料理といったものを運んできた。
腹は減っているのに、目の前に並んでいるものに全く食欲をそそられない。そればかりか、実際に食べ始めても何を味わっているのか、わからなかった。病み上がりの時の気だるさにも似ている。意識と肉体が上手く合っていないせいか……あるいは、同席者からの心理的な抑圧によるものか。
一方、グレンの前にはサラダやパン、それにスープといったものばかりが並んでいる。
そういえば叔父は菜食主義だった。とうに絶縁したはずの相手と何を間違って食卓を共にしているのか……思えば忌まわしい高等学校に放り込まれる前夜以来、かもしれない。
「アルメリカ、なぜ黙っている。言いたいことがあるのなら言うがいい」
「……そうですわね、おじ様。例えば、目覚めて、自分がすでに船の上に乗せられていたとしたら、誰だって不機嫌にもなりませんこと?」
夜の庭園で一瞬だけ会った彼女(アルメリカ)は純真で、思いやりがあり、世間擦れもしていなかった。金持ちの養女だからといってツンツンしたところはどこにもなかった。
自分はまったく彼女に似ていないのではないか。今にも化けの皮がはがされて――
「私への当てつけは構わぬが、今日は話すことが山ほどある」
(ああ神様、勘弁してくれ……でなければ今すぐ心臓を止めてく……いや、今のは無しだ! アルメリカの心臓なんだからな、今は!)
特に信仰心もないくせに天に祈ったりとりなしたり、いよいよ混乱を来たし始める。
「シャオ王子めは、お前に何をしようとした?」
「……何も? お話しただけよ。珍奇な植物がお好きで、おじ様の温室を見てみたかったんですって。そうしたら、なんだか知らないけどどこからともなく物凄い音がしてあとはもう煙とか葉っぱとか舞い上がって何が何だか……二人とも驚いてしまったわ。そんなときでも王子様はわたしを護ってくださったのよ、その……気絶する寸前に」
(あんたが咲かせた妙な花から怪物じみた黒蛇が出てきて、おれとアルメリカに噛みつきかけたんだぞ?!)
眼の焦点をぼかしつつ、自分の殺気が籠らないよう細心の注意を払いながら続ける。
「そういえばおじ様の大事な、冥蘭のお花はどうなったの? ごめんなさい、せっかく咲いていたのに、あの時、鉢をひっくり返してしまったような気がして」
”シャロン”が気遣いをにじませる声で問うとグレンが初めて目尻を下げた。養女の信頼をようやく取り戻し、安堵したかのように。
逆に、今は”シャロン”のものではないはずの胸の奥がうずいて、意識が炙られたようにちりちりした。
(やめてくれ、おれに向かってそんな顔を見せるのは)
「貴女が心配するようなことは何もない、気にするな。ニルナ」
名前を呼ばれたニルナが「は、ハイ、旦那様?」と答える。グレンが命じた。
「もう下がってよろしい」
老メイドが退室するのを待って“シャロン”は高すぎる椅子に座り直した。
「それで、王子様はお元気でいらっしゃる?」
「耳飾りは? なぜ受け取った」
「お土産がわりにってくださっただけ。わたしの質問には答えてくださらないの」
「あれは、生きている。ウィンドルン港で風邪で臥せっているそうだ」
(はあ? 風邪だあ?)
本気なのか茶番なのかまったく読めない深緑色の瞳をおそるおそる見返すが、もちろん何も伺いしれない。
この色は、実はグレンの生まれつきではない。信じ難いことだがマンドラ島に赴任する前は黒目だったのだ。南海で魔物にとりつかれたせいだとか、身内からもしばらく忌避されていたような記憶がある。
元々断崖絶壁にだけ根を張る気難しい植物のような気質とで、グレンもまた一族から浮いた存在であった。
でもこの孤独で、秘密めいた叔父だけが一族の“恥さらし”シャロンを引き受けた――――
(……待てよ、まさかグレンはシャオ王子の正体を一切公表もしていないのか? あんたの大嫌いな甥っ子を抹殺する千載一遇の機会なのに?! それとももっと言うに恐ろしい生き地獄を画策してるのか……? ああ、間違いなくそっちだ……)
それでもなお、疑問が残る。グレンはなぜ平気な顔をしてここにいる?
つまりアルメリカとシャオ王子の間で起こったことを何も知らないのだ。
"シャロン"だって、何が起こったのか、正確に知る段階にはない。自分よりもグレンのほうがすべてを把握しているのでは、とも思ったのだがそうではないのか。
「それはそうと――――来週、船上で宴が開かれることになっている」
判決でも言い渡されている気分になる声でグレンが唐突に話題を変えた。
「その後、他の先客は皆、ファーロベアで降りる。貴女は私と共にそのままマンドラ島へ向かう。そこでは、今までとは全く違った生活が待ち受けている」
「改まって、なんですの?」
グレンが養女の髪の色を気遣わしげに見つめて断言した。
「貴女は、まずはマンドラの大神女(おおみこ)に診てもらわねばならない。聖地イルライ山へ……そこで貴女の魂の在り方が試され、マンドラ島の命運も決せられる。具体的に言えば貴女は将来、イルライ山の神女(みこ)となることが望まれている。ただ……別の道もある。神女にはならず、王子の后となる道だ。そのお相手とは第二王子ミケラン殿下――まだ立太子はされていないが時期国王となられるお方だ」
演技でも計算でもなく、“シャロン”は二の句が接げなかった。
グレンは回りくどい商人みたいに手を組み、話を勝手に進めていく。
「貴女のお父上は、実は現王ジャルバット。そしてお母上のセリカ様はシュリガ族の神女姫でもあられた。だが、王は諸外国が島を狙う国難の時にシュリガ族を迫害し、セリカ様をはじめ数多の命を……奪われた。私はセリカ様に託された十三年前のあの日から今日まで、貴女をお守りしてきた。マンドラ王国で、貴女がその身分にふさわしい地位を無事得られるよう私はいかなる手をも尽くす。マーカリア共和国が保証する」
「……なあにそれ。わたしが神女として出来損ないだったとしても政略結婚の道具にしてもめ事を解決するから”問題ない“ってこと?」
「セリカ様の娘たる貴女が出来損ないなどであるはずがない」
グレンの鉄壁の無表情が僅かながらたじろいだ。
養女の口調の常ならず辛辣なことに驚いたのだろう。だが今、”シャロン“は少しばかり容赦を失くしつつあった。
いつもそうだ。この男は”良かれ“という顔つきなのだ。
フォークをわざと丁寧な手つきで戻した。
小さな指先がこまかく震えている。
そのことに"シャロン"ははっとした。
"シャロン"はただ憤っているだけのつもりだった。しかし、少女の身体……いまは器、というべきか……は、慄き、震えている。
恐れか? 怒りか? それとも……
ようやく、芯から理解した。
自分はいま世界や身勝手な大人たちに翻弄されるばかりの、小さな少女に過ぎないのだということを。
「……いいえ、問題はそこじゃないわよ、おじ様」
少女の矜持にかけてきっと目を上げ、睨みつけていた。
「これってどう考えても、女にとって重大なことじゃない? ミケランだか何だか知らないけれどそういう王家って血が濃いんでしょう、この歳で、他の男も知らないうちに自分の兄弟と結婚しろっていうの?!」
愕然と、ヴェガが少女の叫びに目をみはる。
机の上で手を組んだグレンはといえばヴェガの激しい動揺に反応する素振りもない。反抗に出る養女を、鎌首をもたげた蛇さながらに睨みつけた。
「貴女の異母兄に当たる。マンドラの法に於いては問題はない。御歳十七歳、御容姿も極めてご端麗だったはず」
「セイミ・シャオより? あの美形男を忌み嫌っていたくせに今度は美形の大安売り? しばらく部屋で休みますわ、おじ様、ヴェガ。突然のお話で、戸惑っているの」
「茶はどうする」
「その後はデザート? 女が甘い物で全部機嫌を直すと思ったら見込み違いですわ!」
ヴェガがグレンに向けてぼそっと、「たぶん、思春期……」と自信なさげな慰めを口にした。
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