2-4.もう一つの、覚醒

 どんなに美しかろうと、女を枕にして寝入るのは随分前にやめていた。

 行きずりの快楽を愉しんだらそれで終わり。寝床から追い出し……あるいは逃げ出し……誰かに心を与えることもなく朝まで眠る。それが不運を避けるコツだと信じて。


 なのに今、まどろみの中で"シャロン"はすぐ側に誰かのぬくもりを感じていた。

(………なんだ……?) 

 目覚めて、マーカリア近海とは揺れが違うと思った。これは多分、テシス内海の波。


 見知らぬ寝台、見知らぬ間取りが視界に入ってくるにつれ、寝ぼけまなこのまま感じていたのは深い充足感である。

 物凄く久々にぐっすり眠れた。二年前、誇り高きセイミ・シャオになると決めた日からは“役”に完全に入れ込み、港女もほとんど寄せ付けず気が休まる時が無かった――――が。

 次の瞬間、お馴染みの、決してお馴染みになりたいわけではない感覚が湧きあがる。

(まさか……まさかおれはまた肝心な所で寝坊したんじゃないだろうな……?)


 おそるおそる寝返りを打ったとき、初めて自分の横にぬくもりの正体……見知らぬ男が寝ていることに気がついた。

「………っ!」

 暗褐色の肌をした堂々たる異貌の男の、光り輝くような緋色の双眸が頬杖をついて自分を凝視している。まるで肉食獣に睨まれた鼠のように身体を固くした“シャロン”に、男は厳かなほど低い声で告げた。

「アルメリカ?」

「………………」


 そう確かに、女を枕にして寝入るのは随分前にやめている。

 だが虎をも素手で絞殺しそうな筋骨隆々男に“抱き枕”にされる趣味もない。

 その時ようやく自分の身体が小ぶりであることに気がつき、視線を下げた。

 一見あり得ないことが起こっている。だが今、このような男の目の前で狂態を示せばもっととんでもないことになるという事も分かる。

 これは夢だ、王子を演じていた自分が見ている夢、それとも“シャロン”の泥酔した頭が見ている幻影、か?


「―――おはよう、わたしったら、少し寝すぎてしまったのかしら」

 咄嗟にマーカリア語で答え笑ってみせる。笑顔になっているのかは、心もとない。

「……気分は? 身体、おかしい、ないか」

「うん、大丈夫……っ……?」

 言いかけて、不意に下腹部に感じたことのない違和感を覚えた。

(なんだ……胃か? 腸か? それとも股……?)

 前屈みになった自分を蛮人の大きな手が繊細な手つきで支えてくれた。

「アルメリカ、大変だった。その……女の月のものが、始まって」

「………ああ、そういうこと」

 頭を抱えたくなった。実際に”シャロン“は額を慎ましく可愛い手の中に、埋めた。

(よし、分かった。落ち着け、落ち着くんだぞ自分……これは夢じゃない可能性が高くなってきた。だがおれは臨機応変を旨とする詐欺師なんだ、ド素人みたいに喚き出したりするなよ、絶対に!)

 今は、大人になりかけていく少女の戸惑いと不安を二十一歳の男として泰然と受け止め、それを表現することに持てる才能の全力をあげるべき時……我ながらほとんど意味が分からない。が、今はとにかくそう思い込むことにした。

 女、いや、少女。女と少女はまったく違う生き物だと、"シャロン"はあのフレイアス邸に忍びこんだ夜の庭での失敗から学んでいた。

 二度と、アルメリカに対して無礼をはたらくまい。もはや自分の魂なんぞが入り込んでしまっている時点で今すぐ首をくくれと罵倒されても仕方ない状況ではあるが、今は深く考えている余裕もない。


(って……そうか、つまりもう、おれのあそこにはそっくり……無いんだ……)


 確かめるまでもない。うな垂れたまま、男としての意味で顔を上げられなくなった。

 少女がとにかく落ち着いたのを見計らったように蛮人がそっと身を離した。

「グレン、呼んでくる」

 機敏に蛮人が動き出すのに寝台から天井まで突き抜けそうなぐらい飛び上がる。

 冷静なフリなど、吹き飛んだ。

「ちょっ?! 待って、待つのよ! わ……わたし、記憶が混乱しているようなの。おじ様は怒っていないかしら?」

「怒っていない。アルメリカ目覚めない、心配していた。気絶して、倒れていた。この船、マンドラ島行く。昨日、デストリウス海峡通過した」

 天を仰ぎたくなる心境の中、押し黙った。不安そうに俯く。煮立った鍋のようにぐらつく頭を落ち着かせるためだ。

「アルメリカ、頭、大丈夫か」

「……ダメみたい。貴方もわたしを見て、なんだかおかしいと思っているんでしょう。でも、どうしたら元のように振舞えるのか、自分がどういう自分だったとか、他人をどう呼んでいたかとかもはっきりしないぐらいダメな感じなの……ごめんなさい」

 本音とそうブレてはいない感情を吐露して、"シャロン"は上掛けの中に顔を突っ伏した。

 不審を不安へ変えたタルタデス人がうろたえている様子が伝わってくる。

「シャオに、何された?」

「シャオ? ああ……あの人のことはまだ思い出したくないわ。お願い、おじ様にはわたしの頭が少し変になっていることは黙っていて。心配をかけたくないの……ねえ?」

 そっと、逞しい”友達“の手を取る。 

 どうにかしてこの男の名前だけは聞き出さねば。

「これから、もしもわたしがお前が愛していたアルメリカとは違う人間(もの)になってゆくのだとしても、お前だけはわたしの味方で居てくれる? もしも……もしも、よ? わたしとおじ様が目の前で溺れていたらどちらを先に救ってくれるかしら? もちろん、お前のことだから二人とも助けてくれることは分かっているのだけれど」

 蛮人が一瞬、妙な目つきをして黙り込んだ。

 生きた心地がしない。むしろ今すぐ本当に溺れ死にたいぐらいだ。

「……無論。だが、我が救い手はもう中年、アルメリカ、まだ若い、それも女。我の部族、飢饉の時、年寄りは若者と女たちのために命を絶つ」

 アルメリカの小さく細い手を、蛮人の三倍くらい広い手がしっかりと握り返す。

「己が変わることを畏れるな。我の誓い、変わらぬ。もう二度と離れない」

「嬉しい! 心強いわ。自分の名前に誓って、そう言ってくれるのね? お前」

「ヴェガ、誓う。アルメリカを守る」

「ああ、ありがとうヴェガ。わたしの一番大切なお友達!」


 やがて部屋をノックする音がした。"シャロン"は心臓が口から飛び出るというよりは自分が何か脈打つ塊になったような心境で、答えた。

「どうぞ」

 最悪の予想に反し、訪れたのは黒衣をまとった天敵ではなかった。だが……

「お嬢様、お早うございます。お客様がお見えです」

 背筋の延びた酷薄そうな顔をした老婆を見た瞬間、"シャロン"の胃がまた縮みあがる。 

 理由は分からないが、本能的に何かの恐怖をこの小さな体が感じている。

 老いたメイドは”シャロン”からヴェガへと視線を移すと、あからさまなあざけりを浮かべてまた目線を戻した。 

 思ったとおりだ。なんと感じの悪いメイドだろう。

「まあ、こんな身なりで恥ずかしいわ。少し待って頂いて」

「大丈夫ですよ。お嬢様がご病気だとは、皆が知っていますから……」

 入れ替わりに現れたのは船長を名乗る男と一等航海士のなにがしと名乗る立派な海軍士官の身なりをした二人の男だ。二人のあいさつが、"シャロン"の耳を通り抜けていく。

 わかったのは、右も左もわからないまま、もはやアルメリカとしての一日が始まっているのだということ、のみだった。


 老メイド……ヴェガの時のように会話を弄してなんとかニルナという名前を突き止めた……は着替えを手伝ってくれるという。

 気を取り直し、長期旅行用の衣装箱を覗いた“シャロン”は無言になった。 

 女子修道院の箪笥の中に眠っているのがふさわしいような服ばかりだ。

 これぞまさにグレンの、養い子の生活環境に対する無頓着さの表れだ。

 途中の港で何とかして救援物資……すなわち新しい服を仕入れさせなければ。渋面を打消しながら、なるべく愛想よくニルナに向き直った。

「……あのね、今日からはわたくし一人で身支度をすることにします。いいわね?」

 鏡台の前には真新しいいくつかの化粧道具、それに象牙の宝石箱があった。蓋を開けてみた“シャロン”は一瞬息をのんだが、身に着けた。

 黒髪から青みがかった美しい銀色になった髪を、ひとまず暖炉で温めておいた鏝で巻いていった。くるんと軽やかになった白い髪が黒真珠の耳飾りでいっそう引き立つ。


 迎えに来たヴェガが、少し驚いたように見つめ返してきた瞬間、ほんの少しだが”シャロン“の胸に楽観が生まれた。

(どうにかなる、いや、どうにでもなれ、だ)

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