2-3.過去

 "彼"は、どこかで苦悩していた。

 夢とも現実ともつかないあわいで、自らの恥ずべき過去を……


『そのようなお召し物ではお通しすることは出来ません』


 夕刻から雨足は一層強まり、版画のような街をさらに重く上塗りした。ウィンドルンの高級住宅地にある邸宅も闇に沈みつつある。


『おれはシャロン、フレイアス卿の甥っ子だ! 前にここで暮らしていたんだぞ?!』

 雨音にかき消され気味の、十五、六歳くらいの少年の返答に門衛は困惑しているようだ。

 少年は濡れ鼠がつぎはぎだらけの服を着て歩いているのと大差ない浮浪児まがいの恰好をしていながら、亜麻色の髪に蒼い目、整った顔立ちをしていた。

『貴方の素性はどうであれ、その身なりでは信用できませんな!』

『服なんか、どうだっていいだろ! 緊急の事態なんだ!』

 その時、開門の合図があり、門衛は小うるさい少年を脇に押しやった。

 角を、立派な四頭立ての馬車が雨の幕を蹴散らし駆けて来る。どしゃぶりの底に立つ少年を馬車の格子窓越しに誰かの視線がなぞる。

 馬車が荒々しく急停車し窓が開いた。


『今、ここで何を言い争っていたのだ』

『はっ……? はあ、あの怪しい少年が、貴方様に会わせろと……』


 馬車の扉が開き、夕闇にそびえる塔のごとき長身が踏み台なしに降り立つ。

 重苦しいケープをまとった男は肩が濡れるのも無頓着に、少年に向かい合った。貴族的で厳格な容貌、人を全く寄せ付けず、傲然と見下すような眼差しを誰にでも平気で向ける男。

 彼はいまやこの国で、いや西方諸国で、屈指の大金持ちだ。

 濡れそぼった少年は、門衛の手を振り解き、前によろめき出た。


『グレン叔父さん、シャロンです、こんな夜分にすみません。お願いします助けてください、うちの商船が帰ってこなくて、荷主が騒ぎ立てているんです! あいつら金を返せって、狂ったように荷主を責め立てて……このままじゃ、殺されてしまいそうで……!』

『お前には本当に失望した』

 叱責ですらない、端的な事実のみを冷然と述べる叔父の声に少年は凍りついた。

『お前が学校から逃亡したと聞かされた時、私がどれほど笑い者になったと思っている』

『……だっておれは、早く船乗りになりたかった。おれくらいの年の男はもう学校なんか行かずにどんどん船に乗って、中には持ち船を貰える奴も……!』

『学校から逃げ出したことは他者の支配を拒んだ結果だとも取れるだろう。お前がとにかく自力の道を見つけ、真に誇りある人間となっていればそれでもよかった……なのにお前は未だ密貿易まがいの船主の元で下働きだとか。このまま破産すれば、また海に逃げ込むのだろうが』

『水夫の何がいけないんだ、あんな規則と体罰だらけの学校に居て、何になれたっていうんだ? あんたが“投資”していたおれが……利益を出せない不良品で悪かったよ!』

 叫んだ直後、答えの代わりに男の手が突きつけられた。びくっとして見つめる。

 黒い財布だった。少年が受け取れずにいると男は手を開いた。

 足元の水溜りが銀貨の重みで割れ、泥水が互いの足元に跳ね返った。

『次にそんな成りで金をせびりに来たら監獄に送り込む――――もう顔を見せるな』

 少年の頬に雨以外の、温いものが流れ落ちる。

『……ありがとう、ありがとうグレン叔父さん! 失礼なことを言ってごめんなさい……船が帰ってきたらこの金はきちんと、全部返すから。そしたらおれ、今度は北海航路の上級船に乗り込むんだ! だから許し……』

 少年の必死の謝罪を雨中に置き去りにし、男を乗せた馬車が再び動き出した。

 車輪がはねた泥水が顔にかかり、少年は悲鳴をあげ、会話は永久に途切れた。


 結局、少年と荷主が待ちわびていた商船はデストリウス海峡を吹き荒れる突風に沈められて帰らなかった。

         *

 それから、三年後――――


『貴方、東と西の血が混ざっているでしょう。だからサンガラの王子に似ているんだわ』


 砂漠からやってくる冷え切った明け方の空気の中、シャロンの隣で人妻が……名前はレンヤと言った……ふと漏らした言葉が媚薬の匂いで噎せ返りそうな部屋をたゆたう。

 祖国マーカリアから身も心も遠く離れ、シャロンは沙漠と海洋の国アガルスタ神王国第一の港アルナムの歓楽街にたむろする若者の一人になっていた。

 特権階級がよく密会に使う高級宿で人妻の膝の上に頭を乗せ、日がな一日快眠をむさぼりながら。


 再起を近い、乗船名簿にサインまで済ませた北海船には、寝坊して乗り損ねた。

 さらに数日後、その船が沈没したと聞かされたシャロンは震え上がり、自分の夢だと思っていたもの、さらには西方世界そのものからも逃げ出したのだった。


 こんな体たらくを叔父に知られるくらいならば“死んだ”ことにした方がマシだった。それに叔父だって、シャロンの死亡記事を見て高笑いでもしているに違いない。


 中央大陸からの移民の末裔で、船乗りだったシャロンの父親はやることだけやって海難事故で死んだ。赤子の存在も知らないままだったという。

 周囲の猛反対をよそに、命と引き換えに自分を産んだという母親については戸惑いこそすれ恨んでは居ない。

 よりによって、匿ってくれたのは国で一番恐ろしく、多忙だったあの叔父だけだった、というのが不運の源。

 もう縁は切れた、のだけれど。

 

『……誰だ、サンガラの王子って。新しい愛人か?』

 長い爪でシャロンのむき出しの鎖骨のあたりをなぞった後、レンヤはその質問を謳うように笑い飛ばした。

 二年前に滅んだ東方の国の王子様よ、と。

『そんな、縁起でもない国の王子とおれが似ているっていうのか……』

 豊満な胸の谷間で揺れる渦巻き模様の貝殻のペンダントをぼんやり目に入れながら、逆に心配になってきた。残党狩りとかそういうのに巻き込まれたらどうするのだ。


 ところで、シャロンはこの頃、詐欺の師匠のロレンスという男に弟子入りしていた。

 天才詐欺師の醜男より凡才だが美形の君の方がこの世界では遥かに分がいい、と言って声をかけられたのである。

 なぜなら世の中の人間というものは自然と美しいものに惹かれるものだし、君と一緒にいるというだけで他者に対して優越感を感じ、気が大きくなる。君が些細な失敗をしたとしても大目に見てもらえる可能性が高いのだ、と。 

 確かに皆、微笑みや眼差しに簡単に騙され、騙されたと分かった後でも庇いさえしてくれた。シャロンは詐欺師としての自分の天分に自信を深めている時期だった。


『あたしの侍女にサンガラ人が居たのよ。その娘は王宮の女官だったらしいの。サンガラには王子が六人……えっと、九人だったかしら、それぐらい居たの。でも、長男の皇太子だけがサンガラ人のくせに美しくなかったんですって』

『皇太子の顔をとやかく言うなんて、サンガラってのもケチな国だったみたいだな』

『人って見かけで印象が変わってしまうってことね。貴方はよく知ってるでしょうけど』

『じゃあおれが王子、そしてお前が后になれば、それらしく見えるかもな』 

 すると。レンヤの目の色が変わった。腕と腕とをしなやかにからめられながら、再び柔らかに重い女の身体によって寝床に押し付けられる。

『ねえシャオン?(彼女が呼ぶ名は、そうやって少しだけ東方風になまっていた)、あたし、そろそろここの生活にもうんざりなの。あたしの資産を使えば船も買えるし、船員も雇える。身分を変えて姿も変えて、夫から逃げて、二人だけで暮らしましょうよ。あの男、この街を少しばかり牛耳ってるからってあたしに手をあげるのよ! マーカリア辺りにまで逃げたら絶対に見つかりっこないわ……』

『は……? マーカリア?! 冗談じゃない!』

 古い火傷を炙られたように、決して言うべきではなかった一言を口にしてしまう。

『素性も分からないアガルスタ女なんて連れて帰れるものか。おれはマーカリアのいいとこの出なんだぜ、こう見えてもな!』

『あははは! 誰よ、いいとこって、どこよ。どうせ大した家じゃ――』

『フレイアスだ。フレイアス卿の不出来な甥っ子がこのおれ……』

 その瞬間、レンヤの手が顎を捉え、紅い唇がシャロンの唇を強く奪った。 

 余りの熱さと含まれた何かの薬のために――シャロンはそのまま眠りへ落ちていった。


 翌朝目覚めると女は消え、シャロンの持ち物も消えていた。

 不吉な予感に駆られた瞬間、役人が踏み込んできたので急いで服を着、窓から逃げた。

 ロレンスを頼って走った。高層の石塔と、光り輝く迷路のように入り組んだ漆喰塗りの町を走り抜ける。

 薬種問屋兼骨董屋である白壁の家は静まりかえっていた。

 半分開いた扉の向こう、自らの血溜まりをかき抱くように倒れ伏した師匠の長い黒髪が血を啜る魔物のように垂れていた。

 喧嘩の場数は踏んでいたが、総毛だったまま逃走しかける。

 その時、店の入口に影が立ち塞がった。

『あれ、まあ? そこに転がってなさるのは薬屋さん? 一体どうなすったんで?』

 逆光で、相手の顔が見えない。

 驚いているフリをしているだけではないのかと思うほどのんびりした反応をする小柄な影を前に、ほとんど金切り声をあげていた。

『おれじゃない……おれじゃない! 消される、おれもあの女の旦那に消される!』

『そうでしょうとも、見りゃ分かります。あの女狐、ここらのいいオトコを味わうだけ味わって、さっさとご帰還しちまったようですなあ』

 東方人はすかさず、進退窮まっていた自分の手首を引き、ささやいた。


『ここからは一切合財あっしにお任せを。あっしの雇い主ならこのケチな騒動をもみ消してくれまさあ。え、あっし? ケチな同業者でございますよ』

                

 逃げるために始めただけなのに。

 シャロンは、その怪しい東方人ハルの語る遠大なる計画にいつしか絡め取られていったのである。

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