2-2. ハル
「本当に、本当なんですね? まさかの記憶喪失。あっしを騙したらひどいですよ?」
「騙すなんて、とんでもない! そんな余裕、今のわたしには、ないの、だ!」
横隔膜がすっかり変だが、"アルメリカ"はなんとかしわがれた声で反論した。本当は澄んだお声なのに。
「でも、さっき総督の名前はさらっと……」
「そっ……そう、だった? 無意識に、覚えていたのかな」
「別段あたまにタンコブは見当たりませんでしたけどねえ。あ、強いて言えば頬が少し赤くなってらっしゃったか……まったく、これほど驚かされるお人は初めてですよ」
どうやら、頼みの綱の従者は王子の状況を受け入れようとしてくれている。いまひとつ掴みどころがなくて冷や冷やさせられる人物だが、敵意は無さそうだ。
「ほらほら、洟を拭いてくださいよ、しばらくは何とか演技し続けてもらわないと……」
「ごめんなさい……改めまして、貴方は誰?」
「あっしの名はハルです。ま、お側仕え兼通訳だと思ってくだせえ。通訳としてはほとんど無能だったんですがね、王子はその辺りは有能でしたから……」
「よろしく、ハルさん」
「さん、はお止しなさいって。貴方はそれでも王族なんですから適度に偉そうにしてもらわないとかえって困ります」
「わ、わかった。えっと、ハル……わたしは、その……何がどうなっていたんだっけ?」
「ウィンドルンのフレイアス卿の家に忍び込んだんでございますよ。なんでも気になる娘さんがいたとかで? まああちらさんの娘にも何かあったって噂ですけどね……」
「何か、って? その、グレン……フレイアス卿は……」
「いやに急いでマンドラ島へ行ったとか。多分、その娘さんも一緒ですよ」
うそっ……! と叫びかけるのを必死で我慢し、質問を試みた。
「なんで、どうして……」
「あっしだって、困ってるんですよ、何が何やらで」
じっと注がれる東方人の冷め切った目線には、これ以上耐えられない。
いまの自分のなにが、ハルを一番不愉快にさせているのだろう? まずはそれを知らねばならない。
「シャオ王子って、その、貴方から見てどんな人だったの、か? 色々教えてもらった方が、早く思い出せるかも」
口調が定まらないうえに、また嘘までついて。冷や冷やしたが、ハルの顔色は変わらなかった。
「美形揃いのサンガラ王族の中でも最もお美しく、最も勇敢であり、最も強かでもいらっしゃいましたね。とにかくまあ美男でいらっしゃるから何をやっても絵になるし、信奉者には事欠かず、まことに恨めし……いや羨ましい限りでございますよ。お陰で王子はこの聖なる囚人号に乗って各国の同情を集めることに成功したって次第でして」
「でも、シャオ王子ってよく見ると西方人っぽい顔でもあるよな……」
「母后様が西方の血を引かれる方だったんですよ。九人の兄弟王子のうちじつに八人がお亡くなりになり……ま、正式な王子は上の四人だけで貴方様は”準王子の第一位“って所ではあったんですが、一言じゃ説明しがたいんであまり気にしないでくだせえ」
そしてハルは、サンガラ王国滅亡の物語を淡々とした声で語りだした。
数分後、真っ赤な目をまたしても涙で濡らしはじめる“アルメリカ”をハルが慰めた。
「まあサンガラ滅亡はもう六年も前のお話ですから。王子は過去のことはあまり拘ってはおられません。細かいことは極力振り返らないようお奨めします、色んな意味で」
「ハルはどこの国の人なの?」
「さあて、ねえ。ま、地図にない国の者でさあ」
「もしかして、伝説の、“まつろわぬ国ミアンゴ”の人? 分かった! まつろわぬ国の人だから、王子にもへりくだったりしないんだな?」
「へりくだる? 何をおっしゃいます、あっしほど王子に甘やかして頂きこびへつらっております生き物はございませんよ? ミアンゴはサンガラと同じく島国で、東方大陸の北東の果てに浮かんでいることは間違いありません。でも、腹いせにオリエンタは海図や地図からミアンゴを消し去ってしまいましたから、誰も来なくなりましたがね」
「悲しいな、自分の国が無かったことにされるなんて……だから、ハルは王子と一緒に東玻帝国に歯向かってきたんだな? 故郷を地図に載せられる世の中にするように」
「……浪漫溢れることをおっしゃいますね。記憶を失ったというより、なんだかお人が変わられたような感じです。とにかく貴方は……いわば東方世界(オリエンタルス)全土を襲っている悲劇の”具現”なんでございます」
「悲劇って? サンガラ王国の滅亡だけじゃ終わっていないのか」
「あっしは思うんですがね、王国の滅亡っていう出来事は、西方世界でいう絵画の額縁みたいなもんなんです。何一つ、中身のことを伝えちゃいません。王一人の欲望のために今も大勢死に苦しみ続けているってことは、ね……」
「オリエンタの侵攻がやがて西方世界にも来るって噂は聞いたけど……」
ハルが、そこで自分の位置に舞い戻るみたいに立ち上がり、話を切り上げた。
「とにかくまあ服装はきちんとなさってくださいよ。人前で御身の半裸は厳禁です。大胆な露出とかはだけるとか、そういう危ない恰好もくれぐれもお控えなすってくだせえ」
ああ、と言って、”アルメリカ“は示された漆塗りの衣装箱の蓋を取った。煌びやかかつ高価そうな服がはちきれんばかりに収納されていた。
「王子様なのに、自分で服を用意したりしていたのか、シャオ様、は?」
「王子はおしゃれ好きですからね。他人が選んだ服を着るなんて、ありえないですよ」
毎朝、選んでもらった服をただ来ていた自分を思い出し何とも言えない気分になる。
「……わたしはこんな状態だし、目立つ格好は止めようと思うんだがどうかな?」
「ご随意に。けど船員の士気にも関わりますからヘンなのだけは勘弁して下さいよ」
王子のおしゃれ度がどうして士気に影響するのか、まるで理解出来ない。
「でもさっき、何をやっても絵になるって言ったじゃないか」
「細かい記憶力は抜群なんですねえ。迷うんでしたらサンガラ風の青がお勧めですがね、黒はここぞという時にとっておかれたほうが……ああ、その紺碧色に裏地が朱色のなんて特にお似合いだと思いますよ。もう三日間王子の御顔が見えねえって残念がってる奴らもいるんです、颯爽と登場してやってくださいな。でもぴらっとでも記憶が戻りそうだったら真っ先に言ってくださいよ、あっしに?」
気遣うというより念押しするように言われる。三日間も? と呆然としかけた
ところがその時、お腹が盛大に鳴った。“アルメリカ”は顔を赤くして思わずうつむく。
「ああっ、なんてはしたない……ご、ごめんなさいっ……」
「ちょっと王子。違う意味で前よりも問題になりかねませんよ? その妙に可愛い仕草」
「ど、どういう意味? お、男に向かって可愛いとはなんだ、可愛いとは!」
精一杯打ち消そうとするが、ハルの渋面を見る限り逆効果のようだ。
「どうって……ああ、それと言い忘れてましたけど、貴方が船長ですからね」
「えっ?! 元の船長さんは?」
「元船長タバック氏と、元一等航海士ラシードは叛乱を画策した疑いでウィンドルン港湾局に捕まりやした。船体に火薬が仕掛けられて燃やされそうだったんですよ。今は元二等航海士のアンセルが一等に、二等航海士はバックス、元甲板長のミルザーが三等航海士で新しい甲板長はブランです。ちょいと? 目が回ってますよ王子。早く司厨長のリニウスのところに参りましょうや」
誰が誰だか、必死で覚え込もうとしながらハルについて立ち上がった”アルメリカ“は初めて、黒い扉の外の世界を目の当たりにした。
大きく傾ぐ視界。吹き抜ける風、揚々と突き上げては白く弾ける外洋の波濤。
港で揺れているものだとばかり思っていた自分の愚かしさ。
「な……な、な、なに、何よこれ! どうして、動、どこに、船?!」
「御自分の船がどこへ向かっているのかとお尋ねなんですね? 船長にこんなことを申し上げるのは心苦しいんですがね……実の所、あっしらは海賊になっちまったんです、港で公社の手入れがあった時に一悶着ありやしてね、それで成り行きでなんとまあ大西海へ向かって逃亡する羽目に、へえ」
「大、西、海?」
あまりのことに思考がついていかない。
危機感とは裏腹に王子の腹がまた鳴った。
この異様に高所にしつらえられた美麗な船室から甲板に降りるには、ただの板切れに過ぎない通路をぐるりと渡るしかないようだ。
忌々しいほど快晴の海と空が上へ、下へ、動く。目眩がしてきた。ふと、下方を見る。
「ねえ、どうして皆、こっちを見上げているんだ?!」
甲板上まで、5ヴィーア(メートル)はあるだろうか。
そこではそれぞれのお国柄、それぞれの経歴を思わせる逞しい水夫たちが勢揃いしているではないか。
「そりゃあ、あんなに大声でわんわん泣かれちゃあ。さあ、お早く」
「だめ、絶対に、こんな怖い所、歩けない!」
「ご冗談でしょう?」
さしものハルも呆れ返っている。それでも足は動いてくれなかった。
「お姫様のように抱っこでもしましょうか? それとも、おんぶ? ……まさかあっしに、ここまで食事を運べって?」
「…………」
ま、いいですけどね、と言い捨ててハルは厭いた猫のように軽々と立ち去った。
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