第二章 戻れない二人

2-1. 覚醒

 長いような、あるいは一瞬であったような闇の中を、意識が浮上していく。

 泡のように浮かび上がる心地の中で、"アルメリカ"は、うっすら目を開けた。

 

 柔らかにうつろう光の向こう、綺麗な蔓花が天井一面を伸びやかに飾っている。不規則に揺れる寝床。黒く塗られた、東方風の窓――――

 まだ夢の中に居るようなのにひどく鮮明だ。一級品だと一目で分かる調度品の全てが煌びやかで、規則的に上下に揺れながら差し込む太陽光が紗のように心地よい。

 いや、実際にここは、揺れていないだろうか?


「王子、様……、どこ……?」

 寝起きのせいか、自分の喉から信じられないくらい低い声が出るのを聴いた。


 一挙に、跳ね起きた。視界がいやに高いことに気付く。

 草を編みこんだような肌触りのいい不思議な敷布が敷かれた寝台だ。上品な絹の上掛けを除けると、なんと上半身裸。痩身ながら二の腕はすらりとしながらも力強く、腹も胸も艶めかしいほど引き締まっている。

 これは一体、どういう夢なのだろうか? 乙女が見るにしてはあるまじき……

「……待って」

 恐ろしげに高まる心臓の音によろめきながら室内に首を巡らせる。綾絹に華麗な霊鳥と樹木の刺繍がほどこされた覆いのされた大きな姿見がある。

 黒塗りの枠に収まったそれの覆いを取り払った。

 歪みのない少し黄味がかった鏡面に、下履き一つ、寝起きらしく乱れた髪の、目のやり場に困るほどしどけない半裸の美青年が現れた。

 きゃあああっと叫んで覆いを戻す。しかもその悲鳴自体が男の声だと気付く。


「…………ちょっと、本当に、待って」


 忘れもしないシャオ王子の声が、またそう言った。見えない手に首を締められているかのように息苦しさが増す。もう一度……勝手に震え出している手で覆いを外した。


 もはや、間違いがなかった。

“アルメリカ”はセイミ・シャオの姿へと変わり果てた己を呆然と眺めた。


 若き男性美の結晶のような肉体……その唇が鏡の中でわななき、血の気を失っていく。

 それは自分が完全にシャオ王子と“心身一体”になっていることを意味する。

 すべらかで、成熟した男性の喉……そこに赤い擦り傷がある。首輪の痕だ。途端に夜の庭で自分の身を庇ってくれた王子の姿を思い出し、震え出した。

 どうやって自分たちはあの怪物から逃れたのだろう? 自分は何か得体のしれない想いに駆られて……いや、自分に嘘をついても仕方がない、王子を独占したいと願った。それからあの憎たらしい黒蛇を退けるべく無我夢中で……


 その結果、何をしでかしたのか?


「魂が、入れ替わってしまったというの?! わたしが王子様の身体に、間違って入り込んだの……?!」

 口に出すと、鏡の中の美貌(かお)が泣きそうに歪んだ。

「……お、おれ? わ、わたし? わ、わたしは、セイミ・シャオだ」

 涼しくも甘やかな美声。端正な顔を強張らせ、おれ? わたし? と繰り返す。

(……ダメよ、こんな不安そうな顔。そうだ、怒ってみたらちょうどよくなるかな?)

 すると凛々しく眉があがり、それらしく見えてきた。いやこれじゃ怒るというより泣き出しそうに見える。実際、泣きたかった。ただ現実だと認めたくないだけ……

「わたし……わたしは!」

「――――――?」

 突如、理解不能な言葉が背後から聞こえてきて“アルメリカ”はバネのように振り返った。一体、何分前から見ていたのか。

 いつの間にか背後の黒い扉が開いていて、黒髪黒目の小柄な人影が立っている。

 整っているような無味乾燥なような白い平面的な顔、へりくだった物腰なようでいて、そこにただ止まりにきたカモメのようにすべてに無頓着にも見える。

 何語かも分からない。だが東方の響きがあると勘をつけ、とっさに、マンドラ語と共に家庭教師を付けてもらっていた東方語の記憶を引っ張り出す。


「だ、誰?! お、おれに用か?!」

「あっしの記憶じゃあっしはあっしで、ここは王子の貴賓船室でしたけど? 見るべきものが何もないからってとうとう御自身に見とれるように? でもサンガラ語をお忘れになるとは、まだ一応サンガラ王子を名乗ってるクセにいかがなもんでしょうねえ」

 王子の近習にしてはざっくばらんとした態度だ。東方の慣習はこのようなものなのか。

「そ、そうな、の、だ。本当にその通り……すまない……」

「ねえ、いったい何の練習なんです? 今更性格の設定をちょびっと変えたところでどうしようもございませんでしょう。船に火を点ける前だったってだけでも有難いくらいなもんですよ」

「船に、火をつける?! なぜ? あんなに綺麗だったのに」

「だったら尚更、今の路線のまま総督をだまくらかすことに専念すべきでは?」

「総督って、スタイフェルさんのこと? どうして騙すの?」

「だから一体全体何のお遊戯で? 女々しいというより鬱陶しいの域ですよ?」

 すでに限界だった。

 他にもう何も思いつかない、頭が働かない。怖いからとっさに王子のフリを通したしたけれど、これ以上どう進めればいいのか。

 どちらがいいだろう? 正直に言うのと、しばらくとぼけて様子を見るのと―――

「あの……おれ……わ、わたし、サンガラ語だけじゃなく、記憶がないみたいなんだが」

「へえ?」

「さっき起きてから、それ以前の記憶が全然ない。貴方が誰かも分からないの、だ……」

「……………へえ」

 東方人は無表情のまま後退さると扉の向こうに隠れんぼするみたいに引っ込んだ。

 ガチャ、と後から音がした。”アルメリカ“は扉を動かしてみた。鍵がかけられていた。

 その瞬間、心の底に押し込めようとしていたものが決壊したようにあふれだした。


(おじ様、ニルナさん……ヴェガぁ……!)


 絹の布団に顔を押し付けて、泣いた。後から後から嗚咽が漏れて止まらなかった。

 こんな姿では家に帰ることも出来ない。どうなるのだ、どうすればいいのだ。 

 王子様が欲しいと強く願った。でも、王子様そのものになるなんて思いもしなかった。

 その時、“アルメリカ”は身が凍りつくほどの考えに及び、はっと顔を上げた。

(……っていうことは、わたしの身体は今、どうなっているの?! まさか……まさか、わたしの身体には……ありえない、ありえないわよね?!)

 だが確かめることも出来ないし、何が起こったのかの見当すらもつかない。

 結局それから、五分経っても泣き止むことが出来なかった。


 やがて。“アルメリカ”の背中に誰かがぽん、と手を置いた。腫れあがった目で振り返る。

 王子を監禁しようとしたあの東方人が迷惑顔で立っていた。

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