幕間 1

鬱金の獄

 今日がいつであろうと、ミケランにとっては大した意味をもたない。


 王の住まう芙蓉宮の謁見の間からは日々の常として身の毛のよだつ悲鳴が鳴り響いている。

 腐敗役人に横領常習犯の鉱山長、僧侶を悪所に誘った大陸流れの娼婦、海賊くずれの船乗りたち、等々……


 額飾りに光る月長石、糖蜜色の肌の肩から胸につけた銀細工と綺石を連ねた装身具の重みをいつになく感じながら、ミケランは屈強な拷問人二人がかりで搬出されていく罪人を無表情に見やった。

 同情でも、侮蔑からでもない。あるがままの光景を脳裏に焼き付けておくように。

 王の不興を買えばだれもが処刑人の手に引き渡される。王族も神職も庶民も……世継ぎの王子ですらも。


 謁見の間の天井格子模様は二百年前、東玻(トウハ)帝国占領時代に東方風の建築様式に改装された名残である。

 柱や壁をびっしりと埋め尽くしている植物の文様は古来よりマンドラの主神である緑神(マンダー)を表している。他の神々と違って緑神に神像はない……島に繁茂する植物、そしてこの植物紋が神のしるしだ。

 息詰まる石柱空間の高い窓はすべて閉じられ、光明が所々に灯されているもののほとんど闇に没している。

 しかし、一体誰がこの場所を明かりのもとですっきり見渡したいと願うだろうか。柱のいたる所では白骨化した過去の死刑囚たちが装飾品であるかのようにぼんやり黄ばんで浮かび上がっている始末。


 だがミケランの父、マンドラ王国国王ジャルバットは―――狂気に陥りつつも賓客が来る時には拷問道具も死体の展示物も片付けて高地のさわやかな風を入れ、楽団を呼び、煌びやかな舞踏と酒宴で客の目を欺くぐらいの”知恵”は残している。

 恐怖に強張る島民や臣下の死相までは取り繕えないとしても。


「ミケランよ。神女(みこ)たちが“蜜”を供さぬ、とな……」

 報告を終えたミケランに王が嘆息した。格子天井を飾る輝石を映した黒床は星神(アンダラ)の憩う宇宙のように冷たい。

 光を呑む闇を見据えながら「御意に」と答える。

 直視することが許されない王の御座所は天の川の中心に在る黒い部分の神、闇神(グダンガ)を模した極薄の暗幕で遮られており、ゆらめく影絵としか見えない。

 ここ数年、王が玉座から立って歩いているところをミケランは見た覚えがなかった。

 食べるのも眠るのも排せつするのも、あるいは口にするのも躊躇われるようなことも、全てがあの帳の向こうの玉座の上でまかなわれている。

 なぜ王が動くのをやめたのか理由は知れない。知ろうとする命知らずは生きていない。


「地女神(エリシタ)の神力に狂いが生じ、緑神の気はますます衰え……ゆえに神魔の森の木々や花が毒を放ち、人や動物がやられています。神女たちすら花から”蜜“を取り出すことが出来ないという悪循環で――」

「して、そのほうの考えは? 蜜も供せぬタダ飯食いの無能女どもをどう処断する?」

「は……それは」

 問いかけに頭の中が白熱し、激しく渦巻く……阿呆になってしまったように。

 焦りを覚えるミケランの視界の隅、玉座の幕にふと影が忍び寄った。

 目を伏せた半裸の拷問人が金の器に入ったものを肘をいっぱいに伸ばして王の足元に捧げ、怯えた犬のように下がっていく。

 苛々とミケランの答えを待っていた王は器を金色のサンダルの先で蹴りつけた。

「―――否、否、これでは、ない! 余は死神(セダラー)の眼が欲しいのだ、盗人の、忌まわしきマーカリア人めが!」

 からん、からん、からん! 絶叫する王の声に負けじと皿が鳴り、こぼれた二つの球体が思考を喪失しかけているミケランの方に向かってぽんぽん、跳ねながら迫る。

「緑神よ、余も視ることあたわぬ御身の姿を、よりによってなぜあの外来人のまなこに? そのようであるから地の女神もお怒りなのだ……ええい、死ね、死ね!」

(うぐッ――――!)

 胃と食道に裏返るような激痛が走り、嘔吐感が込み上げる。先ほどまで罪人の眼窩にあった生暖かいものが視線をぐるりとめぐらせ、膝のすぐ脇でようやく止まった。

(あっ……は、吐くな、吐くな、ミケラン! よりによってコイツの前で吐いたら終わりだ、誰かに見られてもだめだ、殺される――!)

 柱の陰に控えていた僧侶たちが神を呪う王の言葉に這いつくばり、額を激しく床に打ち付け始めた。冒涜された緑神の怒りをかぶらないようにするためだ。

 おかげで、腹を折り小刻みに震えたまま身動きが出来ずにいたミケランは醜態を見られずに済んだ。

 得体のしれない悪運は王子をもう少しだけ救った。

 どうやら王は、死神と呼ぶマーカリア人への憎しみが過ぎるあまり、自分で投げかけた先の質問を忘れたらしく、つまらなそうに呟いたのだ。


「……死神めが奪っていった“あれ”さえ、あればのう……」

 手は小刻みに震え胃はまだ痙攣したままだったが、ミケランはどうにか立ち直る。側に転がっている血まみれの球体の存在は断固無視する。


『その箱になにを入れて行くのじゃ、マーカリア人?』


 脳裏にはっきりと刻まれている光景。汗ばんだ手を知らず握り込む。


(そうだ。幼き日に、私は見ていた……あの外来人が“あれ”を標本箱に隠し、持ち去るのを……) 


 呼び止められた黒い塔のような背中が振り返り、深い緑色の眼をした青白い男……マーカリア共和国最後の商館長はあることをミケランと秘密のうちに約束した――


 ふっと思考をやめ、頭の中を無にする。冷やかさを取り戻した声で答える。

「……あれからもうすぐ十四年ほど。生きているとしてもすっかり異国の風に染まっているでしょう。母親譲りの美しさは保っているかもしれませんが、魂は汚れた異郷の……」

「聡明な息子よ、美しさ以外、女に必要な衣装などありはしないのだ。使えなければ神女ども同様、屍穴に放り込むだけよ……」

「……御意に」

 聡明、の一言に、恐怖のあまり足をふらつかせまいと気力を振り絞る。

 危なかった。父王よ、まだ年端もいかぬ娘たちでございます、どうか御慈悲を……そう進言していたら今頃この腕を拷問人に掴まれていたところだ。

 

 よろめきながら退出し黒い石段を降り始めた時、不意に地響きがした。

 芙蓉宮全体が突き上げられるように振動し、いくつかの悲鳴がミケランの耳にも飛び込んできた。ミシミシと、古く重々しい宮廷全体に憎しみを振りまくかのように。


(また地震、か……!)

 

 世界の大海の中心に座し、潤沢な地下資源と神秘の力の残滓が東西大陸沿岸の列強諸国の欲望をそそり続ける餌食の島国……マンドラ。

 ミケランは、揺れの恐怖に耐えながらも呪い続けた。

 監獄も同然の島に生まれた自分自身も、島から外に出て行けるもの、出て行ったものも、何もかも。

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