1-15.風は来たり

 杖をつき、片足を引きながらグレンは玄関の石段を急いだ。

 スタイフェルが友の不自由な脚に複雑な目線を向けながらも口を閉ざしてそれに続く。


 無言で玄関ホールを突き抜けると執事がおろおろと待ち構えていた。

「温室のほうで物凄い音がいたしました! ニルナが、お嬢様をお部屋にお運びしました」

「アルメリカは温室にいたのか」

「はい。お、温室は危のうございます、まだ魔性みたいなものが……!」

 アルメリカの寝室に飛び込む。

 わずかに開いた窓から忍び込む夜風に天蓋のレースが揺れる寝台では胸の上で腕を組んだ養女が静かに眠っていた。

 長い黒髪だったはずのものが夏の夜の蒼白い月のような銀青色に変じ、両耳に見知らぬ美しい黒真珠の耳飾りが輝いている。

(シャオ、め……!)

 指の先まで電流のように怒りが走り抜け、髪も逆立つかと思われた。

「ニルナ、この部屋を離れるな」

 ほつれ毛を直し、少し赤くなっている首に触れていた老メイドが慌てて頷き、深々とこうべを垂れた。


「グレン! あの、アリィちゃんの髪の毛はどうしたんだ?!」

 血相を変えているスタイフェルを見るうち、怒りが再燃してきた。

「変化が始まった証だ」

「へ、変化? それにどうなっているんだ君の家は? これはもはや人間の住む家じゃない、やりすぎだぞ!」

 家の廊下じゅうにはびこっている熱帯植物に仰天しているのは自分も同じだったが、謂れなき非難に反論している暇はない。

 書斎の奥の通路から、壁といわず天井といわず這い回り繁茂している蔓薔薇を園芸家にあるまじき手つきで引きちぎっていく。棘がいくつも手に赤い筋を作った。

 やがて鉄の支柱だけをさらけだし、廃墟のような姿に変わり果てた温室に至る。

 星明かりが降り注いだような硝子の破片を踏みしだき、荒れ果て、傷ついてしまった熱帯の植物たちの惨状を見回しながら奥へと進む。

 断ち切られた枝の生々しい匂い、散り急いだ花の残香、砕け散った鉢、しおれきった花びら―――冥蘭の堕ちた白色を視認した時も表情を変えはしなかった。だが。

 行く手、執事が“魔性みたいなもの”と呼ぶのも頷ける、妖しくも華麗な黒衣の美青年……セイミ・シャオを見た瞬間だけは眉を動かした。

 通路の下を流れる水路に半ば顔を突っ込んで気絶している。

 側に屈みこむと王子の手首に手を当て、脈と呼吸があるのを確かめる。そのまま背中の衣服を半分だけめくりあげる。焼き鏝の後は染料で巧妙に描かれたものだった。

 呪わしき甥が、とんでもないペテン師になって生きていたことはもはや動かしがたい事実。

 スタイフェルが悪態をつきながら追いついてきた。とっさにグレンはぐったりしたシャオの胸倉を乱暴に掴みあげてその頬を左右から張り、どさりと乱雑に手放す。

「……やはり、死んでくれてはいない。なんと面倒な若造がいたものだ」

「暴言が過ぎるぞ?! それに玉顔を往復でひっぱたくとは! 気持ちは分かってやらないでもないが今は怒りを収めてくれ」

「怒る? 私が怒りに駆られていると? ならばもう一本の足もくれてやるぞ。それで私がこの上もなく冷静であると認められるのならば」

「ああ、まったく……君というやつは! 温室に保険はかけてあるんだろう?」 

「無論だ。だが植物はかなりの痛手だ。急いで植物園に移さねばなるまい」

「シャオ王子が東方の妖術でも使った……かな?」

「地中の配管が爆発したのだろう」

「爆発っ?! 最近の庭は物騒だな。しかしこの植物の繁茂はいったい……」

「海運会館でのことを告発するつもりはない」

 これは理性の戻りではない……むしろ世迷言に近い。

 グレンは、自分が、自分自身をも欺き始めているのを驚愕をもって自覚した。


「あれは、ベルの誤作動だ。驚いた王子は動転し、窓から出て行った。私が彼を逮捕させると勘違いさせてしまったらしい」

「それなのになんだって狩人の家に逃げ込むような真似を? わからんな……」

「逆に私を利用するつもりだったのだろう。私がひそかに王子を自宅に呼び出し、脅した挙句傷つけた、となれば現状、国際問題にもなりかねん。式典での私の無礼ぶりももはや周知の事実だ」 

 海運会館で受けた打撲の痛みと懐の魔法の香炉を隠し通しながら淡々と騙り続ける。

 セイミ・シャオは稀代の詐欺師で、しかもグレン・フレイアスの亡くなったはずの甥だった……

 それを告げれば世間はどう見る?

 詐欺師を、共和国の、いや世界の敵として切り刻み、断罪するのにグレンとてやぶさかではない。例えそれが自分の甥でも。いや甥だからこそ……

 むしろその責任を放棄することは大罪に等しい。

 心を定め、ついに、スタイフェルに言い放つ。

 

「そう……この若造がサンガラ王子かどうかはもはや問題にはならない」

 吐き気にもにた、自己嫌悪。

「特権階級に属する、忌々しくも狡猾な旅行者であることに変わりはないのだからな。世論の反応を鑑みても事実は伏せ、禁固が関の山だろう。聖なる囚人号も理由を付けて留め置くのだ、沙汰が決まるまで出港させるな。私は適当な船が見つかり次第、明日にでもマンドラへ発つ。後のことは君に一任する」

 血の気を失ったような頭で、話を切り上げた。狼狽しているスタイフェルの声ももう耳に入らない。なぜなら、グレンもまた狼狽していたのだから。

 いまシャオの正体が知れれば世間も政敵も、闇宰相が甥とグルで大がかりなペテンを仕掛けたのだと言いふらすだろう。

 自分が無罪を主張し、それが認められたとしても、解き放たれた醜聞という獣がグレンからすべてを奪い取り、狩り立てる。

(破産も破滅もしている暇はない。今は)

 来年の偏西風までは、待てなくなったのだから。


 ヴェガが”発見“されたのは、邸宅の片付けの指示を飛ばしている最中のことであった。

 港のドックから猛獣の唸り声がする、と震え上がった港湾関係者の通報によって見つけられた時、ヴェガは鉄の鎖で柱に縛りつけられていた。鎖を引き千切らんと何時間も暴れていたせいか装束はぼろぼろ、そして暗褐色の肌のあちこちから血を流して。

 引き渡されたヴェガは一切の弁解をしなかった。彼が受けた屈辱と敗北を表す言葉はマーカリア語の語彙にもなかったのだろう。

「ヴェガよ。貴方が翻弄されたのはおそらくはミアンゴのシノメ……もしくはそう称される者。仕方あるまい」

 この頃にはグレンもようやく理性を取り戻し、新しい使命と計画について考えられるようになっていた。

 が、うな垂れながらもヴェガは唸るようにグレンの言葉を否定した。ただのシノメ違う、と。

「あの男、我が名尋ねた。我名乗ると、自分はアンキだ、と言った」

「……アンキ?」

 遠い記憶を探った。昔、マンドラ島の僧院で学んだジンハ教の教典の中の言葉が行き当たる。

“暗鬼(アンキ)”。

 報われぬ魂と冥界に墜ちた妖の境に立つ、心を失くした状態の人間のことだ。

 なぜ、甥はそんな者と行き遭ったのか。

 一蓮托生……東方の言葉。

 真実の価値は、誰かが、あるいは何かがしかるべき時に決め、グレン・フレイアスとシャロン・ナルディアスは手酷い鉄槌を受けるであろう。

 それは別に構わない。

 だが明日までは待って欲しい。アルメリカが出航するまでは。


「王子とその郎党どもの扱いは総督に一任する。それよりも、アルメリカだ。彼女はもうこの土地では暮らせん……時が来たのだ、ヴェガ。共に来るな? マンドラへ」

 顔を昂然と上げたタルタデス人の返答は矢よりも素早かった。無論、と。

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