1-14.冥蘭

 黙って手を引かれるままのシャオ王子を伴い、アルメリカはほとんど駆け足になった。そして一つの鉢植えの前にたどり着く。


 夜目にも艶やかな緑の柔らかい葉肉、葉先はどれも少しねじれている。そして天に向けて広げた掌のような葉っぱの中央からすっと首を伸ばした花茎は、ただ一本…… 

 その先端では膨らんではいるが頑なに閉じたままの、大きな白い蕾が意味ありげに揺れていた。


「これです、貴方が見たかったものは、これ! マンドラの、冥蘭(メイラン)という幻のお花です。赤道に近いマンドラ島には、今でも不思議な植物や動物や、精霊や悪い悪叉(アクシャ)たちが住んでいるそうなんです。その中でも一番不思議なものがこのお花なんですって。たとえ言葉がばらばらであっても、この花の香りの中では“魂”で行き来したり、動物と人間が会話が出来たりしたのだって。おじ様は、このお花の咲かせるためにやっとこの温室を創り上げたんです。あっちには高山植物用の温室もあっ……て?」

 王子は少しも冥蘭のことを見ていなかった。

 ただ夢中で話続け、王子を励まそうとしているアルメリカを見つめ、まさしく花々も恥じ入るような微笑みを取り戻していた。

「貴女の純真さと輝きは、ここの花がたとえ一万回咲き誇ろうとも敵いはしない。貴女は厳しい彼の元でも自らを見失わず素直に、そして聡明に育った。どこかの誰かとは大違いだ……」

「……ええ? ええ、どうしてか、分からないけれど」

「その事実だけで私には十分、羨ましい。人に愛されたことのない私には」

「まさか? そんな。だって王子様は、そんなに素敵なのに? 素敵なだけじゃないわ、とても勇気もおありよ、だってサンガラみたいな遠いところからこんなに遠いマーカリアまで……わたしには出来ない生き方ですわ」

「確かに私は長旅をしていつもこの貌や姿をほめそやされて来ました。でも皆、私を知れば知るほど、口を揃えます。“深みがない”と。私には深みがないんじゃない、底がなく、心がいつも虚ろだ―――私のあさましい虚栄心のために貴女の人生まで奪うことなんて、出来ない。それならば我が身を枯らしたほうが幾千倍も価値がある……アルメリカ、どうか自分を粗末に考えてはなりません。貴女は鉢植えなんかではない……まぎれもなく、グレン・フレイアスのかけがえのない娘、です」

「……王子様?!」

 シャオ王子は謎めいた憂いを断ち切るように黒髪を振ると、すでにアルメリカから身を離し大きな棕櫚の木の奥にある通用口の方を窺っていた。


 引き留めないと、お別れしてしまう――きっと、永遠に。


(わたし、王子様と離れたくない……だってこの人は傷ついているのだもの)

(何よ、それ。同じテーブルどころの騒ぎじゃないわね)

 ふと自分の中で、普段は封じ込めているはずの“意地悪な自分”が嘲笑した。

(貴女だってレオノラたちと同じ、単にシャオ様を独り占めしたいだけじゃない)

(違う……わたしは彼女たちとは違う……王子様が心配なだけ)

(言い方を変えたって女の子の考えることなんて大体同じよ、口ではしおらしく言い訳してみせようと、大金持ちフレイアス卿の養女様ですもの。腐っても何とやら、よ。たとえ金の力に惹かれて来たに過ぎないのだとしても、こんな美男子がお相手なら成金娘を完全に見返してやれる、そうでしょう?)

(違うったら!)

 いったい自分のどこにこんなどす黒い考えが潜んでいたのだろう? 

 自分自身を拒絶しようと躍起になり心の中で声を張り上げたその時――


 空気が見えざる激情に刺激されたかのように弾かれたかのように張りつめ、視界の隅で何かが“ほっ”……と息をついた。

 我に返った時、そこに信じられない光景を見出す。

 白い大輪が、冥蘭の鉢植えで開いている。ほんの少し目を離したこの瞬間に。

 アルメリカの視線を追った王子も立ち止まり、目を見張った。

「いつの間に……?」

 大きながく片が三枚、花弁も三枚。そしてその中央、一枚だけが真っ青に色づいている。その芳香はこの温室にあるすべての香りを取り込むほど甘く、目に見えるかのようだった。嬉しいというより愕然としている自分に気が付く。あまりの珍しさに、王子も感嘆のまなざしで花に数歩、近づいた。

「こんな花はみたことがない。まるで帆を張った帆船のようだ」

「……大変、おじ様、早く帰ってこないかしら。ああ、なんてことなの……」

 アルメリカの言葉に、花に魅入っていた王子がかすかに顔を強張らせた瞬間。

 不意に冥蘭の花が揺れ出し、生々しいほどの芳香を強めた。温室中に充満していた植物の“気”が高まる。熱帯の枝々がざわりと揺れた。温室に風が起こるはずがないのに。ざわめきは温室中に広がり、外界とを隔てる硝子がビシ、としなった。

 全ての緑たちが動き出す。くねくねした樹木に絡み付いて天井へと駆け上がっている香蘭(バニラ)の葉陰が激しく揺れ出した。

 まるで自分の身体が天のどこかに吸い込まれていくような感覚の中で立ち尽くしているアルメリカの耳に誰かの声が響いた。冷たい手を引かれて我に返る。

「……アルメリカ? アルメリカ、大丈夫か?!」

「おう……じさま……? わたし……わたし……」

「きっとこの花のせいだ。君のおじ様はいったい何を育てていたんだ?」

 シャオ王子がやけに忌々しそうに吐き捨てながらもアルメリカを不気味な成長を続ける冥蘭や植物たちから遠ざけ、反対側のシダの木陰にかくまうように押し込めた。

「わたしが頼んだの、マンドラで一番珍しい花を見てみたいって。おじ様は一つだけ種を持っていらして。何年もかけて一生懸命……今年やっと、ここまで……なのに」

 すると、アルメリカの肩をシャオ王子がそっと抱きよせた。さっきの意味深な振る舞いとは違う、兄妹のような思いやりの籠った手つきで髪を撫でてくれる。

「それなら、私だって咲かせようと懸命にもなる―――」

 王子の真心に心が波打ち、思わず彼に抱き着きそうになるのを必死で我慢した。

 その時、おそろしいほどの芳香を放っていた冥蘭がまるで自らの“毒”に当てられ過ぎたかのように黒色に変化していった。中央の蒼い花弁の奥の雄蕊が黒く輝き始める。


 花芯の奥から黒く渦巻きながら出現したものに二人は息を呑んだ。


 ツルとも樹の根ともつかないものはまるで病に冒されているようにいびつで、突き出た瘤がうごめきながら苦しげに伸び縮みしている。

 一番巨大な瘤がはじけた。声も出せずにいる二人の前で、何か黒い丸まったものが飛び出したかと思うとしゅるしゅるとほどけた。禍々しいほど黒い蛇だ。鎌首をもたげ、不気味な影のように大きくなりながら、黒光りする眼をアルメリカに向けてくる。

 アルメリカは、突然のことに悲鳴を上げた。

「助けて、誰か助けて……ニルナさん、ヴェガ――!」

「だめだ! ……だめです、アルメリカ。頼むから、誰も呼んではいけない!」

 そう言いながらも王子がアルメリカを背後にかばった瞬間、蛇が毒液にまみれた牙を剥きだし、飛び掛かった。ガキッと嫌な音がして王子が蛇と共に倒れ込む。鉄の首輪に牙を阻まれた黒い蛇体をかろうじて掴み、格闘する王子の沓が植物棚を蹴り飛ばした。並んでいた鉢植えたちが冥蘭もろとも落ちて砕けた。

 目の前で、侵食されてしまった冥蘭の花びらの一つがはらりと落ちる。


(……許せない、許せないわ)


 強い芳香と思念の向こう、黒い蛇体に巻きつかれ意識を失いかけている王子の姿を目にした瞬間、目の前が白光に包まれ、涙がとめどなくあふれだすのを感じる。

(おじ様の冥蘭も、シャオ様も……他の誰にも、渡さない――わたしだけのものよ!)

 浮遊するような感覚が頂点に達したその時、お嬢様?! と言って飛び込んできた影があった。続いて驚愕の悲鳴があがった瞬間、光が弾けた。


 凄まじい轟音を上げ、熱帯温室の硝子が全てひび割れ飛び散った。まるで天の川が氾濫したように夜空に粉々になった硝子が舞うのを、夢の中のように見上げる。

 ここの空気が消えたら、みんな枯れてしまうのに――――


 意識を失う寸前、アルメリカの胸を満たしたのは闇の渦巻きの中に落ちて行く墜落感と、罪悪感、だった。

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