1-13. 罪と夜のはざま
「あの、わたし、お花たちの様子を見に来たんです。いつ咲くか分からない子もいるから……王子様はここに何をしにいらっしゃったんです? それに……とてもマーカリア語がご堪能でいらっしゃいます」
「ありがとう」
王子はてらいもなくアルメリカの賛辞を受け流しながら、温室と、ガラス越しの夜の庭を見渡した。
(なんだか懐かしい場所にでも立っていらっしゃるようなご風情ね……)
ぼうっと見惚れたままそう考えていると、
「貴女はいつからここにお住まいなのですか」
思ってもみないことを聞かれる。まるでアルメリカが”外来種"だと知っているかのよう……いや、見抜いたのだろうか?
「あの……八歳の時にルネーアの郊外にある修道院から引き取られてきました。ルネーアっていうのは、ウィンドルンより山地の方にあって……」
「ああ、大金持ち達が大邸宅を建てて住んでいるマーカリア第二の都市ですね。確かに、身よりのない女子の身柄を安全に預けるには人の出入りの激しいウィンドルンよりあの街のそばの修道院こそがうってつけ……フレイアス卿は身内と貴族趣味がはびこり、海岸線も見えないあの街が元々お好きではなかった。国中の誰よりもお金持ちなのに、海辺の街のこの、彼の経歴を鑑みれば慎ましい邸宅にこだわった。彼は海と陸の間で富を抱え……一体何を思い、何を待っているのでしょう、ね」
扇ほどもあるシダの葉を王子の整った指先がそっと撫であげる。緑の葉が身悶えた。
「風か。人か。それとも……運命、でしょうか……?」
深く沈降する王子の声と艶めかしい手つきがアルメリカの身体の奥の芯をざわつかせた。思わずスカートを両手でつかむ。
ただでさえ激しい鼓動が、もはや聞かれてしまいそうなぐらい高まる。
(なぜ、そんなにお詳しいのかしら……そうだわ、シャオ様は、おじ様に会いにいらっしゃったんだわ! 歓迎会では会わなかった御様子ね。やっぱりおじ様、さぼったのかしら)
グレンはきっと、自分が見ず知らずの若い男と夜の庭で話しているなんて想像もしていないに違いない、いや違う、見ず知らずどころか、いまや西方中がその名と美貌を羨望するセイミ・シャオと、なんて。
「貴女は実に聡明で、純粋で……思いやりにあふれた女性ですね。貴女のような目をした女性には世界の半分を巡ってきた私だけれど出会ったことがありません」
「そんなこと?! ありえません。わたしは平凡だし、地味だし、外にはあまり馴染めないんです、まるでここに運ばれて来た植物たちみたい……あのっ、申し遅れました、わたし、名前はアルメリカと申します。古い西方語で、新天地っていう意味なのですって……」
「アルメリカ。素敵なお名前だ。私は、好きです」
手放しでほめられ、アルメリカはますます舞い上がった。シャオ王子はその様子に笑みを深め、さらに甘柔らかく囁き始めた。
「フレイアス卿は、貴女の本当の御両親も羨むほど良き養父でいらっしゃるのですね」
「そう、そうなんです。おじ様が名づけ親だそうなの! わたしの両親はマンドラ島の内戦で命を落としたとしか……おじ様はわたしのお母様の親友だったと聞いています。その、出会った時、お母様のお腹にはわたしがもう居たんですって……」
「それで、親友、ね……」
王子の微笑が少し冷たく見えた。それに落ち着いて観察すると、お顔の色も悪い。
自分ときたら、自分のことばかり考えて。
「王子様、あの、ご気分が悪いのではありませんか? うちの庭には、港を一望出来る素敵な丘があるんです、わたし、貴方の乗ってきたお船をそこで朝、見つけたんです。ここの空気は少し息苦しいでしょう? 外へ行ってみませんか?」
アルメリカは先に立って歩くと扉を開けようとした。
と、背中に迫る気配に本能的に振り向きかける。音もなく身を寄せてきた王子が背後から抱きしめるかのようにアルメリカを捕まえた。扉に向けて伸ばしかけていた薄褐色のアルメリカの手に、ひやりとする白い手が絡まり、そのままゆっくりと押し包む。
アルメリカの息は、文字通り止まりかけた。
「お、おうじ、さま……?!」
相手の顔が見えない態勢なだけに、耳朶を震わせる声だけがアルメリカの知覚出来るすべてとなる。
「君の心根の美しさを見ていると、我が心のあさましさに身が震えます……でもお願いです、どうか今すぐ、私と共に来てください。私は君に会うためにはるばる世界の果てからやってきたのかも知れない……どうか私を信じ、全てを委ねて下さいませんか?」
耳を疑う、とはこのことだ。
「あの……あの、わ、わたし……?! 人違い、なさっていませんか?」
「つれない言葉すらも可愛らしい……夜をまとう私では不満ですか? それとももっと荒々しい、炎の私がお好み? 何でも仰ってください、私は貴女に何もかもを捧げたい……どうか、私の船に、来て」
王子のしなやかな力で、ますます身動きがとれなくなる。自分が逃げたいのか、あるいはそのまますがりたいのかさえもわからない。肺の中までも、王子がまとう未知の花の香りに満たされ、思わず目をつぶった。頭の芯がぐらぐらしてどうにかなりそうだ。
「どうして? どうして、わたしなんです。わたしに会うためだなんて。可愛い子も本物のお姫様も、世界中に沢山いらっしゃったでしょう?!」
「貴女だって、本当は世界に羽ばたける。ひどい飼い主に閉じ込められた小鳥をいつくしむのに理由が要るのなら幾千万でも連ねましょう。私は貴方と、世界を旅してみたいのです」
「お、王子様と、わたしが?!」
頬が燃えだしそうに紅潮し、かすかに感じていたはずの違和感も吹き飛んだ。
「どこへ……どこへ?」
つい先ほどまで自分はずっとこの家に居たいと考えていたはずなのに、王子の誘いに蜜に惹かれる蝶のようにアルメリカの心は引き寄せられた。
「どこにでも……どこまで、も。貴女のためならば。この夜が明け、次の朝日が照らすときには貴女はその名にふさわしき世界を目にできるでしょう。今宵貴女が、私を望んでさえくだされば」
「でも、わかりません。何か、変です。わたし、わたしは、だって……」
「貴女はご自分の真価をご存じない。何も心配は要らない、今はただ私を信じ、身一つで応えてください。それだけで私は貴女のもの……そして自由にもなれるのですから」
王子のぬくもりと蕩けるような声がアルメリカの意識をいよいよ満たそうとしたとき、一つの言葉が、少し遅れて胸の底に落ちた。
真価? いま王子は確かに、そう口にした。
喘ぐように呟いていた。
「わたしが、グレン・フレイアスの養女だから、ですか?」
王子の腕にわずかに力が入った。アルメリカは、王子が動くよりも素早く首を振る。
「王子様、わたしは貴方を一目みた時から……いいえ、どこかで貴方の不思議にお美しいお名前の響きを聴いた瞬間から、貴方に会いたいと心の底から願いました。でも、でも、こうして本当に貴方に会っても……わたし、どうしていいのかさえわからない。こんなわたしを通して何かを働きかけようとなさるのは、無理です。おじ様は普段は優しいけれど、そういうことではわたしにも厳しいし、この国でも外国でも色んな人がおじ様に会いたがっているのも知っています。でもわたしは、ここで育てられているここの鉢植えの一つのようなもの、それだけ……本当に、それだけ、なんです。王子様のお役には、きっと立てません。ごめんな、さい……!」
惨めな気分で、アルメリカは言い終えた。
小さく震えながら今にも泣き出しそうになっている身体から、そっと王子の腕が、温もりが、離れて行く。
後にはつまらなく退屈で、寒々とした自分だけが残る。
顔を向けられないまま、両手で覆った。
こんなに素敵な夜に、そしてこんなに素敵な人に向かって、こんなことを言いたくなんて、全然ないのに。
「ごめんなさい、本当にごめんなさい……王子様。わたしは、なんて、不作法者なの」
「……謝るのは私です。アルメリカ、どうかいま一度、お顔を見せて……こちらを向いてくださいませんか」
優しい声に、逆らえるはずもない。
ゆっくりとアルメリカは手を下ろし、ぎゅっと瞑りすぎて……そして堪えきれなかった涙で滲んだ視界を振り向け、息を呑む。
そこには片膝をつき、赦しを請うようにアルメリカを見上げる王子がいた。蒼ざめた百合のように動きを止めて。
「ありがとう……アルメリカ」
先ほどまで強引にアルメリカを捕らえていた彼の手が今度は壊れ物にでも触れるかのようにおそるおそる伸ばされ、やがて離れていった。
少女の両耳に、深い色あいの耳飾りを残して。
「ささやかですがお詫びの品です。とてもよく似合っている」
「そ、そんな。わたしこんな綺麗なもの、受け取れません……!」
思わずかぶりをふるとそれだけで凛、としたえも言われぬ美しい音がする。
「いいえ、受け取ってください、おろかしい私への情けだと思って……」
「でしたらわたし、貴方のその首輪を取って差し上げます、それを頂きます!」
すると王子は不意をつかれたように笑い声をあげた。市井の若者のような屈託のなさがアルメリカの全身により深く、甘く痺れるようなさざ波を走らせたことも知らずに。
しかし王子が見せた明るさは風の中の蝋燭の火のように儚い。
「この首輪同様、私は見せかけだけの人間に過ぎません。ここに来たのも……間違いでした。でも見たかったのです。高名なるフレイアス卿がいま、何を最も大切に護っているのか、一目」
(なぜ?)
王子もまた、アルメリカ同様……いやそれ以上に何か激しい感情に耐えようとしている。
(どうしてそんなに……わたしのせい?)
「……それなら、わたしがすぐに教えて差し上げられます!」
無礼は承知で、うなだれている王子の手を取った。
「こっちです、こっちに、グレンおじ様の一番の宝物があるの!」
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