1-12. 温室
廊下に出ると養父の書斎は闇に没していた。ヴェガも一緒に出掛けたのだろうか。
夜の留守番なんて、素敵だ。昼間の世界も不安なこともぬるい闇の中にまぎれこんでしまうよう。
何かに後押しされるかのように夜の温室へと忍び足で進んでいく。住み込みのニルナや執事さんにこんなお転婆を気付かれたくなかった。
昼間よりも静まりかえった温室に入ると夜目にも鮮やかな緑色と、温められ、しっとりした空気に包まれる。
木が木に登っていたり、木の幹の途中に唐突に花を咲かせたり……マーカリアの冷涼で乾燥した気候では育たない、奇妙な南海の植物たちがアルメリカを出迎える。たった一枚の硝子板で仕切られているだけなのに、全てが外とは違う。
硝子張りの天井の上には、ウィンドルンの澄んだ月夜。
こういう温室を作る為にグレンは国外の優良硝子工房を従業員ごとごっそりマーカリアへ引き抜いたそうだ。一見、何の仕掛けもないように見えるが、所狭しと鉢植えの置かれた花台の下には絶えず地下水が流れる貯水槽がある。さらにその下には鋼鉄の管が何本も走っていて、庭の外れの施設で絶えず暖められている空気を通している。
世界中の珍しい花々が仲良く育っているグレンの庭は、どんな魔法の庭も敵わない、世界の美しい縮図みたいだった。
冥蘭の鉢は、昼間と変わらぬ佇まいで青い光に濡れていた。蕾は膨らんでいるけれど、ほころんではいない。大丈夫、グレンの帰りを待ってくれている。
ほっとしてため息をついた、その時だ。
視界の隅を影が横切った気がした。心臓が飛び上がる。
もしかしたら亡霊の類かも。
昔死んだ”シャロ”が彷徨っているのかもしれない、燃やされた木馬を探して。それだとアルメリカには呪われるだけの理由がある。
あれを見つけて、処分されるきっかけを作ったのはこの自分だから……
と、また、物音がした。間違いない。誰かが書斎から温室へ来ようとしている。
慌てて、温室の奥の棕櫚の樹の背後に逃げ込み身を潜めた。ヴェガが来てからは門衛も不要になり、不審者どころか鼠すら居なくなったくらいなのに。
扉を開ける音。
ついに人影が温室に入ってきてしまった。
植物泥棒かもしれない。なにせグレンの手元には一個が二千グルーベもする珍しい球根や、市場では流通していないほど貴重な薬草がある。
そして、何より。
(おじ様の、大切なお花たちが!)
沸騰するような焦りを感じ、鉢植え棚と自分の距離を測ろうとした。
恐る恐る、葉の隙間から侵入者の足元を見やる。靴を見れば大体どういう素性の人間か分かると思ったからだ。しかし観察してますます困惑した。
絹張りに、珊瑚石が散りばめられたとても美麗な東方風の沓?
随分変わった泥棒だと眉をひそめた瞬間、その足が消え、誰かが葉っぱをかき分けて顔を現した。闇越しでも分かるほど整った白皙に驚きを浮かべている。
「っっきゃあああああーーーーっっ!」
自身の悲鳴が響き渡るのを聞きながら、アルメリカは逃げ場を求めて飛び出した。
が、入り口にはすでに植物泥棒が立ちはだかり、ほぼ体当たり状態の少女を抱き止めてしまう。すぐに優しくやんわりと離された。生花とは違う、気高く甘い香りがその服や髪から漂ってきてそれだけで目の前が眩むよう。
「驚かせたのなら、申し訳ないことを。貴女は……?」
ヴェガ以外の男性とこんなに密着したことも、優しく扱われたこともない。
何て美しく、柔らかく、心がひんやりとするほど密やかな声。
「だ、誰って、それは、あたしが聞くことですっ……!」
不審者だけれど影絵すらも高雅な相手を月光を頼りに見上げたその瞬間、世界ががらりと様相を変え、足元で軸がずれたように眩暈がした。
ありえない、夢の中でも、ありえない。
「わ、わたしは、貴方を昼間、見たと思うのだけれど」
上ずった声でやっとのことでそう言った。自分と同じ黒髪、見果てぬ蒼海の色をした青年……まぎれもなくセイミ・シャオの玲瓏たるまなざしが、無防備なアルメリカを貫いた。
「そう、私をすでにご覧でしたか……私も昼間の貴女を、お見掛けしていたのならよかったのに。澄んだ陽の光の下の貴女を」
ではやっぱり御来航行列のあの瞬間、王子が自分を振り返ったような気がしたのは気のせいだったのか。
少しばかり傷心したが、本人をこんな近くで目の前にしておきながらもそんなことを惜しむとは、自分はなんと滑稽なのだろう。シャオ王子を一目みてからどんどん自分が自分らしくいられなくなるのは、なぜなのか。
高鳴る心臓を抑え込みながら我にかえったアルメリカは慌てて王子から身を離し、レオノラのような娘の仕草を真似てスカートをつまみ、精一杯大人びてみえるよう挨拶をした。
「は……初めまして、セイミ・シャオ様! お会い出来て光栄です、本当に、本当に! その……どうしてこんなことになっているのか、わからない、けれど……?」
昼間のきらびやかな装束とは一変、シャオ王子は黒一色の美服をまとっていた。
黒髪に紅色を帯びた前髪、両方の耳朶に群青の蜻蛉玉と黒真珠の耳飾りをつけ、それが尚一層、青褪めた艶姿を昏く引き立てている。
それなのに首に恐ろしい鉄の輪をはめていて、どこか哀しげでもある。
アルメリカの精一杯のあいさつが終わるのを上品な笑みをたたえたまま見守る青年の瞳は、お忍びで地上に降りてきた星の精霊のようだ。
(言えないわ。さっきまで貴方と一緒に船に乗ることを夢見ていた、だなんて。レオノラと同じテーブルについている貴方を想像したら胸が張り裂けそうになった、なんて。どうしたらいいの? こんな時、こんな方に何をお話しすればいいの?!)
一方で冷静な部分が警鐘を鳴らす。
舞い上がりすぎよ、少しは疑ったらどうなの? と。
そう、状況だけを見れば王子は不法侵入者以外の何者でもない。
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