1-11. アルメリカ

 半分開け放った窓からの夜風に、手元の本の頁が小さな帆のようにためいている。

 うとうとしかけていたアルメリカは、はっと我に返る。挟んだ栞の下の文字がぼんやりと目に入った。


“花よ、お前は、誰を愉しませるためにそれ以上美しく咲くのか? 私だけの花でいてくれはしないのか?”


 そうだった。あまりにも凡庸な詩集だったせいで、眠くて仕方がなかったのだ。

 あらゆる意味で高名な養父の元には、推薦文を求めて毎日大量の献呈本が送りつけられてくる。植物学に関するものが殆どだが、中にはただ植物が出てくるというだけでこんな詩集まで紛れ込んでいる。アルメリカ自身、本当は養父の本棚に詰まっている自然哲学だの探検記だのを引っ張り出してくるほうが好きだったが、埃を被っている哀れな本たちを時々こうして“救済”せずにはいられないのだった。

 ランプに灯を入れ、また詩集に目を通そうとして、数行読んだところで諦めた。

 たとえ陳腐な詩の羅列であっても、不似合なほど素晴らしい挿画を見ても、夢のような御来航行列と、黒に縁取られた精緻なる蒼玉色の瞳の主が目の前をちらついてさっと頬が熱くなってしまう。

 きっと、こんな想いに囚われているウィンドルン娘が今日のうちだけで何人も誕生したに違いない。

 そう考えてアルメリカはますます、身の置き場のないような、得体のしれない焦燥に駆られる。もうよそう、他の娘たちのことを考えるのは。

(シャオ王子も今夜、この街の港で……聖なる囚人号の中でお眠りなのね……)

 海辺の鳥たちが羨ましい。船のへさきにそっと舞い降りたならば、異国の夜の甲板を物憂げに歩く王子の影を見かけることもあるかもしれない。西の涯ての海の波音をお一人で聞いていては心細くならないだろうか? 自分がそばにいれば夜通しでもお話を聞いてさしあげるし、たくさんお話もしてあげられるのに。

 でも自分は港町に住みながら、岸壁に近づくことすら禁じられている。


『貴女は、さる高貴なマンドラ人の血を引いておられる。覚えておいてほしい、マーカリア共和国はマンドラ島の善き友人であり、マーカリアを誰よりも熟知する私は従って、この世の誰よりも忠実な貴女の味方であるということを』


 養父なのに、おとう様とは呼ばせてくれなかった彼は十二歳の誕生日にそう告げ、アルメリカの世界を一変させた。

 あとで自分で世界全図を広げた時にさらに仰天してしまった。

 マンドラ島は、西方大陸と東方大陸のど真ん中、陸から何千タリク(キロ)も離れた絶海の島国であった。とても自力ではたどり着けない、そんなにも遠い故郷に何を想えばいいのか、分からない。それは今でも同じ……

 十三の誕生日には、マンドラ島へ行ってみたいか? と尋ねられた。

 いいえ、とすぐさま答えてしまった。いいえ、おじ様、行ってみたいなんて、特には。


『だって、残虐王ジャルバットってまだ生きているんでしょう』

 共和国の首都の静かな夕べに、”ジャルバット”という異国の響きは、それだけで何か異様な感じがした。グレンはアルメリカを見つめ返し、生きていると答えた。

 アルメリカの母、シュリガ族のセリカは、ジャルバット王の迫害に遭い、赤子の自分を連れて港に逃げ込みマーカリア行きの最後の船に乗ろうとした。だが船には一人分の隙間しかなかった。母は親友のグレンに赤子を託し、自らは島に残り残党の刃にかかってしまった―――養父の話に、アルメリカは母の運命の悲惨さより何より、蒼ざめた。

『わたしは、マンドラ人なの? マンドラへ帰れって言いたいの? おじ様?!』

『貴女が世界のどこにおられようと、私の大切な養女であることに変わりはない』

 それきり沈思し、養父もまたそそくさと立ち去った。

 グレンは優しい。けれどもアルメリカとの間に情愛の一線を越えないよう絶えず距離を置いているのも事実だ。

(いったい、何のためにおじ様はわたしを長年養ってきたのだろう?)

 対外的な理由なら、比較的はっきりしている。

 彼が言った通り、迫害のために滅亡しかけた先住部族の血筋を保護するという名目だ。でもそもそもなぜジャルバット王がシュリガ族を根絶やしにしようとしたのか、外来人のグレンが救いの手を差し伸べた理由、アルメリカの母親や父親とはどういう関係だったのか……まだまだ何も教えてもらっていない。

 教わる心構えも出来ていない。

 ちょうど後ひと月後……九の月の終わり頃にやってくる十四歳の誕生日は待ち遠しいというより怖いものになりつつある。

(マンドラなんかより、ヴェガとおじ様と三人でタルタデスへ行ってみたい……)

 かつてヴェガからタルタデス語を習っている時に教わったことがある。

 南の海、沙漠と同じ、とヴェガは切り出した。


『海の水、熱すぎて、魚少ない。海竜、居ない。赤道境界のもっと下、世界の底から来る冷たい滝の流れる海のぶつかる場所、海竜の巣。大海竜ナラ=ヴァ……タルタデスの漁民ら、そう呼ぶ。意味は―――“死を呼ぶ竜”。《上半球》の竜、尾びれだけで泳ぐ。ナラ=ヴァ、それよりずっと速い。海中翔びまわる』


 アルメリカの目を見て、まるで狩人の口伝でも伝えるようにヴェガは念を押した。


『狙われれば、海の上、逃げ場ない。ナラ=ヴァよりも速い、大いなる風だけ』


 想像するだけで胸が一杯になり、アルメリカは、ため息をついて軽くしようとするのだった。  

 水差しに手を伸ばそうとして、ふと外を見る。月光が青白い小雨のように音もなく降り注いで艶やかに輝く夜の花々を染めていた。

(……そう、冒険なんて、せいぜい自宅の回りだけにしておくべきなんだわ)

 外に出たいなんていうのはもうよそう。船に乗りたいとか植物を採集しに行きたいとか我がままを言って養父を困らせるのもよそう。

 冒険も挑戦も見栄っ張りも、もうたくさん。わたしは今のままで、十分。いまのままがきっと、一番幸せなんだもの。


 その瞬間だった。“あの花”のことを思い出したのは。

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