1-10. 浄財

 今宵は、東方でいう鎮魂祭だ。

 毎年夏のこの時期になると東方では札を買い、炉の中で燃やす。青海女王という海の大女神が死者たちの魂を慰めるため、この世の海とあの世の海との間に特別な橋を繋げてくれることへの御礼だ。

 浄火をくゆらす金炉の中へ、小柄な東方人も、左手に抱えた書類を一枚、また一枚とくべていた。

 セイミ・シャオの名で銀行で振り替えればカネになる金券や証書の類を。

 青銅で出来た金炉は灯籠の形に似ており、聖なる囚人号の後甲板の左舷と右舷、それに船首付近にも置かれている。海の魔除けの意味もある。 

 本来何の価値もない紙が、本当に海の女神への御礼の意味を成すのか?

 だが、王や女王の顔が刻印された金貨や銀貨ならばより価値があるとでも? 

 報われぬ魂が、より深く慰められるとでも? 

 宙で星が瞬くたびに命は生まれ、消えていく。やがて自らも墜ちる闇の間に間に。


 物憂げに考えたその時、背後に気配があった。振り返らないまま東方人……ハルは笑顔になった。

「お帰りなさいまし、シャオ王子!」

「随分高くつく“札”だな……あんたの取り分じゃないか。まさか腹いせに燃やすためにウィンドルンくんだりまで来たのか」

「あっしはこう見えても敬虔なジンハ教徒……」

「あんたがそろそろ燃やしてしまいたいのはセイミ・シャオなんだろう、本当は」

「こいつぁまた異なことを。偽のサンガラ王子作戦、そのためにそれらしい東方人の従者役を探しておられたのはシャロン・ナルディアス……貴方でございましょうに?」

 そっと、普段は滅多に口にする機会のない相手の本名を言ってみる。その謎めいた響きを、ハルはひそかに気に入っていた。

「―――違う、あんただ。あんたのほうが先に近づいてきたんだ……確か」

 声色が変わったのに振り返ると、浄火の照り返しで半身だけ照らしだされたシャロンが心ここにあらずで佇んでいた。

 異変を察し、ハルは体ごと向き直る。

「その顔つき、さては叔父貴さんにバレたんですか。ま、そうでしょうねえ。いくら貴方が完璧だったとしても。用心のための魔香が役に立って……」

「効かなかった」

「効かなかったぁ?!」

 魔香が効かないなど、ありえない。相手が宮廷に召し上げられるような高位の魔術師、または伝説の中に棲まう魔人や仙人、西方風に言えば聖人でもない限り。

 確かにフレイアス卿は風貌も気質も傑出した男ではあろうが、あくまで常人の範疇に於いて、だ。

 ハルの思念に冷ややかなものが流れ始める。もしやシャロンは、魔香を使ったと嘘をついているのでは。

 だとしたらそれは何を意味する?

「まさか、そんな。叔父貴さんは魔術師か何かですかい」

「魔術はやってないと思う……さすがに。けど悪魔からだって証文を巻き上げるような奴って意味じゃ人間じゃない。初めて第五王子の件をつっこまれたぞ。おかげでこっちはてんやわんやだった。どうなってる?」

 じっとハルはシャロンの、かき乱された感情をくゆらせる瞳を見つめた。身内とのごたごたに疲れ切った相応の若者の表情にも見えた。

 この若者はそんな下手な嘘をつく人材ではない。そう思い直す。

 フレイアス卿について謎は大いに残るが。

「……良いんでございますよ、それぐらいの方が。真実なんてどうせここらの誰にもわかりっこありませんしガチガチに固めると折れやすくなりますから、何事も……人間も」


 奇跡のように蒼い瞳をした、どこの誰でもなく、また彼自身でもない数奇な若者。

 語学力も高く、シャロン自身はいまだに駆け出しの気分のようだが他の熟練した詐欺師であってもこれほどこの役柄になり切れるとは限らない。

 何よりハルがやっとのことで見出したシャロンの「シャオ」には”真情”があった。人々は際立った美貌に眼が眩んだあとは、彼の心根の優しさを感じ、どんな要求にも応えずにはいられなくなるのだ。だからシャロンが時々、彼自身をひどく見下していることがハルには解せない。

 たとえ貴方がフレイアス卿の甥ではなかったとしても、あっしとしては貴方だからこそ選んだつもりですけどね?

 はらわたを裂かれても白状はしないけれども。


 何はともあれ、詐欺師はどんなに負けがこんできても捨て札を切り札にだって見せかけるものである。

 フレイアス卿がセイミ・シャオを田舎からきた物乞いとしか見なさなかったとしても、この西の果ての港で聖なる囚人号は焼け、シャオと従者は行方知れずとなる……実際には陸路経由でとんずらだ。すべての非難はグレンにかかる。彼が王子に敵対的だったことは皆が見ていたし、総督は昼間のうちに掌握済み。二人は直ちに計画を立て直した。

 タバック船長ら、乗組員たちにはメディーナ地区の上宿を宛てがっている。彼らには船と王子を失った悲しみと怒りを吹聴してもらわねばならないからだ。

「結局マーカリアの闇宰相からは一滴も搾り取れませんでしたねえ。それじゃいよいよ本命、お土産をもらいにいきましょうか。御命令通りさっきフレイアス邸を偵察して参りやしたが、見張りを排除するのにちと手こずりまして。結局大立ち回りを演じる羽目に」

 ハルの言葉に、若者はちょうど目の前をあてどなく漂ってきた証券の燃えかすを優美な指先に乗せ、手中に迷い込んだ蝶のように弄びながら薄笑いを返した。

「この平和ボケした港町にシノメのあんたが手を焼くような者がいたのか?」

「者っていうよりは野獣に近かったかと。久しぶりに息切れしやした。せっかく引退まで生き延びた身で今から肉塊にされるのだけは御免でさぁ。いまは無害な使用人たちしかおりません。さて、急いで参りましょ……」

「なら……おれ一人で行く」

 不意に燃えかすを握りつぶしたのち、指なしの黒い手袋を外して呆気に取られたハルに放ってくる。

「奪ったらおれはそのまま、街を出る。この方面はあんたより向いてる。姿見を見るまでもなく、自明だろう?」

 ハルはいささかむっとしながらも、

「まだ十三かそこらの小娘さんのはずですよ?」

「行列の時見ただろう、ウィンドルンの小娘たちのませっぷりを」

「そりゃまあそうですけど。命取りの好奇心が疼くんでお聞きしますけれど、まさか叔父さん憎しなあまりヘンなことをお考えじゃあないでしょうね? でないと―――“雇い主”が怒りますよ?」

「おれに“雇い主”の正体も、真の狙いも教える気もないくせに」

「そりゃあ商売上の取り決めってやつでございまして、あっしの一存ではどうにも……」

「おれの家だ……いや、元、自分の家だ。”シャオ“はまだおれと共にいる。みくびるなよ」

 それから、と、彼はハルの目を射るように見下ろした。

「おれはグレン・フレイアスを憎んでなんかいない。あんな男を憎むなんてこの世で一番無益なことだ。ただ一泡噴かせて、自分の思い通りにならないこともあるんだってことを思い知り、絶望を味わって欲しい」

「……へえ」

「早く油の用意にかかれ。それから……万が一、おれに何かあっても、あんたはどうにかして生き延びたほうがいい」

 一方的に言い残し、気高くも憂いを帯びた王子の顔つきに戻ったシャロンは舷梯をするする降りていった。


「……貴方こそ、お気をつけてくださいまし」

 どうか、ここまで来て道を外れ、あっしに始末(ころ)されたりしませんように。

 ハルのひそかな祈りは夜風に吹かれ、ただ昏いまなざしのみが残った。

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