1-9. 正体
総督から聞き出した秘密会談の場……談話室に乗り込んだグレンは部屋の暗さをまず訝った。
大きな窓から、僅かに青白い月明かりが差し込んでいるだけだ。そして。
影姿でさえも優美な一人の青年が戸棚に並べられた船の模型を手に、待っていた。
「――マーカリア船。世界で最も性能のいい船。西南陸塊(タルタデス)なんかに、一体何をしに行かれたのです?」
「偵察するなら、最後まで流儀を通したらどうなのだ」
青年は軽やかな笑い声をあげて、そっと船を置いた。
「私はただ貴方と理解を深めたい……必死になることは、見苦しいですか?」
「こちらは理解を要する必要性など何もない」
「貴方は、ご自身やタルタデスの話になると話を逸らそうとなさる。まるであの蛮地に何か意味があると表明しているようなものです。あんな所に何があるというのです?」
「金は要らぬと言ってのけたのも、王侯や富豪連中というのは振り落とせば落とすほど群がって追ってくることを知っているからだろう。後で“個人的な支援金”を差し出されても拒む必要はない、かえって失礼だからな。一万グルーベくらいはこれまでの旅の間に簡単に貯めこんでいよう、それで真実味という名の秘宝をマーカリアの手堅い金庫に預ければそれだけでさらに皆が“個人的に”お近づきになろうとするわけだ」
「世界中が皆、貴方のような方ばかりであれば私は今頃港の乞食でしたでしょうね」
「……一つだけ誉めてやれることもある。お前には本物の度胸があるようだ。命取りにもなる、世界を相手にする時には絶対的に必要な蛮勇、が」
凍てつく会話の応酬ののち、窓辺を離れた王子が机の向こう側で向き直る。
「お褒めに預かり光栄に存じます……一つだけでも。貴方だって大したものではありませんか。例えばマンドラ島の王族から巨額の財宝を譲り受け、時がくればそれを投下しようとしているとか……噂は幾らでも。隠遁生活を装っていようとも貴方の周りから世界の有力者が去ることはない。貴方こそが彼らにしかるべき地位を優遇してやっているからです。大切なのは貴方がこの国の陰の支配者である、といまだに暗黙に了解されているという事実……」
「だからはるばる強請りに来たというわけか、この私を?」
「とんでもない! 貴方が囲っている、大切な庭の中を見せてもらいたいだけです」
「……何だと?」
おもむろに手を頭の後ろに回し、仮面の留め紐を解いた王子は真っ直ぐにグレンを見つめ、掌に載せた仮面を何事か操作した。
組み細工のようにたちまち形が変わった……香炉の形に。その香炉の穴の中から、甘ったるい中に、何か目の前が眩むような昂ぶりを感じさせる芳香が立ち昇り始める。
魔香だ、と直感した。
マンドラ島を始めとする、大南海の島々に残る神秘。各種の配合によって人知を超えた効果を発揮するが、ほんの一つまみでも王侯貴族や大金持ちにしか手を出せないほど高価なこともあり、幸か不幸か市場流通することはまずない。
そんなものを所持し、使ってみせるとはやはりこの王子は本物なのか。
ほとんど虹色に霞みだす視界の向こうから冷然たる王子の声が聞こえてくる。
「貴方は高名な造園家でもあるでしょう、素晴らしい庭だと聞いています、誰もみたことがない花、まだ蕾の、咲き始めてもいない秘密の花を……隠していると」
遠のきそうになる意識の中、露わになった相手の貌を見やった瞬間、己が目を疑う。
鼻腔の奥に、甘ったるい匂いをも打ち消す雨の匂いの記憶がよみがえる。
続いて、強烈な既視感。
最後の日……大雨の夜。屈辱と寒さ、泥水にまみれていた若者。
思い出す。彼を物乞いを追い払うかのように扱ったことを。
髪を闇色に染め、化粧をし、夢幻に誘う魔性の如き目をしている東方人の容貌が、五年前に若くして死んだはずの甥のものと重なっていく。
姉の輝く美貌、そして“あの男”の精悍さの片鱗をも間違いなく受け継いでいた貌と。
「……シャロン?!」
「……へえ、覚えていたとはな」
不遜な態度とは裏腹に、“シャオ”の言葉尻も負けず劣らず震えていた。グレンがいまだ意識を保ち、会話が途切れないことが予想外であるらしい。
なおも信じがたく、グレンは頭を軽く振った。幻覚ではないというのか。
「誰の差し金だ。お前はいったい、そんな恰好で、何をやっている」
どうにか意識を安定させ、扉を窺う。いつの間にか錠前が取っ手に渡してある。
一方、魔香が効かない相手に対する“シャオ”の頬には殺気にも似た血の気がのぼり始めている。
「あんたはそうやっていつもおれを無能扱いする!」
「呆れているだけだ……生きていたのか」
「悪かったな。どうだ、腹が立つだろ? おれみたいな過去の汚点が現れて」
「言うことを聞かぬからだ。お前はいつも私に背き、挙句勝手に落ちぶれ――」
「うるさい……!」
自棄に陥った青年が香炉細工を投げつけた。避けようとして、不自由な左足をテーブルの脚に取られて転倒した。脱げた帽子を掠めた細工が壁に当たって重い音を立てる。
恐怖に近い表情を浮かべ、若者は拳を振り上げたものの、ためらっている。
「それがお前の望みならばいくらでも殴るがいい……シャロン・ナルディアス!」
「……っ!」
本名を呼ばれ、相手が怯んだ瞬間、ローブの裾をひるがえす。壁際の小さな突起に飛びつく。がむしゃらに拳を突起に叩きつけた。
夜の海運会館じゅうにけたたましい鐘の音が響き始める。廊下で待機していた総督の半狂乱気味な声がする。
さっさと蹴破れ、と怒鳴りかけてグレンは口を噤み、青年の目を振り仰いだ。
鳴りやまない警報の中、救援を呼ぼうとはしないグレンを激しく見つめたまま、王子が後退さり始めた。
窓枠を押し上げると、隙間から黒猫のように外へと身を躍らせる。
よろめきながら立ち上がり、グレンも窓辺にもたれかかった。
港へと続く夜の路面が月明かりを浴びて銀砂をまぶしたように光輝いている。轍の跡があるのはここを、かつてこの国が貧しかった時代から岩塩を積んだ馬車が地道に行き交い続けていた痕跡だ。
“シャオ王子”が居たことを示す痕跡は、影も形もなかった。
落ちていた香炉細工を拾いローブの懐に仕舞い込んだ瞬間、ドアが突き破られた。
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