1-6. 赤玉哀歌
血と死者の山の上に築き上げた黄金の玉座、千年の長きに渡り広大無辺の大地と大海原を支配する東玻(トウハ)帝国を統べるもの……その名は、東方大王(オリエンタ)。
当代のオリエンタ、スヴァル・ワン=ハン十八世は齢すでに二百歳を越え、粗暴さを売りとする先祖伝来の悪相に短躯、ありあまる巨万の富と世界の半分を手中としながらも常に充足感に飢えていた。
一方、大帝国の北西の海に浮かぶサンガラ王国は三島から成る海洋王国、英明な君主の治世と交易によって豊かさを謳歌していた。この風光明媚な王国に魅せられて永住してしまう船乗りも多かった。古来、民族の交差点であったためかサンガラ人は美男美女揃いとも言われ、王族たちの美貌はつとに有名である。緯度がやや高く、南北に緩やかに伸びている島の配置のために南国から北国までの自然に恵まれ、産物も非常に豊かであった。
この列島の一つで採れる果物の中に、林檎があった。原産地は西方大陸で、古くから東西交易の要として発展してきたサンガラにもたらされ根付いたものの一つであった。
ところがオリエンタは林檎の味を、いや、存在そのものを知らなかった。大王に供されるのためのそれぞれの果樹園がそれぞれに一つの郡を形成していたほどなのに、林檎の木はまだ一本たりともなかったのである。
ここに当代一の陶工として名高い一人のサンガラ人、ヘイセ・スウが登場する。
優れた腕前を買われ皇帝が使う磁器のみを焼くよう東玻帝国の帝都アブラクサにある皇帝の御座所、華竜宮の中で軟禁生活を送る、いかにもサンガラ風の美男であった。
ある時、スウは白磁に絵付けを施していた。実はサンガラでは広く行われている技法であったが、東玻の皇帝には純白の食器、との規定があった。
それならせめて食器以外のもので色をお楽しみ頂ければ。
試しにスウは藍色で、皇帝の守護獣である海龍を描いた筆箱を献上した。オリエンタはこの工夫をことの他、喜んだ。スウはもっと色を増やすようにとの仰せに承知いたしました、と頭を下げた。
そして、次につけたのが朱色。彼が故郷を思って描いた林檎の絵であった。
正しく東玻風の白磁の香炉に、どこか西方風の佇まいを見せる紅の果実。
オリエンタはこれは何ぞ? と色めき立った。
御前に呼ばれたヘイセ・スウは側近を介して答える、林檎でございます陛下。遠い昔、西方大陸商人の難破船がサンガラにもたらした万病に効く甘き果実でございます。ご存知だとばかり……
側近が、そっくり陶工の言葉を復唱する。見ておる、とオリエンタは答えた。
今、やがては世界をあまねく統べるべく生まれた朕の眼が、生まれて初めて、林檎とやらを。何故西方人はサンガラにのみその林檎とやらをもたらし、朕には隠しておったのだろう?
なぜそなた以外、朕の臣下の誰もそれを教えてすらくれなんだ?
僅かに身を乗り出したオリエンタの絹の裾がめくれ、ひた隠しにしているはずの鱗に覆われた膝が露わになる。
たまに、竜肉を食らっていたご先祖の気質が現れる御方がいらっしゃるとは聞いていたが……そう言えば、オリエンタの目はどこか蛇のそれにも見えなかったか。
恐怖が陶工の全身の血管へと神経毒のように行き渡る。
声の震えを必死で堪えて答えた。
それは陛下、東玻は世界の半分を占め、ここ帝都アブラクサはその内陸の大輪の華でございますれば西方人の軟弱な足ではたどり着くことさえあたわず、サンガラの海岸に流れつくのがやっと、だったに違いありませぬ。
そうやもしれぬ。
だが、朕は林檎とやらを食べたいのだ、いますぐに、と強張った声でオリエンタ。
善良なるスウは一時の恐怖心をすでに克服し、皇帝に同情を覚えていた。
世界の半分を統べるお方の、なんというささやかな願いだろう! 必ずや叶えて差し上げなければ。
わたくしが陛下にお仕えしてちょうど七年、もしも一時の里帰りをお許し頂ければ必ず実と苗木を持ち帰ります!
そうか、とオリエンタ。
側近はこれを是、とさらに短く翻訳してスウに伝えた。スウは篤く礼を言い、折り目正しくも意気揚々と御座所を辞した。
――――短い間とはいえ、帰れる……あの美しい我が故郷へ!
翌日、外港行きの川船の艀に、想像することも厭わしいほどの暴力により無残に四肢をもがれた真っ赤な死体が浮かんでいた。
顔も判別出来ない中、背中に華竜宮に住まう僕の印の刺青を見出し、それで“これ”がかの有名なサンガラ人の陶工であろうと推察された。だが誰も、人格者かつ有能、皇帝の寵愛も目出たかったスウがこのような最期を迎える理由など思いつけはしなかった。
サンガラ王国への一方的な宣戦布告が行われたのはちょうど陶工の死から五十日後であった。
サンガラ王国一ノ島にある王都ナガルは、東玻軍の奇襲を受け瞬く間に蹂躙された。湖の中の島に築かれた壮麗なる都の混乱に乗じ、海岸からも艦隊が押し寄せた。
開戦から一週間後。予想以上に激しいサンガラ人の抗戦ぶりに、東玻帝国軍を率いる大将軍は一時的に退却を余儀なくされた。束の間の休戦を得たサンガラ王はそれまで防備など必要ともしていなかった都の周りに日に夜を継いでの大工事を施し、市民総出で防壁を築き上げた。そして各州軍に向けて救援の使者を走らせる。
だが瀕死の状態で戻ってきた使者の言葉は絶望的であった。すでに二ノ島、三ノ島は一夜で焼け野原と化し、それぞれ太守を務めていた第三王子と第四王子が討ち死にしたと。東玻帝国の恐るべき火炎兵器、”竜の息“が使われたとの報告もあった。
それまでサンガラ王国への大儀なき侵略に抗議の声を上げていた東南諸島(ムーラシア)の国々もこれを聞いて沈黙した。東南諸島は東玻帝国の貢納国として自治を辛うじて許されていた。
それを失うことは自国を第二のサンガラ王国にするも同然――――
ただ一国、憚ることなく抗戦を宣言した国があった。“まつろわぬ国”ミアンゴである。サンガラと同じく島国であるミアンゴを統べる天司宮(てんのつかさのみや)は自国の武将たちに号令し、軍団と“シノメ”たちを直ちにサンガラへ派遣すると表明した。シノメとは天宮の住まいを守護している超人的な戦闘集団のことだ。
だがミアンゴ国は、広大極まりない東方大陸の東海岸のはるか沖合いにあり、サンガラへは大きく東南諸島を回りこみ、長大なる海岸線を北上しなければならない。ミアンゴ船団が急ぎに急いだところで三週間はかかる距離であった。
半月後、体勢を整えなおした東玻帝国軍は新造した三十三隻の戦艦で篭城を続ける湖上の王都を包囲させ、湖岸からのびる堤道を占拠した。補給路を絶たれたナガル市民と彼らを鼓舞する軍人たち、そして皇太子以下、残された七人の王子たちは常に戦闘の先陣を切って果敢に戦ったが、次第に追い詰められていった。長く壮絶な市街戦が繰り広げられた。この時、第二王子と、彼を守らんとした近衛長官が死んだ。
死者の数が次第に生者を圧し、絶望と疫病の影が都に蔓延していった。
八月中旬、“竜の息”がナガルの防壁を嘗め尽くすや、東方一の弓の名手たちが固めていた防衛線の一角が崩れた。炎はサンガラ戦士たちの血を吸い太陽のように全てを圧倒した。
東玻帝国軍が優勢を取り戻した戦場には本来ならば夏場には有難い恵みの雨が降り注いだ。が、“竜の息”は止むことなく、ナガルの都の生きとし生ける者すべて、家々や石畳、壮麗な神殿、王宮の全てを食らいつくし、轟音と共に巨大な火球を連続して爆発させた。この時王宮で指示を飛ばしていた王が崩れてきた屋根の下敷きになり、崩御した。王を助け出そうとした王妃も犠牲になった。
明け方、対岸の兵舎代わりの民家の屋根に姿を現した東玻将軍はようやく“竜の息”を下げさせた。だが、もはやナガルを覆っているのは平穏ではなく、死の沈黙であった。
屋根の崩れた神殿の中で、生存者たちは同胞の死と残骸が焦げた大気と汚濁にまみれて浮かぶ腐敗した湖面に目を彷徨わせた。
血の花が咲き乱れる水面。ここは本当に、あの美しかった水の都なのか?
サンガラを率いるべき王族はもはや皇太子とシャオ王子、それに齢まだ五つに過ぎない第九王子を残すのみ。皇太子は降伏し、東玻将軍は属領としてのサンガラの存続を約束した。が……
オリエンタへの手土産の量に不安を覚えた大将軍は、憔悴しきってもなお美しく水際だった、当時十五歳の若いシャオ王子に目を留めた。美姫ではなく美貌の王子が選ばれたのは母后に殺されかけたことのあるオリエンタが極度の女嫌いであったことによる。
シャオ王子は激しく反発する兄王子を涙ながらに諌め、軍の即時撤去要求と引き換えに背中に東玻帝国の“奴隷”の焼印を受けるという屈辱にも耐えそのまま囚人船に乗せられた。
直後、大将軍はオリエンタの“充足感”により完璧を期すためにこう号令した。湖を埋め立て、塩を撒け、と。
シャオ王子は、裏切られたのだ。
瓦礫と化した神殿の礎の陰、寸断された水路、湖の底が一つの取りこぼしもないようにさらわれた。大将軍は第九王子をいたぶりながら皇太子を尋問し、“王国の秘められた宝”の在り処を問いただした。そんなものはないと皇太子は末弟の助命を請うた。ところがその直後、早まった第九王子は大将軍の手に激しく噛み付いた。激昂した大将軍の剣が深々と幼子に突きたてられるのに皇太子も正気を失って飛び出し、東玻の騎士たちにめった切りにされて息絶えた。
シャオ王子が二人の非業の死を船上で聞かされた頃、南の水平線上にようやく真紅の帆を掲げたミアンゴ船隊が姿を現した。
だが。上陸したミアンゴの武将たちがナガルであったはずの場所で目にしたものは、汚水の中から突き出た無数の瓦礫、そして命を根こそぎ奪われた領民たちの亡骸の山。
彼らが出来たことは亡骸に群がる鴉どもを邪険に追い払うことと、そして、連れ去られた第五王子の船をシノメの頭領に追跡させることのみ――――だった。
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