1-5.世界の影

 マーカリア共和国における"宮殿"……古式ゆかしく壮麗な海運会館の中央大広間には巨大な“魔海帯域(エンカンダロス)の輪”で囲まれた《上半球図》がかけられている。


 中央にあるのは北極穴、つまり世界の天頂だ。その周囲を五つの大地……マーカリア共和国のある西方大陸(エルドリアス)、その南方で未開の大地が広がる西南陸塊(タルタデス)、大砂漠と急峻な山脈を頂く中央大陸(ヴァラリアス)、そして東方大陸(オリエンタルス)に東南諸島(ムーラシア)の五大地域が取り巻いている。

 中でも東方大陸は世界の陸地の実に半分を占めると見られており、西方人にとっては地の果て同然で他の地域に比べると地図の精度も見劣りした。

 今から五千年前、世界は《大終焉》と呼ばれる大天変地異に見舞われた。五千年前という数字は世界暦制定の根拠にもなっているが、単に“大昔”、というほどの意味に近い。  

 各地の伝承に曰く、“北が南になり、昼と夜が絶えず入れ替わった。太陽はいよいよ翳りを増し、やがて鳥は天から落ち、獣は海に身を投げ、海は逆巻き、大地は氷に覆われ……そして、炎と裂けて沈んでいった。”……

 叡智の守護者たる竜と共存し、高度な文明を誇っていた巨大な古代大陸も神秘の島と称されるマンドラ島や小さな島々のみを残して海中に没したという。

 人間が立ち入るべきではない赤道よりも下の世界……すなわち《下半球》は、古代大陸を滅ぼした悪しき力によって永遠に毒され、海竜のうごめく魔海と化した。もはや魔海帯域(エンカンダロス)より先は人が行くことはおろか、生きることすら許されない。

 だがマーカリアの、いや、常に新しい海図を手に航海に乗り出しつつある者たちは世界がその先まで続いていることを身をもって知っていた。

 西南陸塊の陸地は明らかに赤道を越えて広がり、水平線はいつまでも弧を描いているのだから……


 黒いビロードのローブに揃いのゆったりとした帽子を重々しくまとい、終身参事会員の身分で現れたグレンは巨大な《上半球図》前に円陣を描くように集結した参事会員や海運省の軍人たちの側を、まさしく魔海帯域を掠める影のようにひっそりと横切った。

 派手に着飾った要人たちは、ぎこちなく足を引きずるその気配に気づくと昔の癖を思い出したかのように口を閉じた。

 いまや、恐れられる地位にはないグレンは苦笑する気にもならない。

 一人だけ、無頓着とでも言えそうな笑みを浮かべて人波をかき分け接近してくる男がいた。褐色の髪に明るい灰色の眼、群青のベルベット服に総督位を示す金色の腕章をつけている。

「おお、私は今、奇跡を見ているのか? 怯える我が秘書を宥めすかして派遣した甲斐があった! タルタデス氏はどうした? こんな所にまでは連れてはこんか」

 現ウィンドルン総督であると同時にマーカリア航海学校の理事もやっているウィレム・スタイフェルである。

 生粋のマーカリア人で、船大工の息子から大商人へ、そして総督へと上り詰めた人望厚い男……

 そしてグレンにとっては今も昔も、ただ一人、商談抜きに付き合いが続いている男……他に適切な言い方が、思いつかない。

「港での出迎えから市民を呼び込んでの大行列、御昼食にこの式典。この段取りの良さ……一体、何日前から来航情報を抱え込んでほくそ笑んでいた」

「さすがは我が友、全く褒められている気がしないよ!」

 何故か嬉しそうに笑い声を上げる呑気な総督と、表舞台から身を引いた黒衣の男の図を、現役の参事会員たちが談笑の合間にもしっかりと目に入れている。

 レグロナ貴族の末裔であるグレンも幾度か総督選挙に借り出されたものだが、資金力だけでは埋められない人望の面でいつもスタイフェル陣営に破れていた。だが世間の捻くれた期待とは裏腹に、総督とは対立するどころか“気心の知れた関係”を見せつけてはばからない。

 理由は単純だ。今更、誰にどう思われようが屁でもない。そしてスタイフェルもまた軟派な態度とは裏腹に、グレンにとってさえ油断のならない強か者なのである。

「とんだ茶番だ。とうに滅びた国の王子に毛嫌いされたところで我が国になんの損があるというのだ。ただでさえ四方八方を野蛮な君主どもに固められているというのに」

「まあまあ、王子は聖なる囚人号でしか寝泊りしないというので、経費は思ったほどかかってはいないのだよ。一応サンガラに行ったことのある交易商人を呼びつけてはみたが通訳不要とのことだった。なにせ王子はサンガラ語は元より東方語にヴァルダリ語、西方共通語にマーカリア語、なんでもござれだ。しかしレグロナの岸を早々に発ってマーカリアにまで足を伸ばしたのは何故かとは思う所だね。そう、王族といえばアリィちゃんもそろそろ……ではなかったかな? ……まさか、まだ言っていないのか!」

「……まだ幼い。今日もシャオ王子がどうのこうのと、跳ね回っていた」

 言い訳に終始するグレンの肩に、スタイフェルがぽんと手を置いた。

「まったく、世界中の強欲王や悪徳太守を口先だけで捻り倒してきたくせに君は身内にはからきしだな。妙に安心するよ、うん。しかし偏西風はせいぜいあと半月だぞ? 今年は見送って、来年、か……?」

 気が進まない様子でスタイフェルが苦言した直後、式典の主賓の到来が告げられた。 

 総督が最前列に進み出た。グレンも杖を置いて起立したが、アルメリカのことを持ちだされて少なからず動揺も感じていた。

 そうだ、来年だ。彼女は……まだ早すぎる。

 いまは、目の前のものに集中すべき時……


 開け放たれた戸の真ん中に現れたすらりとした影。

 だが、中々前に進み出てこない。会衆が不安を感じ始めたその時、その影がようやく歩を進めた。


 グレンが初めて目にするセイミ・シャオは、伝え聞いていた昼間の豪華絢爛な印象とは随分かけ離れていた。

 闇色一色、なんの飾り気もないシュバをまとい、肩から礼装用の長い飾り帯を下げてはいるがそれも黒一色。詰襟の喉元にはいかにも恐ろしげな鉄首輪をはめている……自らが未だ囚人であると訴えかけているようだ。

 白肌が見えるのは先だけ切り落とした手袋から覗く指と顔だけ。その顔とて目元から鼻筋にかけては鯨骨を滑らかに磨き上げた白い仮面で覆い、目の穴の底だけが蒼い星のように輝いている。 

 自らを死者に見立てているのか、人心を奪いすぎる自身の美を遮蔽しているのか。

(あるいは、この場の誰かから、顔を隠しているのか?)

 それでも、確かに恐ろしく美しい。世界を欺くために生まれた魔性かと見紛うほどに。

 畏怖すら感じさせる王子の佇まいにスタイフェルが述べる歓迎の言葉もやや上ずっていた。

 従者も伴わず、たった一人で異国の中心部に乗り込んできた仮面の東方王子はそこでようやく朱唇にあでやかな花にも似た微笑を浮かべ、雅やかな返礼をして皆を安堵させた。上座に着くと向き直り、両方の掌を胸の前に合わせて二度深く頭を下げ、しばしの間声なき祈りを捧げはじめる。

 サンガラ人をじかに見かけるのは初めてだが、ジンハ教徒の作法として申し分はない―――自らも、東方の主宗教であるジンハ教徒であるグレンは目を細めた。

 ジンハ教は中央大陸に多数の信者を抱えるガーラ教などとは違い特定の神との契約や厳格な戒律を課す宗教ではない。またその神々もエルド教の神々のように嫉妬深くもない。ジンハの教えに於いてはすべての祖霊と自然現象が崇め奉るべきもので、さらに奉じる地域ごとに名前や性質まで千差万別に変容する。

 それぞれの思惑をよそに、背筋を正した王子の抜き身の声が広間を震撼させる。 

「西の強国マーカリアの自由なる輩(ともがら)よ、流浪の身でありながらかくも盛大な歓待の栄誉に浴し、卑小なるわが身が返礼に差し出せますのはただ一つの物語……どうかお聞き下さい、ある王国の滅亡の物語を。東玻とサンガラは隣国同士として長きに渡り友好を保ってきたはずでした。滅びの始まりはただ、紅玉色をした果実―――」


 マーカリアでも内陸の冷涼な山岳地帯で産しているその実の名は、林檎、と言った。

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