1-3. セイミ・シャオ

 ウィンドルンの街は大きく二つの地区に分かれる。

 フレイアス邸のある、“風の丘”と呼ばれる一等地を中心にした壮麗なカラ・サヴァス地区と、その下手から海へと広がる、庶民が多く暮らすメディーナ地区だ。

 その二つの地区の中心、青と白の色調で整えられた美しい大広場に面しては西方世界でも最大規模の証券取引場や交易商や政府高官たちが集う壮麗な宮殿造りの海運会館があり、隣接する海神マリアスの神殿の白亜のファザード共々、ひときわ輝いていた。

 ウィンドルンの象徴である“風の塔”から繁華街まで伸びている大通りは噂を聞きつけた市民でお祭り騒ぎになっていた。

 炙り豚の串焼きを売る出店には行列が出来、流しの大道芸に皆が笑いを弾けさせる。

 何故亡国の王子が西の果てマーカリアにまでやって来たのか、知る者も、また知りたがる者も大して居なかった。

 アルメリカにとってもあまりにも遠い国の無関係な出来事だ。

 もうすぐ王子の行列が通るというのに、アルメリカの目の前は群衆でふさがれていた。ただ、海風にあおられるように高まっていく人々の熱気だけが伝わってくる。背伸びをしても、首を伸ばしてみてもまったくダメ。

 こうなれば……仕方がない。

「ヴェガお願い、肩車して!」

 頭からすっぽりと頭巾つきのマントを被ると細身にすら見えるヴェガだが、その群を抜いた雄雄しさは隠しきれるものではない。ヴェガはアルメリカが請うや否やひょいと抱え上げ、左肩に軽々と座らせてくれた。

 こういうことをするには自分がすでに成長しすぎていることは承知しているが、タルタデス人の安定感自体には何の問題も無く、アルメリカは笑みを浮かべた。ヴェガの赤銅色の腕に自分の手をしっかりと絡め、準備万端だ。


 いよいよ、港の方角から楽隊の音楽と、不思議な銅鑼の音がしてきた。野次馬たちがわっと前に寄った。ヴェガの体躯は河の中の大岩のようにびくともしない。

「見えてきたっ、あれだわ!」

 先導しているのは共和国の楽隊たち、煌びやかな羽根帽子とマントで着飾ったウィンドルン市の役人たちの後で、蒼緑地に五つの連合州を表す巻貝を描いたマーカリア共和国旗、それに青地に星をくわえたツバメが縫いこまれた豪奢なサンガラ王国旗がはためく。前身ごろを合わせた東方風の衣装の旗振り役が進み、髭のアガルスタ人船長が満面の笑みで続いたのち、黒と黄金の椅子が水夫四人がかりで運ばれてきた。王子のための椅子のようだが、自ら歩くことをご所望だった様子だ。

 白亜の通りに銅鑼の大音量が金粉を振りまくように弾け跳び、しゃん、しゃんという鈴の弾ける泡玉めいた澄んだ音が、降り積もるように止んだ。

 やがて。

「サンガラ王国が王子、セイミ・シャオ殿下の、おなーりー!」

 市民に国賓の到来を告げるマーカリア伝令官の声。荘厳なる銅鑼のあとに優雅なリズムで響くシンバル。鈴につけられた五色の絹の組み紐がさわさわと揺れる。

 海風が微かに乗せてくる、玄妙でいて甘くかぐわしい芳香は、高貴なる客人の先触れだろうか。

 身分の高さに対して付き人の数は少ないと感じるほどではあった。しかし東方風の淡白な顔をした従者が捧げ持つ金襴の房飾りのついた日よけの傘の下、静かに歩みを進めてくるその人は驚くほど若々しく、一目でわかった――――彼だ、と。


 ついに姿を現した高貴なる来航者の姿に、物見高い市民もどよめきに近い声を発した。

 誰も見たこともないほど華麗な衣装に身を包み、辺りを払うほどに鮮烈に。

 そこに存在しているだけで、彼の周りの全てが背景画に過ぎなくなる。

 歓迎の花びらと紙吹雪が舞う大通りを絹張りの沓(くつ)がそっと踏みつけ、歓呼の声に誘い出されるように傘の下から陽光の下へと彼が歩み出した。

 すらりと伸びた背、均整よく引き締まった痩躯を包む金糸と群青、不思議な文様に彩られた異国の礼衣。真珠と珊瑚石に飾られた風変わりな形の帽子の下、首筋までのびた黒髪が紅の入った前髪と共に揺れている。白面の美女と見紛うほど非の打ち所のない端麗な容貌、それでいて鋭利な頬や口元は引き締まり、名工が全霊をかけて整えたような唇が熱狂する見物人や異国の貴婦人たちを眺めては愛しげに弧を描く。

 長い睫に縁どられた瞳は彼が身に帯びたいずれの宝石よりも燦然と輝き、完璧な形をした瑠璃石(ラズリ)色の瞳の底には星影めいた怜悧さが燃え、視線の端に触れられた沿道の老若男女は心を奪われたように陶然と見送るばかりであった。

「なに、あれ。髭ボーボーどころじゃなかったわ、なんて綺麗な人なの……!」

 ヴェガはうんともすんとも言わない。アルメリカをしっかり抱えつつ、熱心に行列を目で追っている。

 そう、アルメリカはヴェガの手が掴んでくれていなかったら、ふわふわと宙に浮き上がっていったかもしれなかった。

 頭の芯が熱くぼんやりと、覚束ない。自分の手足すらも遠く感じる。身悶えせんばかりに黄色い声を張り上げ続けている乙女たちの中で、ただ茫然と、目の前の光景に魅入ることしか出来ない。

 見目麗しい外国貴族や使節ならウィンドルン市民同様見慣れている。けれども東方の人は初めてであったし、こんなに胸がざわめいたこともなかった。

 あれほど優雅に振舞いながらも、真摯な影を背負う人を見たことも。

 その時。遠ざかっていこうとしていた“彼”が急に振り返り、アルメリカの心臓は文字通り、飛び跳ねた。

 見物客の頭を飛び越え、瞬間、蒼いまなざしが自分だけを見つめた気がして。

「………っ?!」

 背筋を氷水のように落ちていくおののきに、アルメリカはとっさにヴェガ、もう下ろして! というのがやっとだった。ヴェガはすぐに従った。少し怪訝そうだ。

「アルメリカ? 顔、赤い。港のそば、こっそり通るふり……行くか。風、当たりに?」

「ううん……大丈夫、ありがとうヴェガ、そうじゃなの……もう十分よ……」

 ヴェガの神聖な誓いを破らせるわけにはいかない。タルタデス人の肩の上に乗っかって首を伸ばした娘なんてそうはいない。それで王子は一瞬目を留めた……それだけだ。

 夢中だったとはいえなんてはしたないことをしたのだろう。

 王子のあの瞳。あれほど麗しく輝く青がこの世にあっただなんて。瑠璃よりももっと深い……

 でもそれだけではなかった。

 来る日も来る日も、アルメリカの目の前にあるのに決して届かないものと同じだと気がついた。

(海だわ……晴れた日の海の蒼を、結晶にして閉じ込めたみたいだった……ああ、もう終わったことなのに、なんでわたしの心臓ったらこんなに動転しているのかしら)

 その時だった。


「嘘ぉ? 具合が悪くてお帰りになったはずの貴女がまさかこんな所にいらっしゃるなんて意外だわあ、ねえ皆、フレイアス家のアルメリカさんが居るわよ、ここに!」

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