1-2.養父と蛮人

「おじ様!」

 乙女の社交活動から帰宅するなり、アルメリカは自室には寄らず、玄関ホールから急いで続きの大広間を抜け、庭が一望出来る家族のための居間へ向かった。

 そして羽目板張りの壁を背にしたいつもの位置で世界一高価なアルハイル鋼(こう)製の切り鋏の刃先を炙っている男の姿を見つけ出す。

 年中、漆黒の服だけをまとう養父……グレン・フレイアスが、木炭色の髪に白いものが混じり始めた頭を動かした。

 驚くほど深い緑色の瞳はいつも峻厳で、顔立ちはとても端正ながら、青白い強面のせいで冷たい感じが先立つ。養女であるアルメリカにとっても対面するたびに緊張を強いられる顔だが、今は怖気づいている場合ではない。

「すごい船が来ているの、横幅が大きいし、船尾楼が見たこともないほど高くて、真っ黒なのに太陽が当たると金色にきらめいて見えて、船なのにお城みたいなの!」

「早いな」

 帰宅時間のことを言われていることは重々承知だが気付かないふりをする。仮病を使って乙女たちの際限なきおしゃべり会を抜け出してきたことまではばれないはずだ。

「まさか平底船じゃないわよね? 竜骨もない船でデストリウス海峡を通り抜けたっていうのかしら? 波止場にももう見物人が一杯! ただごとじゃないわ、だってマリアス号やウィンディア号がわざわざ曳航しているのよ?」

 答えの代わりにグレンがちら、と壁の巨大な振り子時計を見やった。

 卓上に広げていた革布を園芸道具ごとまるめて仕舞い、午前中用の植物日誌も閉じる。油ランプに硝子の蓋をしながら卓上のベルを鳴らした。

 すぐに執事が盆に茶器セット一式を載せ、手際よく主人の前に並べていく。養父はアルメリカが在宅している時は毎日午前十一時に茶を淹れてくれるのだ。

 アルメリカも少し自分の性急さを反省しつつ真向いのソファにすとんと腰かけた。

 あらかじめよく温められた硝子製のポットに、養父の骨ばった長い指がスプーンで茶葉を入れる。マンドラ島産のイルライ茶で、アルメリカのいるところにまで目の前が晴れわたっていくような清冽な芳香が広がった。

 熱湯の入った別の陶器ポットをやおら掴むと、乱暴なくらい一気にお湯を注ぎ込む。その方がよく“葉が動く”という。蓋をし、明るい琥珀色へと染まりゆく湯を見守る目つきの熱心さに反比例するように冷淡な声が切り出した。

「貴女の推察は、正しい。その通り、わが国最高の船を出帆させたばかりか、市長と総督がじきじきにお出迎えだ。どこの馬の骨だか知れたものではない流れ者を」

「おじ様って、殆どお屋敷から出ないのにどうして何でも知ってるの? 伝書鳩とか机の引き出しの中で飼ってる? それとも屋根裏にいつも間者がぞろぞろ?」

「……朝っぱらから総督府の使いが来た。歓迎の昼食会、それに夜の式典があると」

 突然釣れた獲物に飛びつくように、アルメリカはにじり寄る。グレンが頬を動かした。

「揺らすな」

「実は、そこまではわたしも知っているの」

「ニルナだな……」

「わたしから聞き出しただけ。まさか、どちらも行かないつもりなの?」

「私は忙しい。今夜あたりあれが咲くやもしれない。蕾が……」

「そんなあ。わたしがまだ咲かないようにお願いしておくわ!」

 咲いて欲しがっているほうの男は限度を越えたのか、とうとう固い眉を動かした。

 そう、このいかにも無情そうで、監獄の長官そのものの顔つき(だと世間から揶揄されている)ながら実は植物園園長の養父が無用な会合なんかに出かけるはずがない。

 彼が今一番気にかけているのは数ある中でも最も特別な花だ。世間には実在すら知られていない南海の謎多き希少種である。だから専用の切り鋏の消毒にも余念がない。

「……で、誰が乗って来たって仰いましたっけ?」

「私は馬の骨と称したまで」

 グレンはカップを暖めていた白湯を床に置いた陶器の盥に捨てた。執事が音を立てずに現れて盥を片付ける。ポットを持ち上げ、素早く注ぐと作品を仕上げたようにカップを自分とアルメリカの前に置いた。茶器セットもカップも彼の唯一の友人から貰ったか奪ったかした東方様式の磁器に西方風の文様を染め付けてある高級品で、美しい緑青色の植物模様が深い金色の飲み物によく映えている。

「旧サンガラ王国から来たシャオ王子の東方船だ。ちなみに竜骨はある」

「東方大王(オリエンタ)の囚人船を乗っ取って逃げてきたっていう、あの王子様の船なのね?!」

「貴女こそ、そこらの船乗り以上に東方事情をよくご存知だ」

「“蒼の乙女会”でも話題になっていたわ。もの凄い美男子なんですって。世界中の姫や令嬢から求婚されているとか、嫉妬したレグロナ女王の愛人? ……って何をする人かは知らないけれど、そういう者から命からがら逃げだしたとか。多分、ほとんど嘘だと思うわ。海の男なんて大体が髭ボーボーの暑苦しいおじさんって決まっているのよ……きっと、子供だましの夢物語と同じ」

 言いながら、アルメリカは自分がそんな夢物語や冒険物語にいまだ耽溺していることもグレンはお見通しなのだろうと妙に沈着に考えた。

「今日もとっても美味しいわ。他の人が淹れたお茶とどうしてこんなに違うのかしら?」

 カップに口をつけ味わうグレンは無言のまま、頷きもしなければ否定もしない。

 多分機嫌はそれほど悪くない。アルメリカは一挙に核心に踏み込んだ。

「……そういう訳で、確かめに行っては……だめ? できれば波止場にも行ってみたいの。ヴェガが一緒ならいいでしょ?」

 無表情を微塵も変えないまま、グレンは対角線上に深緑色の視線を振り向けた。

 そう、この部屋には実は第三の人物が文字通り物言わぬ彫像のようにすでに存在し、全てのやりとりをグレンに負けず劣らずの無表情で見守っていた。

 筋骨逞しい、という言葉はこのヴェガの為にあるのではないだろうか。長身のグレンよりもなお長身、暗褐色の肌のタルタデス人だ。逞しいだけではなく、彫りが深く端正な彼はまるで異国の男神か英雄そのもの。ゆったりとした濃紺の長衣をまとい革のベルトに革のサンダルという、簡素だが勇壮な格好をしている。頭の大部分は剃り上げているが、一部のみ髪を伸ばして編みこみ、そこに耳飾りと揃いの金の輪をはめていた。

 精悍で誇り高い強面の中で輝く炎に似た赤い両目、その目じりから首筋、そして上腕部へと施された黒い炎のような刺青は“枯れ野を奔る炎の如く素早い”狩人の証で、タルタデスでは最上級の尊敬を受けるらしい。

 ヴェガはいつだってアルメリカの味方だ。

 白眼がちな彼の目が無言でグレンをうかがう。

 グレンがカップを置いた。

「だめだ。外来船の出迎えなど、ろくでもない連中がたむろしているだけだ」

「わたし、もうすぐ十四よ。どうして外にも自由に出てはいけないの?」

「私がいつ貴女の外出を禁じた? 禁じたのは一人歩きと、それに、港だけのはず」

「いいえ、いつも全体的に、禁じていらっしゃるわ。態度とか雰囲気とかで、今も……」

 言っているうちに、アルメリカは何かが恥ずかしくなって俯いた。

 自分はただ判断に迷うことを大人に押し付けているだけの娘だ。

 すると、グレンがテーブルに手を突きながら席を立ち、ゆっくり歩いてきた。少しひきずった左脚にはめられた金属の歩行器がカチャ、カチャと微かな音を立てる。

「今日、貴女が描いた絵は?」

 素直になったアルメリカは携えてきた画帳を開いて渡す。グレンの沈着な目線が、じっと曲線をなぞるように動く。シラテンシア……グレンがタルタデスから持ち帰った常緑低木の一つ。葉は偶数羽状、鮮烈な黄色い花はそれ自体が花束みたいに愛らしい。

「また、腕を上げたようだ」

「本当っ? 本当はね、わたし、おじ様が見たように野生で咲いているこの子たちに会いにいきたいの。おじ様もそろそろ新しい品種が欲しいでしょう?」

「――アルメリカ、無茶だけはするな。一時間で帰邸するのだ。波止場はだめだ。見るのはせいぜい練り歩く王子様だけ……東方伝来の風俗を見るいい機会にはなろう」

 あまりにあっさりと彼が続けたので、アルメリカは言葉の後半部分を理解するのに少し時間がかかったほどだった。思わず、満面の笑みを浮かべる。

「ありがとう、おじ様!」

 そのまま養父は養女を託す従者に無言で目をやる。タルタデス人は何を語っても大地の唄のように響く厳かな声の、たどたどしいマーカリア語で答えた。

「我、誓う。アルメリカにむちゃさせない」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る