第一章 セイミ・シャオの御来航
1-1.王子と従者
泥水が顔に降りかかったと思った瞬間、叫びをあげて目を覚ました。
「はあ、はあ……!」
激しく打つ心臓の音。寄木で精緻に作られた天井の植物文様を目でなぞっていくうちに、青年は落ち着きを取り戻した。悪夢を遠ざけるはずの麗夜香(ルーヤール)は八弁の花の形をした穴の香炉の中でとうに燃え尽き、蓋の上では白山猫の細工が呑気に寝そべっている。
「……くそっ」
寝台を降り、揺れる床の上を横切り黒塗りの窓の引き戸を開ける。鉄格子から射しこむ陽光が、身に当たってなめらかな筋肉の陰影を露わにした。
眼下では濃い藍色の海上に時折背びれのような白い波が砕け散っては飛沫をあげている。風を一杯に受けた帆の力で突き進んでいる……西へと。
空へ高く突き出した船尾楼のさらに一段上にある貴賓船室の窓には全て鉄格子がはまっている。全てを開け放てば三方に水平線を眺めることも出来るため、居心地は船の中というより空中を飛んでいるに等しい。
この“聖なる囚人(ヴァダーラ)号”は、元々、東玻帝国へ朝貢国から差し出された王族や高僧などの「高貴な人質」を運ぶための牢獄船だ。その一方で華麗な装飾が至る所に施されている船体の絢爛さは格式の高さゆえである。
「王子、シャオ王子? いま起きられましたよね? 入ってよろしゅうございますか」
扉越し、無邪気を装った男の声がして、鋼鉄の一枚扉が押し開かれた。
甲板との行き来は手すりもない狭い船尾上層甲板を渡るしかない。その、強風に揉まれ続ける危険な場所から、黒衣の従者が無風の中にでもいるように飄然と顔を見せた。
黒髪に細い黒目、あまり抑揚のない東方語。肌は海の男とは思えないぐらい生白い。格別端正というわけではないが醜いわけでもなく、特筆すべき特徴がない、というのが特徴だ。元来彫りの浅い東方人は誰しも年齢不詳のように見える。
「おはよう、ハル」
「こんにちは、王子。風の塔が見えたことをお伝えに。少しお寝坊なさいましたね」
「……本当か?」
「出る時はちゃんと帯も締めてくださいよ。それとも、寝なおします?」
「…………」
ハルの言葉を無視して、水瓶のそばに行き、顔を洗う。
蒼に染め抜いた絹糸で織られた上着(シュバ)の袖に腕を通す。王族の証である“海龍紋”が金糸で背に刺繍されている。姿見の前に立つと黒い腰帯を締め、自身を入念に整える。一部を朱色に染めた前髪を顔にかかるぐらいにとかしつけ、まなじりを黒墨で縁どると瞳の青玉色がいっそう際立つ。それに見合う真珠と珊瑚石が散りばめられた金襴の帽子を被り、最後に金糸の縫い取りのある沓(くつ)を履いた。
さっきと同じ表情でうなずいたハルがくるりと前習えをした。彼の方は麻の黒い着物に下穿き、腰帯には黒光りする鞘に入った小刀を差している。
危なげない足取りで上層甲板を渡るシャオも身軽だったが、先導するハルの場合は地に足がついているのだろうかと思うほど滑らかだ。
聖なる囚人号は三本マストの大型帆船である。黒く塗られた船体は華麗な金色(こんじき)の海龍紋は中央海峡を離岸したときに施したもので、王子の御身と船体が航海の運命をともにしているというあかしだ。
巨大な三角帆が風をはらむ楼甲板上に降り立つと、強い海風が策具とマストの間を吹き抜けてきてシャオの首筋ぐらいまでばらばらに伸びた黒髪への愛撫を奪い合うようにして駆け抜けた。
柱と策具で出来た深い森の底からふり仰げば、主檣(メインマスト)の先端に青地に連星をくわえたツバメを銀糸で象るサンガラ王国旗……今はもう存在しない国の旗がはためいている。
テシス内海の穏やかな航海は、昨日デストリウス海峡という難所で知られる場所を抜けた時点で終わりを告げた。目の前には荒々しく冷たげな群青をした大西海、そして左手に、マーカリア共和国の首都ウィンドルンの、白に統一された尖塔群と街並みが金剛石か白硝子の城と見まごうほどに絢爛と輝いている。
船首甲板でハルと共に立ち止まったシャオはカモメが行き交い始める空を見あげた。幾人かの船員が策具を引く手を止めないようにしながらも王子の麗姿に見とれている。
しかし、主従が“より親密な話”をする時に使うサンガラ語の中身を知ればさぞや落胆……いや怒り出し、彼らを直ちに海に放り込んだことだろう。
「……最後も、上手くいくといいんですがねえ」
自分が手繰り寄せているのか、あるいは手繰り寄せられているのか……間近に迫る白亜の都を待ち受けていたシャオは、ハルの言葉に引き戻された。
「何が言いたい」
「いつになく貴方がそわそわしているからですよ。寝不足がひどいんでございますか」
「これまで通り、行動するだけだ。もうすぐあの取り澄まし女を骨抜きにしてやる……知らぬ仲でもないしな。なんなら、お前にこの役を譲ってやろうか?」
蕩けるような笑い声を上げて気高き街の姿をあごでしゃくってみせる。
ハルが撫で肩を竦めた。西方に来るにしたがって彼が唯一習った“しぐさ”である。
「あいにく房中術は専門外でございますし、その美服をあっしが着ても笑われるのがオチです。でも王子は黒がよくお似合いかと……だから敢えて普段はお召しにならない?」
「鋭いな。お前は本当に、鋭い。お前がどう思っているか知らないが“おれとシャオ”はこの旅に命を懸けている。いざとなればシャオとしても死ねる……それぐらいには」
ハルが身を引いて低頭した。“しぐさ”ではなく、本心からの所作だ。
「セイミ・シャオ様~!」
頭にターバンを巻き、髭をたくわえているアガルスタ人のタバック船長が甲板上を急行してきた。
セイミ、というのはサンガラ王国の王族に対する尊称でシャオが名前だ。
「王子様、お目覚めでございましたか、今すぐ椅子をお持ちいたします。おいラシード!」
テシス内海で最も話者が多いヴァルダリ語でまくしたてられた一等航海士のラシードがふてぶてしい顔をむすっとさせた。この男は同性の美貌なんかではなく懐の豊かさに惹かれているクチだ。その後方に居た若者が我先にと飛び出した。白い肌にそばかすを浮かせているせいでひどく童顔に見える西方人、甲板雑役係の少年イアルである。
「おれがっ、おれがお持ちします!」
彼には王子を崇拝するあまり、妄想……いや、簡単にいえば行き過ぎた思慕を抱くまでになっている節があった。長い航海、気晴らしも少ない環境で、目の前に同性とはいえ美々しい姿形をした高貴な青年が居るとなれば無理はないのかもしれない。
少しそそっかしい所のある少年は甲板の継ぎ目につま先をひっかけたかと思うと王子の目の前で盛大にすっころび、王子は少し沓をずらさねばならなかった。
「何をやってるこのマヌケがっ?! 王子様に当たるところだったじゃないか!」
タバックが腰帯に挟んだ煙管パイプで転がったままうめくイアルを打ち据えた。
やめろ、と言いかけるのをシャオは寸でで呑み込んだ。
タバックの折檻が終わったところで、ようやくシャオはドジを踏んで消沈しているイアルの肩に鷹揚なしぐさで手をかける。爪の先まで整った手が触れた箇所をみやり、少年が小さく息を呑む。
「私は大丈夫だよ、イアル……いつも、すまないな」
イアルにだけに分かるよう笑みを投げる。あまり長くやると益々崇拝されてしまうので素早く離れ、今度は甲板上の皆に向きなおる。
「ようやくここまで辿りつきました。どうかこのまま、この西の果ての地で私が成し遂げるべき使命のために祈って下さい、祖国のために燃え尽きることの出来るように」
シャオはまっすぐなまなざしでそう言い放ち、胸の前で手を組み合わせた。そうしながら同じ言葉を今度はマーカリア語でも繰り返す。最果ての東方から来た王子の堪能なマーカリア語の披露に西方出身の船員たちが驚嘆する。
王子は語学力と船、比類なき美貌、そして寄港の度に獲得していく名声とでタバック船長を虜にし、職にあぶれていた船乗りたちを名誉ある海の男と変えてきた。行く先々で一行は王侯並みの歓待を受け、西に進めば進むほど乗組員たちの衣装もきらびやかになっていった……これを良好な関係と言わずして何といおうか。
船首に向けて黒檀に金細工をあしらった椅子が置かれる。シャオは観劇にでも臨むような優雅な所作で腰を下ろした。イアルや船員たちの熱い視線をうなじに感じる。
五十年前、宗派を強要したレグロナ皇帝への反発を機に勃発した独立戦争以来、要塞と一体化したウィンドルン港湾は軍事的な意味では大砲の音をさせてはおらず、寛容と自由の空気を保ち続けている。列強の中でも珍しい共和制をとるマーカリアに、“君主”は居ない。だがまどろんでいるわけでは決して、ない。国の海岸線という海岸線に常に監視を置いており、近海の船の動きを全て把握している。
港の船舶の統制された動きを見ても聖なる囚人号の来航に数日前から備えていたことは間違いなかった。
王子とハル以外、甲板上を忙しく動き回る乗組員たちの上に見張りの声が響く。
「船が来ます。マーカリア交易公社の全装帆船です!」
ようし、帆をたため、減速しろ! とラシードが受けて立つかのように声を響かせた。
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