序章

秘密の庭

【世界全図を眺める時、我々はそれがこの世の真の姿だと信じるべきなのだろうか。未知の海域や陸地に描かれた事物はそのほとんどが天地学者の推測と空想を元に描かれている。庭園造りもまた人の創意による“世界の創造”に等しい。造園家たちはあたかも自らが創造主であるように庭を設計し、植物と庭師たちを配置する】

         

 グレン・フレイアス著 『マーカリア庭園経営論』序文より

                 ※


 純白のカーテンがひかれ、メイドのニルナが窓を開ける音が耳に届いた。

 大きく膨らんだ海風がほんのり南の色をした肌を撫でていく。目覚めたばかりの体の奥がうずきだすような心地に包まれ、アルメリカは、すっかり覚醒した。

「おはようございます」

「おはよう。今日も、とってもいい天気。ますます行く気がなくなるわ……」

「まあアルメリカ様、雨の日のほうが良かったっていうんですか?」

 天蓋付きの寝台の上で、アルメリカは両手を広げてまた沈み込む。ふかふかのシーツに、水平線上に浮かぶ白い雲の中に包まれる自分を想像しながら。

「じゃあニルナ、代わりに行っていいわよ」

「あらいやだ、こんなおばあさんが、“蒼の乙女会”に? なんとも光栄だこと!」

 ニルナは髪に白いものが混じるような歳だけれどもきちんと身なりを整えていて、背筋もぴんと伸びた老婦人である。当主グレン・フレイアスの“若者嫌い”のせいで、屋敷の使用人は年寄りばかりだ。

 広大な敷地には植物がこんもり育ち放題ということもあり、近所の子供からはお化け屋敷などと呼ばれていたりする。

 アルメリカの記憶の始まりから、グレンはエルド教教会付属修道院育ちの自分の元へ毎月のように会いに来てくれる“不思議なおじ様”だった。

 院長先生によれば養子を探している慎重なお金持ちは別に珍しくはないと言う。多忙な方らしく、訪問が出来ない月には修道院宛ての荷物がどっさり届き、その晩の食卓は決まって賑やかになった。おかげで他の孤児たちにやっかまれることもなかった。

 五年前……八歳の時にとうとうこの邸宅に正式に引き取られることになった。これで謎めいたおじ様のそばに居てあげられる、おじ様のことを分かってあげられる、そう喜んだし、ここでの生活の快適さはまるでどこかの国の王宮にでも来たかのようだった。

 けれども、来たばかりの頃には少しばかり怖い出来事に遭ったこともある。

 グレンが同居していた最愛の姉……彼が庭好きになったのも彼女の影響だという……が二十年ほど前に亡くなってからずっと放置されていた邸宅の外れを探検した時、奥まった階段下の物入れから木製の立派な木馬を見つけたのだ。マーカリアの子供用木馬は竜と魚体を合わせたような海獣(ケトス)の形をしている。よく使われたことを示す磨耗の痕に、誰かがナイフで削ってせっせと所有権を主張したらしい銘まであった。

 こびりついた厚い埃を指で擦ると、かろうじて“シャロ……”と読めた。

『ねえ、シャロなんとかって、誰か、知ってる?』

 当時の家政婦にそう尋ねてみた。彼女は、それは多分昔の坊ちゃまの……と言いかけて、幽霊か死神でも見かけたみたいにさっと青ざめ持ち場に戻っていった。アルメリカが振り向くと背後に養父が、塔の見張り、否……見張りの塔みたいに立っていた。

 翌日その家政婦は身内に不幸があったとかで、急な暇を告げて去っていった。アルメリカが見つけた木馬も捨てられ、階段の下の納屋も封鎖された。

 得体の知れないやましさを感じ、それきり“昔の坊ちゃま”詮索は止めてしまった。きっと昔、あの木馬から落ちて死んだフレイアス家の可哀想な子がいたとか、そんな所だろう。

 人には、触れて欲しくない過去というものがあるのだとアルメリカは理解した。

 着替えを済ませ、髪型を整えてもらう。リボン飾りのついた白いブラウスにふわりとした群青色の長スカート、そして青天(アズライト)色のフェルト帽子、そこに、ニルナが編みこんだ黒檀色の髪が押し込まれ、白いヴェールで慎ましく首筋を覆う。

 マーカリアの富裕層の少女が身にまとう典型的な服装に身を包んだ自分が、ほとんど歪みのない高価な姿見鏡の中で気のりしない顔をしている。くっきりした目鼻立ちに金色がかった茶色の瞳、黒い髪は多国籍入り乱れるウィンドルンの街ではそれほど奇異というわけでもないし、目の色が琥珀という不思議な石にそっくりだと気づいてからは気に入ってさえいられた。

“あの子、獣の眼みたい”……そう乙女会で噂されているのを聞いてしまうまでは。

「あんな会合に毎週行くより海洋研究会にでも紛れ込みたいのに。それか、植物園管理組合のお手伝い……ほとんど草むしりってことだけど。そのほうが楽しいわ」

「そんなもの、大人になればいくらでもいけますよ」

「そんなもの、オジサンの趣味ですよっていつもは言うのに……」

「わたしが何年お嬢様のお世話をさせて頂いているとお思いです? もうお嬢様が、少しばかり変わっているからってお好きな事を諦められるとは思えませんもの。それに今日閉じこもっていらっしゃるのはもったいのうございますよ? 港にとっても珍しい船が来るって噂で、朝市がもう大騒ぎだったんですから」

「国一番の港で、珍しい船を見かけない日のほうが珍しいと思うのだけれど」

「今度の珍しさは一味違いますよ。その証拠に朝早くからご主人様の元に総督から使いが……あっ、まあまあ、そんなに走って!」

 ニルナの呆れ混じりの笑い声を振り切って、中庭へと飛び出した。仕事にやってきた庭師たちが驚きながらも挨拶を返してくれる。

 緩い坂道を駆け上り、息を弾ませながら蔓を思い思いに伸ばした樹木のアーチをくぐり、艶やかな赤い花が咲き乱れる垣根を抜け、青々とした人造の芝の丘につくと少し息を整えた。ここの高台に登れば青天色と緑青色の潮目の見える海までもが一望出来る。

 夏の大祭の余韻にまだひたっているような、輝けるウィンドルン港に目を細める。

 大要塞と港の間の大波止場に、白い渡り鳥の群れのように行き交う帆船たち。


 その中にアルメリカは、生まれて初めて目にするものが近づきつつあるのを見て、胸の底から歓声を上げた。



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