第6話 渡されたのは雇用契約書


「そのおじいちゃんはご飯だけあげていたらしいけど、三毛猫この子は幸せだったと思うよ。殴られたり蹴られたりしただと、こうやって安心した顔しないもん。あと強運! 事故って死にそうになっていたら見ず知らずのお姉さんが助けてくれるなんて超ラッキー!」

「……羽賀先生は、この子をおじいさんの元に返すほうがいいって思いますか?」


 え? と羽賀は首を傾げる。


「なんで? おじいちゃん、所有権放棄したんなら東堂くんの子じゃん。気にせず飼っちゃいなよってこと」

「えっ、飼う?」

「うん。東堂くんが飼っちゃえばいいじゃん」

「いや、飼うって三毛猫ちゃんを育てるってことですよね?」

「うん。生まれた時からご飯くれるおじいちゃんがいて、途中からは助けてくれたお姉さんと一緒の方が幸せじゃない? どうせなら死ぬまで幸せで過ごしてもらいたいじゃん」


 ぽかん、と薫は口を開ける。羽賀特有の話の流れに乗っていけないでいると清水が長息した。


するにしては強引すぎですよ!」

「え、そうかなぁ。いい感じに持っていけたと思うんだけど」


 ふるふると清水が首を振る。


「えー、じゃあ、単刀直入に聞こうか。ねえ、東堂さん、就活決まった?」

「いえ、まだ」


 というよりも今は就活よりも短期バイトでお金を稼ぐ方を優先している。それは前もって伝えておいたはずだが、どういう意味で聞いてきたのか分からず、薫が不思議そうに目を丸くさせると羽賀はいつものようにへらりと軽薄に見える笑みを浮かべながら右手を掲げた。急に見せられた手のひらに、薫が戸惑っていると「五万」と羽賀は言った。

 何が五万なのか分からず、薫が小首を傾げると側で会話を聞いていた清水がぎょっと目を見開くのが見えた。


「だから話し方ってものがありますよね?」

「大丈夫だよ」


 羽賀からのサムズアップに清水は肩を落とす。


「東堂さん」

「え、あ、はい」


 清水に名を呼ばれ、咄嗟に背筋を伸ばす。

 清水が唇を開こうとした時、「俺が伝えるよー」と羽賀が間延びした声で茶々を入れた。


「……しっかりと、簡潔に、きちんと伝えてくださいね」

「はいはい。了解了解」


 へらり、と羽賀は笑顔で答えると右手を軽く左右に振った。


「スタッフ価格。手術費及び通院費、総額五万でいーよ」

「スタッフ価格ですか?」

「うん。そう。うちは万年人手不足でね。東堂さんがよかった働かない? 手術費も安く済むし、この子飼うならこれからかかる費用、予防接種だとか血液検査代とかスタッフ割きくからお得だよ」


 それは、お得だと頷くほかない。今のところ飼う予定はないが飼い主が見つかるまで飼育するとなると餌代や健康診断費用などかかる。それが割引、しかも就活もクリア。

 すぐにでも了承したが懸念点が一つ。


「あの、でも私は動物に詳しくなくて……。資格もありませんし」

「ん? ああ、看護師ってわけじゃなく受付でどう? 電話対応や受付、掃除、慣れたら発注もお願いしたいかな」


 羽賀はどこからか一枚の紙を取り出すと薫に差し出した。


「これは?」


 受け取って紙上に綴られる文字を読み込む。雇用契約書のようで勤務時間や休日・休暇。給料に賞与などが事細やかに記載されている。

 ……正直に言えば、高待遇としか言えない内容だ。


「今はちょうど閑散期かんさんきだからね。僕らもつきっきりで教えることができるし、東堂くんは就職先を探してる。ちょうど良いと思わない? 僕と浅野くんが空いてる今がチャンス! 清水くんは教えるの上手だけど怖いからね」

「それは、先生が不真面目だからです」


 清水の叱責に羽賀はうんざりした顔を作る。わざとらしく「ほらぁ、よく怒る」と口にした。


「そうやってあることないこと言いふらさないでください」

「事実じゃん。君のお子さん達だって〝ママによく怒られる〟って言ってるじゃん」


 清水の拳が羽賀の頭にめり込んだ。いい音がした通り、痛かったのか羽賀は頭を抱えた。


「……清水くんはひどいな。この人、こうやってバンバン叩いてくるんだよ。お子さん達にも手を出してそう」

「そんなことはしません。先生だけです」

「僕だけ特別ってこと?」


 羽賀が頬に手を当てる。冗談めいた上目遣いで清水を見上げた。

 それに清水は「気持ち悪い」と一蹴し、薫へと微笑みかける。


「就職って合う合わないがあるからゆっくり考えて見てね。あっ、試しに入ってみるのもいいかもしれないわ」

「あー、いいね。職場体験。三日ぐらい試してみれば?」

「それは短すぎだし、先生は黙って」

「はいはい」

「受付っていってもすぐに仕事を任せるわけじゃないからね。私や賢司けんじ……もう一人の男の人が受付の仕事をするからそれを見て、覚えて。少しづつ慣れていけばいいから」

「この人、鬼だよ~。鬼畜。超ドS。聞くなら僕か浅野くんにしなね」

「先生、黙る」

「……はい」


 さすがにまずいと思ったのか羽賀は黙り込む。

 それをいいことに清水は先程とは違い、穏やかな表情で喋りだす。


「もちろん、試用期間中の給料はでるし、三毛猫この子が完治するまでサポートは必要でしょ? うちで働けば同伴出勤できるからメリットの方があると思うの」


 確かにそれも一理ある。退院してからしばらくはレーザー治療のために通院する必要がある。そのため、同伴出勤ができるならこちらとしても負担は少ない。

 だが、スタッフ割りを活用すると「やっぱり無理です。働きません」なんて申し訳なくて言えない。


「あの、ありがたいお話なんですけど、一度、持ち帰って検討してみてもいいですか? 少し混乱してて」

「いいよ。僕らも急に誘ったし、ゆっくり考えてみて」


 ひらひらと手を振る羽賀に、薫は深く頭を下げた。本当はもう少し三毛猫の様子や動物病院のことを聞きたかったのだが、もう十分もしないうちに午後の診療が始まってしまうため、後ろ髪を引かれる思いで、薫はよつば動物病院を後にした。

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