第5話 ただ餌を与えるだけ


 くしくしと前足で顔をこすり洗うと三毛猫は大きくあくびをした。眠たいのか薄く目を開けては、完全に閉じ、また薄く目を開く。

 眠れないのはきっと薫の存在があるからだ。

 その証拠にその目は入院室の入口に立つ薫にそそがれている。清水と違って時々しか訪れない薫は三毛猫にとって部外者でしかなく、警戒を緩めれないらしい。


「あの子、本当に肝が据わっていてね。普通だと入院した直後にご飯なんて食べないし、私達の前で寝ないし、近づくとシャーって怒ったりするのに、それがまったくないのよ」


 清水は三毛猫のことを思ってか声を小さくしてささやいた。


「やっぱり飼い主さんいるのかしらね」


 その言葉に薫は肩を跳ねさせた。

 清水は気付いたようで不思議そうな目を向けてくるが言葉で問いただしたりはしない。薫から話すのを待っていてくれているようだ。


「……今日、あの子を拾った場所に向かったんです。ご家族と会えるかなって」


 ぽつりと呟けば、清水は「うん、どうだった?」と小首を傾げた。


「近くに住むおじいさんが野良猫に餌をあげてて、あの子もその一匹だと聞いて、会いに行ったんです」


 ぽつり、ぽつりと薫は語る。

 その老人は一人暮らしで、十数匹もの野良猫に餌をやっていた。

 だが、どの猫も避妊や去勢がされておらず、餌を与えるだけで世話をしないため、近所の人々には嫌がられていた。

 餌付けされた猫たちは人間を恐れず、自由に庭に入り込み、排泄したり、道路に飛び出して車にかれそうになったりしていた。そうした危険から、近所の人々は何度も注意したが、老人は全く耳を貸さなかった。

 薫がその老人の家の場所を尋ねると、皆が渋々顔をしかめて教えてくれた。今思えば、彼らは関わりたくなかったのだろう。


「この子はおじいさんの飼い猫ですか?」


 薫が家を訪ねると庭先に猫に餌を与えていた老人がいた。不機嫌そうに薫を睨みつけてきたが、入院中の三毛猫の写真を見せると「ああ」と頷き、はっと鼻で笑う。


かれて死んじまったのかと思ったわ。生きてたんか、アイツ」


 まるで興味なさげに言うので薫は面食らった。曲がりなりにも自分が餌を与えて、可愛がっているはずの存在なのに心配する様子はまったくない。


「俺は金出せねーぞ」


 それどころか老人は手術費のことだけを心配した。年金暮らしに手術費を出せというのか、お前が拾ったんならあの猫はお前の物だから金は自分で払え、いっそのこと轢かれて死んじまえば良かったのに。あの三毛猫に恨みでもあるのか、その老いた口から次から次へと飛び出てくるのは耳を塞ぎたくなるような言葉ばかり。


「なんか、悲しくて、やるせなくて……。逃げてきちゃいました」


 こんなこと言われても清水が困るだけ。

 そう分かっていても言葉にすることで胸が軽くなった気がした。


「別に治療費が欲しいわけじゃなかったんです。あの子は無事ですよって伝えたかっただけなんです」

「それは災難だったね」


 そう思ってもいなさそうな軽薄な口調に清水と薫はそろって背後を振り返る。入院室の入口で、羽賀が腕を組みながら首をもたげていた。


「でも〝その猫は東堂くんの〟って言質げんちとったんならラッキーだね。誓約書せいやくしょ書いてもらった方が確実だけど、話聞く限りそこまで愛情持ってなさそうだし、これで何やっても訴えられることはないよ」


 歯を見せて笑う羽賀を清水が冷めた目で睨みつける。


「そういう話してないんですけど」

「いやいや、大切だって。ほら、野良猫に避妊手術施したら実は逃げ出した猫で、飼い主から訴えられた! とか道端で拾った怪我した犬を病院連れて行ったら実の飼い主と治療費の支払いでトラブルになった! とか色々あるじゃん」

「……まあ、確かに」


 清水が頷くその横で薫は首を傾げる。羽賀の言う通りならあの老人に猫の所有権を放棄してもらった方が治療を問題なく行えるのだろう。

 しかし、治療費でトラブルになるのだろうか。避妊の件は分からないでもないが、後者は大切な愛犬を助けてくれたのに。


「んー、なんて言うかね。日本の法律でペットは物扱い。つまり、犬猫の所有権は飼い主にあるんだ。保護した人が自己判断で避妊去勢や治療を施しても〝なんで勝手にやったんだ〟ってなるわけ」

「え、怪我しててもですか?」

「そうだよ。飼い主さんとしては頼んでもいないのに勝手に治療されて、さらに治療費を請求されたらたまったもんじゃないよね」

「……なんて言うか」


 言葉に詰まっていると羽賀は肩を持ち上げてみせた。


「正直さ、犬や猫を飼ってるからって心まで綺麗って人は全体の半分いたらいい方なんだよ」

「……半分」

「もう二十年近く獣医やってるけど、色んな家庭の形を見てきたんだ。犬猫をペットじゃなく我が子として可愛がる人もいれば、ただの生き物として飼う人もいる。今回の、東堂さんが会いに行ったおじいちゃんは間違いなく後者だろうねぇ」


 からからと笑いながらも羽賀は優しい眼差しを三毛猫に向ける。

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