第3話 血液検査の結果
「えっと、高校卒業してからはずっと祖父母の介護していて、ニ年前に祖父が、一ヶ月前に祖母も亡くなったんです。なので働こうと思って、就職活動中です」
「まだ見つかってないの?」
「ええ、まあ……。
「しかも頼れる身内いないし、車の免許もないんでしょ?」
「……はい」
「正社員だと見つかんなくない?」
「パートとかも考えているんですけど」
「パートかぁ。パートねぇ」
なにか思うところがあるらしく、羽賀は腕を組んで「パートはねぇ」と繰り返す。その背後には、明らかに怒っている清水の姿が。
「先生。血液検査の結果がでたようですよ?」
ドスが利いた声に、羽賀の肩が跳ね上がった。
「あ、うん、ちょうだい」
見るからにトーンダウンした羽賀は検査結果の用紙を受け取るとそこに書かれた数値を見て、安心した様子を見せた。
「これ、見て」
差し出された検査結果の用紙は上の部分には患者の名前や性別、年齢がかかれており、その下には左にはアルファベットの単語と数値が、その右には横棒グラフが書かれている。
数値とグラフの色は黒と青の二色で、黒文字の隣には「正常」、青文字の隣には「低い」という単語がある。そのまた隣には「基準値」と書かれ、数字が書かれていた。
基準値以内は黒文字で、それよりも低い場合は青文字で書かれている——と理解した薫はさっと顔を青くさせた。
(え、あの安心した様子はなに?!)
書かれた数値の大半が青文字だ。どこに安心したのか分からない。
「貧血気味なのは事故ってから時間が経っているからだね。点滴に抗生物質入れとくから安心して」
「よかった、です。死んじゃったかと思って……」
「ははっ、放っておいたら確実に死んでただろうね!」
笑い事ではない、と口走りそうになり、急いで口を固く結ぶ。
薫の怒りは清水が代弁してくれた。
「先生。笑い事ではないですし、いい加減、真面目にしてくれませんか?」
「清水くんは本当に怖いなぁ。ただの雑談だって。それに、僕はいつも大真面目さ」
「……検査結果の説明は終わりましたし、次は?」
「面会です。はい」
しょぼれくれた羽賀は「こっちだよ」と診察室から出ていく。薫がその後を追いかけようとすると清水が申し訳なさそうに眉を下げた。
「すみません。羽賀先生は腕はいいんですけど、人の心がなくて……」
「あ、いえ、大丈夫ですよ。まさか、プライベートを聞かれるとは思いませんでしたけど」
「あの人、興味があると知りたがるんです」
頬に手を当てると清水は深く息を吐く。どうやら羽賀の奇行は今に始まったものではないようで、彼女の悩みの種のようだ。
「ほら、君達も早くきなよ」
扉からひょっこりと顔を覗かせた羽賀に導かれ、薫は〝入院室(猫舎)〟と書かれた部屋へ足を踏み入れた。入院室は鉄製の二段ゲージが二つと三段ゲージが三つ、計五つが並んでおり、そのうちの二つの部屋が埋まっていた。入院患者のようだ。薫達の姿を見ると一匹はトイレの陰に隠れてしまい、もう一匹は嬉しそうにゲージの扉に額を擦り付けている。特に羽賀を見た時の喜びようは凄まじく、可愛らしい声でにゃあにゃあと鳴いてアピールをしだす。
羽賀は指先を扉の網目から中に入れてアピールする猫の額を撫でながら、空いた手で奥を指差した。
「あそこにいるよ。見てみなよ」
薫が連れてきた猫は一番端に設置された、三段ゲージの真ん中の部屋に入れられていた。急いでいてよく見ていなかったが茶色と白黒——いわゆる三毛猫と呼ばれる猫なのは素人の薫も分かった。
猫は右手首に包帯が巻かれており、そこから伸びる管が輸液ポンプへと繋がっている。一定の間隔で吊り下げられた点滴液からぽたぽたと雫が落ちて、輸液ポンプの表面に刻まれた数字が増えていく。
「痛み止めいれたの効き始めてるみたい。さっきよりも顔色いいでしょ?」
ガリガリに痩せこけた胸が微かに上下している。あれだけキツく閉ざされた目が薄っすらとだが開いては閉じている。それだけで、薫は例え難い安心感を覚えた。
「仕事終わりなのに、無理いってすみませんでした。ありがとうございます」
「僕らもペット飼ってるからさ。君が助けたいって連れてきたと同じぐらい、僕達もそう思っているんだ。あ、見る? この子が僕の愛犬のメグミちゃんとツグミちゃん」
猫を撫でるのを止めた羽賀は入院室から出ていくとテーブルに飾ってある写真を持ってきた。その写真には今よりも若い羽賀と八つほどの少年、二人の間にはつぶらな瞳が可愛らしい柴犬が二匹並んでいる。家族写真のようだ。
「こっちの黒柴がメグミちゃんで、茶柴がツグミちゃん。姉妹なんだよ」
「柴犬ですか?」
「そ! ちなみに病院名の『よつば』はこの子達のお母さんなんだ。六年前に死んじゃったけど」
「お好きなんですね」
「子供の時に初めて飼ったのが和犬のミックスだからね。見た目が柴犬で、よつばちゃんはその子にそっくりだったんだ。そこから柴にはまってねぇ」
「へ、へぇー」
あ、ヤバい。羽賀のスイッチを押してしまったと後悔する。
(時間、もうすぐで十九時過ぎるんだけどいいのかな……)
先程、清水が扉を閉めようとしてから一時間が経とうしている。就業時間過ぎているはずなのに羽賀は意気揚々と愛犬メモリーを引っ張り出そうとしていた。
少し離れた場所では清水が入院患者用と思われるご飯の準備をしており、浅野はシンクで道具の洗浄を行っている。二人とも多忙のようでこちらをちらちら見ているが声をかけてくる気配はない。
薫もそろそろ帰宅したいのでどうしようと思った時、入院患者の一頭が急にえづき始めた。尖った耳を伏せて、目を細め、体を丸めて全身を震えさす。羽賀がアルバムを近くの机に置くとえづく猫に近寄った。
「あー、気持ち悪いよね」
言い終わると同時に猫は黄色の液体を吐いた。羽賀はゲージの扉を開けると猫を優しく抱き上げ、何事かと近づく二人の看護師に嘔吐物の片付けと注射の用意を指示する。
そして、いきなりのことに慌てる薫を見て、にっと笑った。
「じゃあ、この子は預かるから帰っていいよ。手術の日程が決まったら改めて連絡するね」
「は、はい。えっと、よろしくお願いします」
「ご飯はこっちでいくつかサンプル用意して、あの子が気に入ったものがあればあげてみるよ」
「何か持ってくるものとかありますか?」
「食器も毛布もうちの使うから必要ないかな。あ、面会しにくる時は事前に連絡入れてね。うちは少人数でやってるから午前も午後も完全予約制なんだ」
「分かりました。では、失礼します」
迷惑をかけたことを含めて深く頭を下げる。財布から抜き取った一万円札を嘔吐物の片付けを終えた浅野へ手渡すと踵を返して病院を後にした。
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