主任という存在

 仕事に寝坊しない為には、出勤の前にもう一つ別件で動かなければいけない用事を作るしかない。


 そして、それは起きれなければ誰かを巻き込む、誰かに迷惑をかけてしまう程のような大きな事でなければ効果はない。


 自分だけにしか損害がない事柄なんかでは起きれる見込みなんてなかった。


 これに関しては、あたしの中で実証されている。


 しかし、そんなことが社会人として通用するのだろうか⋯⋯。




 入社から3カ月が経った、6月某日 AM6:20



 夏至も近づく梅雨の晴れ間。


 最近は、日が昇るのも早くなり、カーテンを閉め忘れた窓からは燦々と陽の光が差し込んでくる。


 うっすらと、目を覚ますあたし。

 よほど暑かったのだろうか?おそらく蹴飛ばされたと思われる掛け布団は、部屋の隅に追いやられ本来の役目からは遠ざかっていた。


 まだ目はかすみ、ここが夢の世界なのか現実なのかそれすらはっきり判らない程あたしの意識は朦朧としている。


ふわふわ

フラフラ


 ゆっくりと起き上がると、なんとかその場に座り込む。


「あぁ⋯⋯ねむ⋯⋯。いま、なんじ?」


 体が重い。

 ズッシリと両肩に鉛を乗せられているようだ。

 10kgずつは感じる。

 まぁ、いつもの事なんだけど。

 四つん這いになりながらなんとか枕元の目覚まし時計を確認しに行く。

 この時計は、あたしが中学生の頃から使っている父から譲って貰ったものだ。

 デジタル音の鳴るシンプルなタイプ。

 可愛らしさのかけらも無いが、あたしは妙に愛着を持っていた。


 しかし、その子が指す針を見てあたしは血の気が引く事になる。




「⋯⋯6時⋯⋯20⋯⋯か。

⋯⋯。

⋯⋯⋯⋯ん? はぁ? 6時20分??」



 ついに、やってしまった。



 今日の出勤時間は “初” の早朝6時なのだ。


 しかも、この時間帯の出勤はあたし1人。


 夜勤から引き継がない場合は、製造機械は当然停止している。

 よって、7時から製造を開始するあたしの課では、誰かが1人1時間前に出勤することになっている。事前に機械のスイッチを入れ空運転させておく為だ。時間通り製造開始できるよう機械を慣らしておくには必要な事らしい。



 その役目を今回初めて請け負った訳だが⋯⋯



 すでに20分が過ぎている。


 今から駆けつけても更に10分。


 それはそのまま、課の1日の製造全体の遅れとなる。


 1日に、300万本以上製造する事を考えると既に何万本分の遅れになっているのか⋯⋯。


 焦りのせいか、アドレナリンが相当出たのであろう、さすがのあたしの頭も一気に目が覚める。


「どうしよう。そうだ。まず電話⋯⋯ダメ。電話したって誰もいない。とにかく、とにかく行かなきゃ。1分でも早く。」


 あたしは、青ざめながら⋯⋯嫌、もう半ベソかきながらとにかく走った。

 走って走って走った。

 冷や汗なのか、暑さによる汗なのか、とにかくすでにびっしょりだ。


 守衛さんの前を挨拶も忘れ突っ切る。


 更衣室に着くと、超特急で着替えて製造現場に向かった。

(⋯⋯やばい)

 いつもは筋トレにちょうどいいと思っている安全靴も、このときばかりはただの重荷でしかない。

握るドアノブが汗で滑る。

(あ〜、もうイライラする⋯⋯)


 必死になって到着すると⋯⋯現場では予想にもしていないことが起きていた。



「えっ??電気⋯⋯付いてる。ってか、機械動いてる。⋯⋯どういう⋯⋯こと?」


 そう。

 真っ暗で静かなはずの製造現場は、蛍光灯に照らされながら既に動いていたのだ。


(出勤日を間違えたのかなぁ?いや、そんなはず⋯⋯)


 あたしは、とにかく中に入った。


 いつもながら、部屋中にはプラスチックの溶けた匂いが充満している。

 空調が切られていたせいもあり、いつもよりより濃厚に感じた。

 もう、臭いにはずいぶん慣れたとはいえ、これが体に染み着くのだけは未だに耐え難い。


 ゆっくりと、そ〜っと歩きながら現場内にある監視室へと向かう。


 やたらと広い製造現場内に、ガシャコン、ガシャコンとやかましい機械音があちらこちらから鳴り響く。

 普段でも、大声張り上げないと隣にいる人とすらまともに会話もできない程だ。

 正直、パチンコ屋さんの方がよっぽど静かだと思う。


 そんな機械達の横を何台もすり抜けた先に、目的地である監視室がある。


 広さにして14畳ほどかな。


 室内にはいくつものデスクがあり、色々と重要な資料の入ったロッカーが並んでいる。

 課の会議もいつもここで行われた。

 まぁ、事務所と思ってもらえればいいと思う。



(誰がいるんだろう?あぁぁ、これは、相当絞られるよねぇ。あぁ、もうどうしよう。責任とかどうすればいいの??)


 あたしは、入り口の壁に隠れるようにしてそっと立つ。

 先ほどとはまた違った緊張感が走った。

 焦りの緊張感が “動” とするならば、恐怖による緊張感はまさに “静” これほど体は動かなくなるものなのか。


 パニックになりそうな自分をなんとか少しずつ落ち着かせる。


 しかし、大きく脈打つ心臓の音は一向に鳴り止もうとはしない。


(いつまでも、こうしてる訳にはいかないか⋯⋯)


スゥーー。


 あたしは、ゆっくり深呼吸すると覚悟を決めて監視室のドアを開けた。


 すると、



「おぉ!!やっと、来たか!!」


 そう、大きな声で迎えてくれたのは主任の “秋吉さん”  だった。


 勤続20年のベテランの男性だ。


 デスクでノートパソコンをいじりながら、こちらに向けて満面の笑みを浮かべている。

 指には随分と短くなったタバコが挟まっており、今にも灰が落ちそうだった。


「えっ?あっ、お⋯⋯おはようございます。あの、すいませんでした。えっと⋯⋯これって⋯⋯」


 あたしは、現場を指差しながら尋ねる。


「おぉ!若宮が、わかんねぇところあったりすると困ると思ってなぁ。俺も6時過ぎに来たんだわ。そしたら、現場真っ暗だからよ!!とりあえず、スイッチ入れて先に動かしといたわ!!どした?寝坊か??」


 秋吉さんは、ニヤニヤしながら訪ねてくる。


「⋯⋯はい。初日からすいません。あの⋯⋯えっと、まだ残ってますか??」


 あたしは、仕事がどのくらい残っているのかを尋ねた。


「あ〜、細々(こまごま)したもんは、やってねぇぞ。塩素水作ったり、袋設置したり⋯⋯」


「すぐ、かかります!!」


 あたしは、そう言うと踵を返す。


「ちょい待ち!!とりあえずタバコの1本でも吸って休憩しな。その汗、相当走ってきたろう?」


「でも⋯⋯」


「すぐにかからないかんような事は全部終わっとるで、慌てなさんな。残りは10分もありゃ終わるで大丈夫。まぁ〜6:40ぐらいから始めりゃいいだろ?10分前ぐらいになると他の連中が、ぞろぞろ出勤してくるで。まだ、10分ぐらいはゆっくりできるわ」


 そう言うと、あたしの前に小さなガラスの灰皿をポンと置いてくれた。


 その中には、先ほど吸っていたタバコが1本だけクシャっと潰されている。


(ほんのついさっきまで、代わりにやってくれてたんだ)


 秋吉さんは、出勤と同時にまず1本吸う癖のある人だ。


 なんてことないように接してくれてはいるが、きっと裏では急いで代わりに仕事をしてくれていたのであろう。



「なんか、いろいろありがとうございます」


 あたしは、そう言うと自前のタバコに火をつける。


 ニコチンが身体中に沁み渡るのを感じながら少しずつ緊張感から解放されていくのを感じる。


「おぉ、そうだ。遅刻した事は、係長や他の連中にわざわざ言う必要ねーぞ。こんなもん、言わなわかりゃせんのだで。初日だで、何か聞いてくるだろうけど『なんとかやれました』って適当に言っときなよ」


 うちの会社は、タイムカードというものが無く、日誌に出勤時間や退勤時間を手書きで書くスタイルだ。


 誰もいない時間帯なら、たしかに適当に書いてしまえば遅刻したかどうかなんてわかりようがない。


「けど、あたし30分も⋯⋯」


「ぉお!ぉお!おお!!未成年が堂々とタバコ吸ってる割に真面目だなぁ!」


「それは言わないでくださいよぉ」


「まぁ、1分も30分も変わりゃせんて。大丈夫。そのかわり他のやつには言うなよ」


「えっ?⋯⋯はい。ありがとうございます。助かります」


「いいよ、いいよ。みんな一緒だって。だいたいさぁ、仕方ないとは言え、こんな時間に出勤しろっていうのが無茶なんだって!!俺も18(歳)からこの会社いるけど、やっぱ最初のほうは間に合わんかったし。何回『無理だろ。ふざけんなっ』って思ったか」


 そう言うと、2本目のタバコに火をつける。


「そうなんですか?」


「そりゃ、そうよ。そもそも数ヶ月前まで高校生だぞ!!今のお前と一緒よ。それが、4月になった途端、『はい。今日から社会人です。会社のルールはこうです。ミスをしないように。社会人としての自覚を⋯⋯』うるっせーーーーって、言ってやりたかったわ」


 秋吉さんは、課長とまではいかないが、なかなかに恰幅が良くタバコが妙に小さく見えた。

 身長も、あたしなんかより遥かに高いので(170cm以上あるかな)尚更だ。


 主任という立場ではあるが、事実上うちの課ではこの人が一番仕事ができると言っていい。

 他の主任や係長と比較してもぶっちぎっている。

 課長からの信頼も一番厚い人だ。


「ははっ。ホントそうですよね。ちょっと、ホッとしました」


 あたしは、そう言うとタバコの火を消し灰皿を返す。


「ありがとうございました。じゃ、そろそろ残りやってきます!」


「おぅ。頼むわ!!わからんかったら聞けよ」


 あたしは、一礼すると監視室を出る。


 残っている仕事は本当にたいしたことはなかった。


「よしっ!全カ所ゴミ捨て用の袋の設置もOK!消毒用塩素水も作ったし、アルコールの補充も終わったし、あとは⋯⋯」


 特にやることがなくなったので、監視室に戻り洗濯機を回しつつ、手洗い場でも掃除することにする。


 そうこうしているうちに、7時出勤の他の上司や先輩達が出勤してきた。


「うぃーーす」

「っざーーーす」

「おっ、おはよう」

「おはようさん」


 各々、個性的な挨拶をしながら入ってくる。


「あっ!おはようございます!!」


 あたしは、泡だらけの手の為首だけ振り返るとみんなに挨拶をする。


「おはようございます。あっ、サキおはよー」


 先輩達から少し遅れて、波瑠が出勤してきた。


「ほーーい!おはよー」


 あたしは、そう返事を返すと掃除を続けた。


 この成形課は、5年ほど前から製品の検品作業員として “渋川さん”  という40歳半ばの女性パートの方がいる。

 しかし、その方とあたしを含めた新人2人を除けば、すべて男性社員で占めているような課だ。

 年齢も、20代から50代まで様々。

 パートの方はどの課であっても勤務時間は9時〜17時となっている為、まだ出勤されてはいない。


 昨日の野球の話やパチンコの話やら、課内がガヤガヤとやかましくなってくる。

 それに合わせるように、室内が一気に煙ってきた。


 この成形課社員の喫煙率は70%以上。(結構問題だと思うが⋯⋯)


 人が集まれば視界が悪くなるのはあっという間だ。


「おぉ!朝から元気だねぇ!んん?ってか、サキちゃん、なにやってんの?」


 5歳年上の “村上”  さんが訪ねてきた。


「えっ?あ〜、早出作業が終わって時間が余ったので手洗い場の掃除でもと思って⋯⋯」


「はぁ?マジか!オレ早番に慣れるまでそんなとこに時間かけれる余裕なかったわ!ってか、時間内に終わらんかったし。すげ〜な!真面目か?!」


「えぇえっ??いや⋯⋯えっと、ははは」

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