夢の少女、枕元の幽霊

東屋猫人(元:附木)

枕元の幽霊

 私の部屋には幽霊がいるのです。ええ、一人。ワンピースを身にまとった茶目っ気たっぷりな女の子なのですけど。彼女はいつの頃からか夜、私の部屋へ現れてとんでもない夢へ放り投げていくのです。うとうとと眠りに落ちる間際に枕元に現れて、「おやすみ」と言う。変な幽霊でしょう?いったい何なのか聞きたくとも、幽霊だから彼女、私が目を覚ますころにはとっくにいなくなってしまっているんです。私が彼女に会えるのは夢に落ちるその一瞬だけ。こうして話していると、彼女も夢の一部なんじゃないかってあなたも思うでしょう…でも、それだと夢の内容が違うのに入り口だけが毎度同じ、だなんて説明がつかなくなってしまいます。なので私は彼女が夢を届けにやってくる夢の専門家の幽霊なのだと思うようにしました。

私はそれからというものの、彼女が見せてくれる夢たちを心待ちにするようになりました。…しかし、ここ何年もとんと姿を見かけなくなってしまったのです。それというのも、もう私が夢を必要とする子どもではなくなってしまったからなのでしょうか。真相は彼女にしか知る術はございません。

 さて、本題に移りましょうか。今回あなた様にこちらへお越しいただいたのは彼女が見せてくれた、不思議な夢たちを語ってみたいと思ったからなのです。彼女、本当に沢山の夢を見せてくれるのに、大体の夢は数日たつと持っていってしまうんですよ。はっきりと思い出せていた内容が突如として全く思い出せなくなってしまうのです。ですから、私はそれを彼女がもう私に不必要と断じた故に持って行ってくれたのだと思っています。しかしながら中にはいつまでたっても忘れられない夢というのもございます。見たのはもう何年も前なのに、いまだにはっきりと思い出せるものがいくつかあるのです。今回はそれらをお話ししましょう。

 この夢たちを聞いた暁には、あなた様に彼女から私にあてたメッセージがないか、読み取れるものがないか伺いたいのです。え、なぜかって?それは彼女が何を伝えてくれているのか気になるからですよ。…もしかしたらまた、夢を届けにきてもらいたいのかもしれませんね。いくら夢の内容を忘れたって、眠る直前にかけてくれる「おやすみ」の言葉と彼女の表情は忘れることもできないんです。きっと恋しいのでしょう。唯一無二の友達でしたから。さて、前置きが長くなりました。それでは始めるとしましょう。最初にお話しする夢というのは——。



                一、お蚕の群れ


 私は気がついたら立っていた。ここはどこだろう、周りは真っ暗闇だ。少し先に何か見えないかと目を凝らして見ても、どこまでも真っ暗。仕方がないので周りを見渡そうとして、はたと気がついた。おや、動かせるのは首だけか。立っていて突然身体の殆どが不随とは、また随分奇妙なことになったものだ。嘆息したその時、突然手にうごめく感触を拾う。手に神経が通っているということは、とりあえずは首から下も無事なようだなどとぼんやり思う。

手を見てみると、両手は上を向いていて、丁度腹の辺りまで持ち上げられていた。左右を隣通しに並べていて、そう、お椀の形を作って固まっているようだ。自分の手に対して「ようだ」というのもおかしな表現だが、なにしろ全体像が見えないので仕方がない。手で作られたそのお椀には溢れんばかりの・・・いや、溢れるほどに繭があった。その繭がぽこぽこと溢れ出て来て、上にあるものを押し出していく。そうして落ちたのだろう繭がいくつも足元にもころころ、ころころと転がっていた。まったく数えきれない量の繭たちがここにある。命を断たれた繭たち。なべて一部を切り取られ、空洞の覗く繭たち。

ああ、勝手に育てられ勝手に殺された哀れで愛おしい蚕たち。繭なんてものがなければ、人間に目を付けられなければ、きっとふわふわとした羽毛に被われたカイコガになるはずだったのに。今やカラカラと音のするほど軽くなってしまった。そんなことを想っているうちにも繭は止まらない。そろそろ足元が埋まってしまいそうだ。まあどこに行くわけでもない、このまま埋もれて死んでもいいかもな、と思った。

その時、頭上を何かが羽ばたいてゆく音がした。



                 二、白蛇


 怖い、怖い!このままでは噛まれる、どうしよう。目の前にとても長く太い白蛇がいる。これは手強そうだ、鱗がみっちりと詰まりぎらぎらとした光沢を放っている。それが目の前の小岩を盾にしてこちらへ迫ってくる。ああ、怖い、怖い。

それにしても、なんでこんな時に限ってスニーカーなんて履いてきてしまったんだろう!これではすぐに足首の柔らかいところを噛まれて終わりじゃないか。いつも履いているお気に入りのブーツはどこへ行った?何かないか、某でも何でもいいから身を守れるものを。そう周りを見渡した時、ふと手に拳大の石を持っていることに気がついた。ああ、なぜ気が付かなかったんだろう?もう武器はあったんだ、これで身を守れる。これであの白蛇の頭を潰せば良いのだ。よし。覚悟を決めてかかるぞ。

えい、と渾身の力で振り下ろしてみたがすっと避けられた。えい、もう一度。また避けられ、頭どころか鱗に傷一つつけられやしない。そうしているとなんだか恐怖よりも悔しさが勝って、むやみに石を振り下ろし続けた。それでも白蛇にはかすりもしなかった。

 とうとう疲れて果ててしまい、石を持ったまま途方に暮れる。白蛇はああまでされても咬む素振りなど微塵も見せず、ただただ足元でうねうねと動いている。右の足をぐるりと回り、左の足をぐるりと回り。観察してみれば八の字を描くように地面を這っていた。ぼんやりとそれを見ていると、白蛇は足の間で丸い形に収まった。おお、とぐろを巻いた。妙に面白くて見入っていると、白蛇は頭を持ち上げこちらを見上げる。正面からみたその顔がなんだか笑っているようで可愛く思えて、石を落としてしまわぬようぎゅうと抱きしめた。



                三、酒精


 「わざわざ事故物件行くような奴はすでに頭が事故ってんだよ!!」

突然響く怒号にびくりと身体を強ばらせた。恐る恐る見やると、少し離れたところにグループがおり、その中の男の一人が宥められているところだった。

「辛辣!」と茶々を入れる男がまた火に油を注いでいる。女たちは楽しそうに笑い、残り一人の男もにやにやとした表情でこの事態を楽しんでいるようだった。恐らくあのグループではよくあることなのだろう。そこから彼らはとりあえずヒートダウンした男を宥めつつ、話を続けている。少し離れているので会話が聞こえずがっかりだ。何を話していてあのことばが生まれたのか気になっていたのに。そろそろ不審者がられても嫌だし、もう聞こえないなら仕方がない。右手にいたそのグループから目を離すと、他にもちらほらと人がいるのに気がついた。

 その中でも比較的近くにいたのが金髪碧眼の男性と黒髪で浅黒い肌の男性の二人組。何だか距離が近い気がする。幼なじみだろうか、それとも親友だろうか。すぐそこにいるので耳を澄まさずとも会話が聞こえてきたので、むくむくやじ馬根性が芽生えてしまう。人間観察は趣味なんだ。

「ほら、僕ってキュートだろ?」と黒髪の男。

「やだ、ほんとだ・・・君ってば最高にキュートだよ・・・!」と金髪の男。

うっとりと見つめ合い、自然な動作で首に腕を回す。おっと、これ以上見ていると馬から亀になる。すっと目をそらした。右も左も封じられ、仕方なく棒立ちで真っ正面を見る。・・・いや、見たくない。あれはなんだか見てはいけない類のものではなかろうか。けれど首しか動かせない今の状態ではパリピかカップルかを目に焼き付け続けることになる。仕方がない、異様な感じがするけど正面を見てみよう。意外と面白い経緯がわかるかもしれない。きっとあれは行き過ぎた罰ゲームに違いない。

 そう自らに言い聞かせ、今まで見ないようにしていた真っ正面には中年男性がふたり。二人とも恐らく三十代後半、ひとりがスーツを着ていて、もうひとりは上裸でブリーフと黒ストッキングを履いている。ストッキングの男が足をぴっちり閉じて座り、腕を後ろについて真っすぐスーツの男を見上げている。スーツの男もまたストッキングの男を見下ろしているという状態だ。見ないようにしていた間もずっと視界の隅でこの状態だった。異様も異様だが何が起きているのだろう?静かに見つめあう様はやはり異様と言う他ない。しばらくそのままだったが、スーツの男がどこからともなく刺身を取り出す。どこからだした、というこちらの疑問も余所に、それを慎重にストッキング男のふとともの付け根あたりに乗せた。途端、般若もかくやという形相でストッキングの男が叫ぶ。

「人の足を勝手に寿司三昧にしやがってこの野郎!!」

意味がわからない、怖い、と思い顔を伏せた途端、何故今まで気がつかなかったのか、杯があちらこちらに転がっているのが見えた。まさかこれ、犯人は。



               四、道端の鹿


 とても懐かしい。昔、こどもの頃はこの近くのアパートに住んでいたんだ。丁度この辺の道路でチョークや石で落書きしたり、自転車で走ったりと色々遊んだものだ。よく落書きするなとか危ないとかって怒られていたっけ。そんなことを考えながら、昔のように可哀相なコンクリートに落書きをしてみている。描き慣れたキャラクター、ちょっとチャレンジした周囲の風景、そしてねこ。童心に返っているのかとても楽しくて、筆がずんずん進む。これはあとで写真を撮ろうかな、などと考えているとふと人の気配がした。顔をあげてみると、そこには村野がいる。村野は数年前から大ファンで、ずっと追いかけてきた舞台俳優だ。いつものように柔らかい表情と声で問う。

「それ、猫?」

「うん。うちに二匹飼ってるの。」

こっちがばにらで、こっちがちょこ。指差して可愛いでしょ?と聞いてみると、うん、可愛いね、と返してくれる。

「絵、上手なんだね。まるで道路に描き慣れてるみたい。」

「それって褒めてるんですか?」

「やだなぁ、ちゃんと褒めてるんだよ。」

うん、やっぱり上手だね、と繰り返して、また問う。

「ねぇ君はさ、何でこんなとこで絵描いてるの?」

「ん~…なんでだろう。ただ楽しくてやってる。」

「そっかぁ。」

そう答えながら自分でも不思議に思う。そもそもなんで私は昔のように道路に落書きをしているんだっけ?するとそこにひとり合流してきた。こちらは誰かわからないが、村野とは知り合いらしい。和やかな雰囲気で会話をしている。

「なあさっきのステージ目茶苦茶良かったよな、音ハメばっちりで場の温め方も巧いし!」

「そうだな、あれは凄かった。是非とも見習いたい。」

あれだけ踊れたら絶対気持ちがいいよな、舞台でもダンスしちゃう?ミュージカルの扉開いちゃう?と言う村野にお前ダンス経験皆無なのによく言うな、と茶々を入れている。仲いいんだなぁ、昔なじみかななどとぼんやり考える。するとその誰かは

「俺なんか真似しようとしたってこれだぜ!?」

と言いつつダンスらしきものを披露しているが、どう見たってもがいているだけだ。できるならばレイヤーを足して水を描きたい。

「僕だってこれだよ。」

村野までやりはじめた。やっぱり村野も長い手足を動かしてもがいているように見えてしまう。展開が読めずつい吹き出してしまった。それを見た誰かさんがウケた!と言わんばかりに顔を輝かせて一層派手にもがき始め、腹筋が限界を迎えそうだ。

「凄いなお前!この子めっちゃしょんぼりしてたのに!」

えっそうだったのか、と思いつつ村野を見る。村野はこちらへ向き直り、

「じゃあ僕は生まれたての小鹿やるもんね!!見てて!」

と足をプルプルさせて四つん這いになりこちらに這ってくる。お腹が死ぬ、もう勘弁して。

そう思った瞬間ぱちりとチャンネルが変わるように自室の天井が視界に飛び込んでくる。

「・・・なんつー夢よ」

ひとり空に向かって呟く。でもまあ、今日の仕事は大分頑張れそうな気がする。



              五、エレベーターの女


 いつもの時間、いつもの調子で家を出る。同居人はもう出ているから自分が総締めをして出なければいけない。火の元良し、戸締り良し、コンセント良し。それぞれ指差し確認、オールグリーン。使い慣れたくたびれた肩掛けカバンをかけて、いざ、秋口の朝のひんやりと澄んだ空気の中に繰り出す。

 私の職場の出勤時間は世間様よりちょっぴり遅い。それなので、ゴミ出しや小中学生の通学の時間と被らず、マンションであるのに出勤時、帰宅時ともに人とすれ違う事は比較的少なかった。電車もラッシュを免れており、人と会う事でエネルギーを消耗してしまう質の自分には大変ありがたい。この日も誰ともすれ違わないまま廊下を歩き、エレベーターホールへ着いた。降りのボタンを押し、しばし待つ。その間に今日のタスクを頭の中で簡単にまとめ始める。出社したらまず連絡事項に目を通して、次に書類作成して。そのあとは何から片付けていこうか…たまには後輩の調子も見てみようかなどと考えていると、間もなくエレベーターが到着するところだった。まあ出社してデスクを見てから決めるのでいいだろう、と顔をあげたその瞬間、エレベーターのすりガラスの向こうに赤い目をしたぼさぼさの長髪の女がこっちをねめつけて居るのを見た。瞬きする間もなく声も出ないまま、階段で一階まで転げ落ちるように駆け下りる。たまにいる住人たちが何事かとこちらをみてくるが構っている場合ではなかった。

マンションを出て距離を取るまで、パニックは収まらず冷や汗も荒い呼吸も続いた。

 それ以降、何があっても階段を使うようにしている。ほかに誰もあの女を見たという声は聞かないし、それ以外の心霊話も聞かないのだが、あの目がどうしてもいまだについてまわっているようで恐ろしい。



               六、沼地の木陰


 誰かとビデオを見ている。近年では見ることも少ない分厚いブラウン管のテレビにビデオ1と表示があるのだから、やはりDVDではなくビデオなのだろう。映像を撮影している主は木立を進んでいる。がさがさという音をさせて草木をかき分け、ずんずん無言で進んでいる。ただ木をかき分ける音と呼吸音が響くだけの映像。それにしてもどこからだろう、この響いているお経というのはこのビデオからなのだろうか、それともどこかで唱えているのだろうか。こんな深夜に?そもそも隣のこの人はいったい誰?こんなもたれかかって共に映画でも見るような人、いないはずなのに。

 様々な疑問がぷかり浮かびつつも何だか気怠さが勝って身じろぎせずにいると、映像の主は木立を抜けて沼のほとりに出た。沼と言ってよいのかわからない…むしろ大きな水たまりというほうがしっくりくるような沼だ。撮影者の息が荒くなっているせいで、少し映像が上下している。草木も沼も静謐を保ち、ぴちゃりとも音がしない。だというのに真正面から白いワンピースを土埃に汚した女が音もさせず姿を現した。映像はそこで静止したまま止まって、動かなくなった。

 もう動かなくなった映像をそのままに、私がもたれかかっていしまっている隣の誰かはそっと毛布で包んでくれ、私はふっと眠りに落ちる。そういえば、いつからかお経、聞こえないな。



             七、ヒーターからの声


 古民家に集まっていた。今日は講座があるので、いつもは観光客用に開け放たれているこの屋敷も地元民で賑わっている。もっとも、賑わうといってもこぢんまりとした所だから、六~七人と講師くらいのものなのだけど。講座のテーマは儀礼について。地元の儀礼祭礼、作法習慣について改めて意味ややり方を教わりなおそうという会である。既に全員揃っているものの講座まではしばらく時間がある。上がりにあるストーブに点火し、もう全員揃っているのは確認済みなので入り口を閉めきり部屋を暖めた。飲み物を配り、土間と上がりを使っておしゃべりに勤しむ。近所のどこそこの奥さんが姑と喧嘩してしょうもない、あそこの息子さんが浮気してみっともない、などというご近所間の噂話を耳にしつつお茶を啜る。礼儀と儀礼は何が違うのだろうなどとぼんやり思っていた。

 そうこうしているうちに予定の時間がやってきた。あらかじめきちっと用意しておいた上がりの座布団に着席する。講師が生徒とホワイトボードとの間に立つ。

「さ、さ!それでは早速始めましょう。本日のテーマは皆さんご存じの通り儀礼について。これから年末になりますし、しっかり押さえて迎えましょう。」

そういうとボード用のペンの蓋を開け、キュッキュと文字を書いていく。流石は講師をやっているだけあって綺麗に整っている字だ。

「儀礼、というと堅苦しいイメージを持つかもしれませんが、実はとっても身近なものなのですよ。例えば、お正月には台所を閉じますよね。それは竈の神様を休ませて差し上げるためです。また、七五三などは親戚に挨拶をして、寺社仏閣へお参りに行きますよね。それは無事ここまで育つことができました、ありがとうございますという意味を込めてのお祝いです。儀礼とは、そういった我々の、その地方に生きる人々の独自の慣習をいうものと思ってください。」

ですからぜひ肩の力を抜いて…と続けた講師の言葉を遮るものがあった。ジリジリ、ともヂヂ、ともつかない嫌な音と焦げ臭い臭い。ただごみ屑が燃えているようなものではない、もっとひどい臭いをしている。

「あら、すみませんが一番後ろの方。ヒーターの調子を見てみてくださいますか?」

一番後ろ…ああ、私か。その間に資料も配って準備しておりますので、と丁寧にお願いされてしまっては仕方がない。かしこまりました、と一言答えてヒーターをのぞき込む。一見変なものは見えないが、何だかやっぱり焦げ臭い。何か巻き込んでないか、近づきすぎてはいないかと見てみても特に危ない様子はない。しいて言えば加熱部分に黒い筋が入っているのだけ気にかかるが、特に異変とみなすほどのものでもないだろう。長年使っているものだ、こういう黒ずみはよく出る。

「ヒーターの調子はどうですか?」

「うぅん、特に変わった様子はないんですが…少し焦げ臭いので、何かごみでも入ってしまってるのかもしれません。」

「あら、焦げ臭い?」

「あれ、臭いを感じませんか?」

上がりにいる生徒を見やる。その場の誰も臭いは感じないという。…近づきすぎただけだろうか?

「それよりもこの音はなにかしらね」

「音…ですか?」

なるほど確かに、よく聞いてみれば何やら低音で聞き覚えのない音がする。うう、というような音。ジリジリやチリチリならヒーターにありがちな音なのだが…。いったい何なんだろうか。だんだんと気味が悪くなってくる。

講師も横へきて具合を見る。途中で切れたら講座どころじゃないもの、といって丁寧に見てくれた。講師とともにヒーターをのぞき込んだその時、


「やめてやめていたい助けて熱い、熱い!やめて助けて!」


「ひっ!?」

ヒーターから声がした。驚いてとっさに後ずさる。ヒーターからは声ではなく苦悶に満ちた悲鳴が漏れ始めた。それは徐々に力尽きるようにか細くなって、少ししてジュ、という音とともに途切れた。呆気にとられて背後を振り返ると、さすがにこれは全員聞こえたのか全員一丸となって固まっている。

 それから、その日は講座どころではなかった。講師も完全に腰を抜かしてしまっていたし、居合わせてしまったものは総じて顔色が悪い。誰しもがあの部屋、あのストーブの近くにいたくなかった。今日はお開き、と決まってからは全員言葉少なく後片づけをして早々に帰宅した。


 儀礼講座の事件をすっかり忘れる頃、もうすぐ春の気配がする季節になっていた。今日はとても良い天気だ。突き抜けるような青空と、真っ白い雲。暖かくなってどこか気分も浮ついている。道端の花も咲き誇り、古い町並みを合わさって慎ましいながらも風情ある景観を作り出していた。今日は風通りもいいし、ベランダに干してきた洗濯物もよく乾くだろう。

 この町は古い城下町だ。昔からの木造建築が所狭しと建ち並び、細く折れ曲がった道も多い。迷路のようなこの町が落ち着いた雰囲気に守られているようでとても気に入っていた。なので休日は散歩に出かけることが多い。民家の軒先に垂れている木々を見ているとびゅう、と春一番が吹く。ここのところ陽気はいいのだがいかんせん風が強く、乾燥がひどい。空咳がひとつでて、どこかコンビニにでも寄って飲み物でも買って来ようと思い立ち比較的大きめの通りに出た。

…あれ、なにやら焦げ臭い臭いがする。視線の先には人だかりと立ち上る黒煙。…火事だ、そう思った瞬間隣を消防車が駆け抜けていった。近づくべきではないはずなのだが、野次馬根性だろうか。つい足が向かってしまう。

「やあね、ここのところ火事が多くて。」

「気を付けないと、自分のところも危ないわよ。いつ何があるのかわかりゃしないんだから。」

「しっかし酷い火事だねえ。人は無事なのかい。」

「いんや、爺さんが一人中にいたそうだよ。安否不明とは言ってたけどこれじゃあなあ…。でも、噂聞いたか?」

「噂ってもしかしてあれかい。」

「あれじゃああんた、わからないよ。ボケちまったってやつさ。」

「ああ、あのストーブがうんぬん、てやつか。」

思わず足が止まる。

「そうそう、あの爺さん、最近になってストーブに小人がいるからつけられない、寒くてかなわん、とか言っていたらしい。」

「小人?なんだそりゃ」

「それは俺に聞かれても困るよ。でももうボケちまってたってんなら、鍋を空焚きでもしたか、寝煙草でもやっちまったか…。」

いけない、もう立ち去るべきだ。そう思い今度こそ踵を返したその時


「いてえやめろ離せ熱いやめてくれやめて熱い痛い助けてくれ」


そう、しゃがれた男の声で、確かに、聞こえた。何かを考える間もなく、その瞬間全速力ではしって最寄りの寺へ駆け込んだ。


その火事の一件は、翌日新聞の地方欄に載った。近年見ないようなひどい火事で、近隣の家をも巻き込んでしまったらしい。しかし規模にしては死傷者は少なく、

あの家の中でただ一人だけ、老人が亡くなっていたのだそうだ。ストーブの近くで、逃げ出そうとした格好だったらしい。




 …これにて終わりです。それで、どうでしたでしょう。なにか彼女からの伝言のようなものは見つけられましたでしょうか。それぞれ別個でも、すべて通してでも、どうだって構いません。思ったことをおっしゃっていただけたらそれで良いのです。……そうですか、そうですよね、見た本人にだってわからないのに、すみません。

 本日は長々とお付き合いいただきましてありがとうございました。彼女の忘れ形見を披露できたようで、少し浮かれていたようです。時間があっという間に過ぎて行ってしまいました。…そうですね、私もそう思います。彼女は悪い子ではないです、きっと。ああ、もし、もしですが彼女があなた様の夢枕に立ちましたらありがとう、と伝えてください。話をすることで、何かご縁がつながるかもしれませんから——。



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