第32話 デートムービーを覚えているか?

 誘惑術テンプテーションには強度という概念が存在し(俺が名付けて測定した)、レベル1〜5まである。

 レベル1では対象者がヒバナに対して好意を持つ。

 これは実のところ殆ど意味がなく、ヒバナ自身が顔貌とスタイルに恵まれているから術を使うまでもなく大体は好かれる。


 美人に生まれると得をするというのを俺は嫌というほど間近で見てきたわけだ。

 問題となるのはレベル4と5である。


 4は対象の意識を保ったまま操り、5に至っては意識を消してコントロールできてしまう。

 一見すると同じように思えるが4では「死ぬのが怖い」と考えて体が硬直するけど5ではそれすらない。


 発動条件はヒバナの命令を耳にするか、目が合うかのどちらかという非常に緩いものだ。

 どういうわけか男性にしか効かず、男性であるにも関わらず俺には効かない。

 術の定義からすると俺は男でないということになるが、生物学的にそれは否定されている。

 そのおかげで黒薔薇の女への突撃命令に従わなくて済んだワケ。


 つまりカタギリ・ヒバナの誘惑術テンプテーションは「ナツメ・ナツキ以外の男を意のままに操れる」というもの。

 なお強度を増すほどヒバナへのバックファイアがキツくなる。

 4を超えると毛細血管が破裂して鼻や目から血が出し、5を使えば意識が飛ぶ。


 ましてや無差別に術をかけたとなると相当の負荷が発生する。

 これまで経験したことのない反動がヒバナを襲ったことだろう。

 ベッドに横たわる幼なじみを前に、俺は氷嚢ひょうのうを頬に当てていた。


 結局、不浄の薔薇ダーティローズには逃げられている。

 殺し屋に命を狙われて何回助かったのかを考えれば撤退させただけでも上出来だった。

 ジャスコでの大混乱に生じ、どこからか現れた坂口に連れられて俺とヒバナは現場から去っている。


 坂口は俺たちの隠れ家を知っていた数少ない人間で、千葉へ来た日からずっと監視を続けていたらしい。

 有事があった際にはすぐに駆けつけるためだそうだ。

 実際、彼がいなければ気絶したヒバナを運ぶことすらできていなかった。


 正確な位置は知らされていないが俺が今いる場所もカタギリファウンデーションのシェルターのひとつである。

 クルマで着いて降りた途端、坂口に頬を殴られたが甘ったるい処置だろうと笑ってしまった。

 どうせなら鼻の骨くらい折って欲しかった。


 曰く「事が済んだら2度と、お嬢には近くな。疫病神め」だそうだ。

 無理もない。子供の頃からの腐れ縁だ。

 二十歳の頃からずっとヒバナの付き人をしてきた坂口からすれば、俺は心底忌まわしい存在に違いない。


「人生で1番キツイかもしれない」


 病院みたいに清潔な部屋でぼやく。

 すっかり溶けてしまったが新しい氷嚢を用意する気力なんてなかった。

 ヒバナは目に包帯を巻かれ、ベッドの上で静かに呼吸している。


 リリィは拐われ、エルには裏切られている。

 俺だけは擦り傷ひとつ負っていない。

 どうしてだ。


 シチュエーションは違うものの過去に体験した最悪の状況と似ている。

 同僚に闇研を暴露されてアマワをクビになり、有罪判決を受けて嫁とは離婚させられた。娘の親権も持っていかれている。

 今回は同僚の代わりがエルで、嫁と娘の代わりはヒバナとリリィというわけだ。


 あのときは……どうしたんだっけか?

 ドン底だったと思う。

 正気でいられなくなって薬物に手を出した。


 けれどヒバナに拾われ、助けられた。

 なのに俺は何なんだ?

 またドン底に落ちている。


「やってられねぇ」


 ポケットの中からピルケースを取り出す。

 家族ごっこをしている間は一切必要なかったが、今はこいつの出番だ。

 頭をスッキリさせようとを取り出して舌の上で転がした。


 全然足りなくて、それを繰り返すこと3度。

 過剰投与オーバードーズで視界が歪む。

 いっそこのまま心臓が止まってくれれば楽なのに。


 殴られた頬は全然痛まない。それどころか気持ちいいくらいだ。

 目の前には舐め腐った態度でいつも俺を笑っている女が倒れている。

 仕返ししてやるチャンスだった。


 椅子を蹴飛ばして立ち上がり、そいつを見下ろす。

 目に巻いた包帯を剥いでやったらどんな顔をするだろうか?

 ムズムズとした嗜虐が肺をくすぐり、忘れかけていた劣情が蘇ってきた。


 あんなポンコツAIなんて、さっさとアップデートしてしまえばよかった。

 訳の分からないアンドロイドなんて、溶解処分してしまえばよかった。

 果てしない後悔が無数のトゲとなって胃を突き上げてくる。


 それもこれも全部、この女が死にかけていた俺に構ったりしたせいだ。

 ドン底で朽ちようとしていたのに手を引っ張られて、結局はまたドン底を見せられた。

 さぞやおかしくて満足だろう。


 両手をゆっくりとヒバナの首筋に伸ばす。

 大量の汗が噴き出てきて指先が震えた。

 殺すつもりなんてない。ただただ俺に心底失望してくれればいい。


 憎まれ口を叩いたことはあっても、ヒバナに手を上げたことなんて1度たりともなかった。

 これできっと見損なってくれる。

 拾ってやろうなんて気も起きないくらいに。


「……ナツキ君?」


 柔らかい、清涼な声に遮られた。

 いつもの自信たっぷりの態度とはまるで違う。

 俺の手は瞬間接着剤を流し込まれたみたいにピタリと止まる。


「ナツキ君、そこにいるの? 大丈夫だった?」


 喉まで固まってしまい返事ができない。

 宙に浮いた手を引き戻して……俺は自分の頬を思い切り殴った。

 鮮烈な痛みによって現実感が戻ってくる。


「その名前で呼ぶなよ……」

「あ、ごめん」


 上体を起こしたヒバナは目の周りの包帯を外し、こっちを向いた。

 血涙は止まっていたが泣き明かしたみたいに目蓋が腫れている。

 いつもの美人が台無しだった。


「ここは?」

「坂口が用意してくれたセーフハウス」

「あの女はどうなったの?」


「逃がしちまった。リリィも連れていかれたままだ。いいから寝てろ」

「そんな暇はないわよ。リリィちゃんを取り返さないと」

「もういいんだ」


「それは本音かしら?」

「お前に大人しくしてもらうための方便に決まってるだろ」

「安心した」


 枕に頭を投げ出して倒れ、ヒバナは大きく息を吐いた。

 中学生みたいな元気さである。見習いたい。

 俺なんか死にそうで……というか死にたいくらいなのに。


「死にたいとか考えてるでしょ?」

「エスパーかよ。そこまで心読まれると怖いぞ」

「顔に出やすいのよ、あんた。死ぬなんて絶対に許さないわ」


「ぶっちゃけ、どうすりゃいいか分からないんだ」

不浄の薔薇ダーティローズのアジトを突き止めてリリィちゃんを取り返せばいいじゃない。後ろで動いている連中もまとめてやっつける」

「どうやって?」


「それは今から考えればいいのよ」

「成功者のマインドだな」

「私が寝ている間にトウドウたちが動いてくれたみたいね。アマワとの交渉は成功、奴らは下位組織と手を切ったわ。もともと採算性の低い案件だったようね」


 コメカミに軽く人差し指を当てながら、ヒバナは頭の中のドキュメントを読む。

 通信チップを埋め込んでいるとこういうとき便利である。

 俺はオフの時に会社から連絡が入るのが嫌で、挿入を拒否したクチだ。


「そりゃ、俺みたいなくたびれた科学者の暗殺だもんな。ハンコ押してGOした奴の顔が見てみたいよ」

「向こうからも情報が入ってくるようになったわ。下位組織は『僕たち』って名乗っている。現場責任者以外は全て外注だそうよ」

「哲学的な組織名で恐れ入るよ。で、は今度どう動くんだろうな」


「そこまでは不明。潜伏先もわかっていない」

「バーティカルジェットはどこでも着陸できちまうから厄介だ。そういや、フレッドの店の顧客リストってどうなった?」

「それも情報が上がってきているわね。アマワの関係者は1人だけ。アンドロイドの樹脂骨格を製造している外注業者の役員がいたわ。ヒアリングは終わっていて、ゾンビの存在をアマワ側に漏らしている」


 さぞや穏やかでないヒアリングだっただろうに。

 何せヤクザスタイルだ。俺ならゴメン被る。

 漏洩経路は判明してもあまり有用なネタではなかったようだ。


「気になるのはエルがハッキングされたタイミングね。ログを確認したいけど、アンダーネット上に保存されているエル本体にアクセスしたらこっちの居場所がバレる可能性もあるし」

「クルーザーで逃げようとした時点ではハッキングされていたと思う。晴海埠頭に集合するって情報が漏れてたからな。しょっちゅうネットワーク遮断を繰り返してたし、狙ってやったんだろ」

「船橋市に潜伏していてもすぐには襲ってこなかったわよ?」


「準備とタイミングの問題だろう。ジャスコでの襲撃は万端って感じだった」

「アマワ本社の協力で、の現場責任者のプロフィールも入手できているけど見る?」

「頼む」


 部屋に備え付けの立体ディスプレイが起動し、何とも奇妙な出で立ちの男が映し出された。

 軍服に似た詰襟姿だが装飾は無く、大昔の学ランみたいだ。

 しかも顔はマスクで隠していて髑髏が描かれている。


 こんなに分かり易い悪役面もそうそういないだろう。

 センスに関しては黒薔薇の女に通じるものがある。

 もし街中で見かけたら通報しそうだ。


「アマワの社則も随分と緩くなったもんだな。こんな格好で出社したら守衛のアンドロイドに止められるだろ」

「普通はリモートワークじゃないの?」

「高価な機材は会社にしかないし、家よりも仕事が捗る」


「まぁ、あくまで下位組織の構成員という立ち位置ね。巨大企業にありがちな汚れ仕事専門のよ」

「いつでも切り離せますってことか。哀れなコスプレサラリーマンだなおい」

「名前はサクラギ・タイガ……だって」


 鈍い痛みが頭の奥を走る。

 2度と聞きたくない名前だった。

 自分でも顔が強張ったのが分かるから、ヒバナにはさぞや動揺しているように映っただろう。


「いつからサクラギはダースベーダーになったんだ?」

「暗黒面に落ちたんでしょ」

「ナイトって柄じゃなかったけどな」


 中学生の頃、一緒に観た映画のネタがちゃんと通じた。

 スペースオペラの古典的名作だったが当時のヒバナにはウケが悪かったと記憶している。

 それにしても、なんてんだ。

 

「なぁ、ヒバナ。敵のボスと俺が対面することになったらブン殴ってもいいよな」

「好きにしなさい。リクエストしてくれればライトセーバーも用意してあげる」

「いらん。自分の腕を切り落としそうだ」


 サクラギ・タイガ。

 俺の後輩で、俺の人生最大の裏切り者だ。

 こいつと一緒にはじめた闇研究なのに、こいつに内部告発されて俺は破滅したのだから。


「最悪だ」

「口癖になっているならやめたほうがいいわよ。不幸を呼び込むから。どうせなら『エブリデイハッピー』とでも言いなさい」

「イヤだよ。それハッピーマウスのセリフだろ」

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