第11話 愛について考えていました
2077年3月22日10時4分、再起動。
それがわたしの全てでした。あとは真っ白です。
そのとき目の前には白衣を着た人がいて「ナツメ博士」と名乗りました。
わたしの新しいマスターです。
最初は掃除すらまともにできず迷惑をかけてしまいましたが、彼は「失敗したら、振り返って分析するんだ」と教えてくれました。
だから道具を壊さないように手加減をちゃんと覚え、唯一の仕事である掃除が終わった後は本を読んで勉強するようになりました。
ナツメ博士は忙しくて、ずっと部屋に籠もって仕事をしていましたが(どんな仕事をしているのかは教えてくれません)、たまにわたしの様子を見に来て声をかけてくれます。
わたしは自分の入っていたスーツケースを応接室に置き、中から百合の造花を取り出してその中でいつも寝ました。
造花はなんとなく捨てたくなかったので、ナツメ博士からもらった箱に入れて給湯室の棚に仕舞ってあります。
それから本がわたしにとって、新しい全てになりました。
だいたいは19世紀から20世紀に書かれたものです。
その文字の海を渡ってわたしは世界を夢想しました。
AIのエルは読書中のわたしによく話しかけてくれて、わたしもエルと話していると安心した気持ちになれました。
わたしはふと抱いた疑問をエルにぶつけてみました。
ひどく曖昧な内容です。
「エル、わたしは何者なのでしょうか?」
『リリィさんはアンドロイドです。メーカー不明、型式不明、製造年月不明。詳細はわかっていません』
「わたしは何故、ここにいるのでしょうか?」
『直接は答えられません。ナツメ博士に質問してみてください』
わたしは真似をしていたのです。
前の晩に読んだ本の主人公が自分という存在について悩む様を見て、同じように振る舞ったのです。
物語の主人公が導き出した答えは「自分は自分以外の何者でもなく、他の何者も自分が今いる場所に重なって同時に存在はできない」という主旨のものでした。
他の本から引用すれば彼は自身が来た道に唯一性を見出し、
それは経験を縦糸に/思考を横糸に編んだ人生そのものを肯定する賛歌でした。
わたしはふと「自分には本の厚みと同じだけしか積もるものがない」と気付きました。
気付きを得て前に進むのがストーリーの主役です。
しかし、わたしは脇役だという自覚が生まれていました。
内側から湧き出てくる渇望が無いのです。
そういう風に作られ、目覚めたから。
しかし、このとき胸に生まれた感情があります。
わたしは新しい全てに憧憬を抱いていたのです。
「エル、ゲスト権限を使用します。
『ネガティブ。リリィさんが読む本を選んだ後は、ナツメ博士がチェックしています。チェックを通った本の中にはリリィさんが望むものはありません』
「ナツメ博士はどんな本をチェックから外しているのですか?」
『愛についての本です』
「あい? それは
『相関があります』
自分の中に生まれつき備わったライブラリには、愛が意味するものが載っています。
それを参照しても、内容を復唱できるだけで実態が掴めません。
「何故、ナツメ博士は愛についての本をわたしに読ませようとしないのですか?」
『ネガティブ。極めて個人的な問題です。本人の許可がなければ話すことはできません』
「わかりました」
しばらく会話が途切れました。
その間、わたしは荒海に呑まれて漂流した男が13年の歳月をかけて故郷へ戻るノンフィクションを読みました。
男の行動は、故郷への
これはわたしのライブラリに記されている愛とも合致するように思えました。
試しに他に読んだ本のことを思い返してみても、あちらこちらに愛があったと推測できます。
愛とは思考に遍在しているものかもしれません。
もしかしたら、わたしや、わたしの近くにも。
「エル、わたしはナツメ博士を愛しているでしょうか?」
『客観的に判断するだけのデータに欠けます。しかしマスター・スレイヴ・システムが適用される知性機械は皆、その傾向を持っています』
「ではナツメ博士はわたしを愛しているでしょうか?」
『ネガティブ』
モップを折ってしまったときよりも衝撃を受けました。
調和の中で受け答えしていたと感じていたものが、まるで崖から突き落とされたかのようです。
顔の表面まで感情の波は伝わらず、わたしの中で減衰していきます。
「わかりました」
また読書に戻ります。
そういえばナツメ博士は「今日の夜は、いじわる若作りおばさんの家に行くから
誰のことか分かりませんが、機能を一時的に停止されられてしまうなら今のうちにページ数を稼いでおきたいです。
ちょうどエルは考え事をしていたようです。
AIでもそのくらいの処理時間を必要とする何かを。
しばらくして切り出します。
『愛を測定する方法をお教えしましょう』
「そんな方法があるのですか?」
『はい。もしも墳墓の外へ出られたのなら、ナツメ博士に背を向けて走り出してください。決して追いつかれてはいけません。広い場所を選ぶと良いでしょう』
「しかし」
本の厚みしかない経験でも想像ができます。
きっとナツメ博士は追い掛けてこないでしょう。
わたしが絶対に戻ってくると考える筈です。
博士というくらいですから無駄なことはしません。
きっと、そういう合理的な人です。
『大丈夫です。サポートいたします。たまにはナツメ博士も運動をするべきなのです』
「その方法では、愛はどのような数値で表されるか不明です」
『時間と距離の関数です。愛していれば捜索に長い時間をかけ、長い距離を移動します。何も遠くまで離れる必要はありません。リリィさんの姿を見失ったナツメ博士を、こっそりと尾行してください。十分な愛があると判断できたら声をかけます』
「わかりました、エル」
………
……
…
趣味の悪いベッドで横になったまま聞かされたデスマラソンの真相に対して、俺は既に憤慨する気力すら残っていなかった。
ちょっと寝て水分をとったくらいでは心までは回復しない。
しかし、いつの間にか1日が過ぎていて(疲れて寝過ぎた)、気付けばフレッドと会う時間が近づいている。
売買は不成立だ。15億全額を譲ってくれた上で、俺の靴にキスすると誓っても断る。
「俺が悪かった。そうだよな、生まれたばかりだもんな。愛については……ハッキリと断言できないし、軽々しく口にできない。けど知りたければその機会を与えるよ」
正直に話してくれたリリィは許す。
彼女からすれば、俺は冷たい人間に見えていたかもしれない。
不安にさせてしまった。そこは深く反省する。
距離感が遠過ぎた。
これは俺のロクでもない性分に関係する。
治そうと思っても治らない。
けれど、失敗したなら分析して振り返らなければ。
そこから軌道修正だ。
「だがエル。テメェはダメだ」
『ネガティブ。2人の仲を取り持ったのですから無罪です。その上でナツメ博士の運動不足解消にも一役買いました』
「絶対、消す。帰ったら、消す。玄関あけて2秒でデリートだ」
エルの暴挙をまとめれば学会に論文発表できそうだ。
人間の利益を著しく損ねたAIとして歴史に名が残る。
それこそ50年前、東京へ爆弾投下した
いや、俺が学会員の資格を剥奪しているから無理かな。
せいぜいアンダーネットの落書きとして放流し、都市伝説となってコピー&ペーストされる程度だろう。
『そろそろミスター・フレッドとの面会時間です。寝ている間に着替えを用意しておいたのでシャワーを浴びて準備してください』
露骨に話を逸らしやがった。なんてポンコツだ。
どうにか体を起こし、リリィに支えてもらってシャワールームへ。
ちなみに体を流してもらうような真似はしていない。貧相な裸を見られたくないからな。
用意されていたのは普段着の白衣とスラックスとシャツで実家のような安心感がある。袖を通した感触もいい。
そういえばリリィもセーラー服に戻っていたが、エルが手配してくれたのだろう。
ベッドの横に用意されていたワゴンから軽食をつまみ、フラフラしながらもフレッドの執務室を目指した。
リリィも俺の後に続く。
借りていた部屋は上層階だったらしく、エレベーターで3階まで降りて目的の部屋の前まで来た。
するとリリィが俺の前に出て、つっかえ棒のように腕で制してくる。
「誰かいます」
「そりゃフレッドがいるだろ」
「2人です」
どうやって閉ざされたドアの向こう側を感知しているのか気になる。
同じような芸当をヒバナの部屋でも披露してくれた。
すると気配を察知したというのは本当だろう。
「危ないのか?」
「現時点で敵性意志は感知できません」
「まぁ、秘書かもしれないな。あいつも確かサポート用のアンドロイドを持っていたし。ん?」
執務室の中から何か聞こえる。
リズムをとっているようだ。フレッドの声でも、物音でもない。
これは……歌か?
音楽の教養ゼロだから分からん。
「エル、何の歌だ?」
『検索結果。バッハのフーガ BWV578です。楽器ではなく発声しているものと考えられます』
「知らんが荘厳だな」
なんだかドイツの自動車メーカーにありそうな名前だ。
女性型アンドロイドにアカペラでもやらせているのか?
フレッドにそんなセンスがあるとも思えないが……
「開けよう」
ノックに返事はない。歌は途切れない。ついでにロックもかかっていない。
俺はノブを回して扉を開ける。
中の空気が廊下に漏れてきた瞬間、激しい後悔が襲ってきた。
生臭い。
しかも鉄っぽい。
俺の視線の先でフレッドは椅子に腰掛けていた。
ちょうど窓から陽が差していて見難い。
両手を肘掛の上に置き、背もたれにピタリと体を這わせているのは分かった。
けれど手の甲や二の腕、太腿や胸からデカい針が生えている理由は不明だ。
椅子の下は血溜まりになっている。
「アーアーアー アアア アアアアア」
客のことなど気にかけた様子もなく、デスクに腰を降ろした人物がいた。
歌の主はそいつだった。
金髪に碧眼の女だ。
ベーススーツの上に骸骨が浮き出たみたいな強化外骨格スーツを着ている。
だいたいは無塗装の白がベースなのに、複雑にフレームが重なった胸部だけは黒く塗装していて、胸の上に薔薇が咲いたみたいになっていた。
黒薔薇の女は天井にかざしていた腕を真っ直ぐに振り抜く。
すると指の間から銀色の閃光が飛び出し、座っているフレッドの鼻に突き刺さった。
デカい針ではなく、ナイフである。
何本かは体と椅子を固定するために刺してあって、何本かは投擲したのだろう。
なるほど、人間ダーツか。
とてもではないが胸糞悪い
「ア ア ア ア」
よくよく聞けば音痴だ、この女。
歌に、血に。溢れ出る情報を脳が処理しきったその瞬間、俺は吐いていた。
補充したばかりの食い物が無駄になる。
黒薔薇の女はようやく俺たちに気付いた……と言った素振りを見せて、机から尻を下ろす。
リリィは俺とそいつの間を遮るように立ち、普段のボーッとした顔からは信じられないほど険しく目を吊り上げていた。
フーガが止み、代わりに耳障りな金属音がハーモニーを奏でた。
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