夜の体温

名が待つ

夜の体温

 光に透けた黄金の産毛をみる。繊細で柔らかな穢無きもの。ずっと見ていたら目があって笑った。細くなった目がかわいかった。渡された煙草を口につける。同じ煙を吸った。同じ口紅をつけた。とても、甘い匂いがした。


・蜜姫

「うぅ……寒っ」

 もう一枚着てくれば良かった。この時間の外は、いつだって寒い。ビルの合間にはまだ朝の光は射さない。グラデーションは確実に暗から明へ。その薄らぎの過程で空は黒くないと気がつく。青く、より濃く、深く。紺色ってやつ?

「あっ! またここに居た~。そんな格好じゃあ冷えるよ~。はい、マフラー貸したげる」

 ミツキから手渡されたモコモコのマフラー。予想以上の体積で視界の大半が覆い隠されてしまった。きっと今のわたしの外見は間抜けなことだろう。半袖のメイド服に頭を覆い隠すマフラー。季節感もまるで分からない。まあ裸になってしまえば何も関係ない。コスプレ好きの男は多いが、どうせ脱ぐのに何の意味があるんだろうか。そのままも意味分からんが。ほんと洗濯に困る。

「匂い、付いちゃうよ?」

 吐く白い息がマフラーを通過していく。

「ん? いいのいいの。どーせわたしも吸うしね」

 ミツキは外で煙草は決して吸わない。「ふわふわ天然巨乳少女」ーーキラキラのフォントが踊る時代遅れなホームページ。作り出した性のシンボルに彼女は縛り付けられているのか自ら縛り付けているのか。

 周りより一段低いビル。その屋上に私たちは今居る。大きくはないが、休息に十分な空間。手すりは錆び、植木鉢も枯れ枝の埋まるばかりだけど、軋むベッドの上、見慣れた天井では得ることのできない開放感がここにはある。

「わたし寒いから先中入るね。指名予約入ってるし」

 ついぞミツキは座ることなく、屋上を去って行った。あの子は結構私を気に掛けてくれる。好き。「帰りました~」鼻から抜けたような甘ったるい声をスチールのドア越しに聞く。

「あんまし……」

 あったかくない。見た目ほど。それがミツキらしいと言えばそう思えた。繊維の束の重なりが体積を大きく見せるーーフワフワ。だけど本当は穴だらけで。細密に、裏から見れば全然違う表情を見せるーースカスカ、じゃない。空虚ではない。息を吸って、吐いて、吸って、吐いて……、生きるための穴だ。途中でこびりついたヤニは決して見せない。みんなそんなものでしょう?リバーシブルみたいにはっきり分かれてたりしちゃうんでしょう?裏返ることなんてないけれど。あ、毛玉。

 携帯を開くともう「」時だった。ストラップが揺れる。ぬいぐるみのそれぞれの目が様々な方向を向く。脳天から吊された彼らが反旗を翻す様子を妄想する。そんな有るか無いかも分からない怨念も含め、もうこの重さには慣れた。手首超絶強化ドヤ。

「冷たっ!」

 そりゃあ冷えるはずである。長ったらしく意味無く考え込んでしまった。いつだって私が私に語りかける言葉たちは偉そうで、堅苦しく物を言う。考えているときはいつだって自分だと、自分の考えだと思えるし自信が揺らぐことはない。後になって恥ずかしさと空虚さが一緒になってやってくる。

 ビルの合間を通り抜ける風がその勢いをさらに強めて皮膚をかすめる。煙草の煙が流れていく。先が短くなって仄かな暖かさを指に感じ始めた。大きく吸い込んで残る火をかかとで踏み潰した。グリグリ。緑色の床が黒く濁る。


 ベッド脇のランプだけが照らすゆるやかな空間。さっきまでの熱い息がまだ天井あたりに漂っている。火照っていた余韻に浸っている。手だけが冷たい。何故なら……

「今日はどうだったの?」

 シーツが擦れる音がしてミツキがこちらを向く。ミツキの手は冷たい。どんなに夢中になっても手はずっと冷たいまま。とても気持ちいい。そして第二関節の膨らんだところで握る。痛い。私の熱を伝えようと強く握る。私だけが汗ばんで、ミツキの肌を濡らして一筋の汗が滑っていく。私は天井を向いたまま、今日のシゴトを思い出す。

「よかったんだけどさ、叩かれて痛かった」

「大丈夫?」

「うん、今は。最初ペチペチって感じだったのに途中から調子乗りやがってさ。往復ビンタ? わかんないけど骨が当たんのよ、往復してきたとき」

 ミツキの手が頬に触れる。ひんやりとした冷たさがやっぱり心地よくて、目を瞑って自分の手を重ねる。

「痛いの……とんでけ」

 ミツキが寄ってきて頬に口を近づける。そっと唇が触れて私は安らかな眠りにつく。


・父

 父は色狂いだった。

 母とはお見合いで結婚したそうだ。

 父の外での評判は非常に良かった。大学教授で生徒のウケもよく、紳士な人だと地域では有名な人だった。

 しかしあまりにも情事が好きすぎた。

 毎晩帰りが遅かった。夜の街を渡り歩いていた。店以外でもたくさんの女性と関係をもっていた。母は知っていたし、二人の食卓で嘆くこともあったけれど家族であることは

そのまま続いた。父も私を愛してくれていたし私も大方父を好いていた。

 父の性への欲求は留まるところを知らず、日に日に大きさを増していた。母は知らなかったが、教え子にも手を出していた。私がそれを知るところなったのはその相手が、親友だったから。

 父が教鞭をとる大学に私とその親友は通っていた。いわゆる幼馴染といえる関係で小さい頃から私たちは共に育ってきた。家族間の関係はほとんどなかった。ある休日に父が「〇〇ちゃんかわいいね」と言った。たしかに父の研究室で親友は紹介した。そして親友の名前が父の口から出た時に察してしまった。しばらくして親友からそれを仄めかすようなことも聞いた。紹介したその日の夜からだった。

 一年生の冬、父はやってしまった。変わらず教え子との関係を広げていた父は、それが、明るみに出てしまった。父を最早愛してしまっていた親友が、父を、許せなくなってしまったのだ。私には何も言わず彼女は飛び降りた。遺書が彼女の両親によって発表された。父は教授を辞めざるを得なかった。

 母は泣いた。母は消えた。私を残して消えた。家が汚くなった。父も汚くなった。しかし父の欲望は変わりなかった。父は私を女として見るようになった。

「〇〇さん、色狂いらしいわよ」

 父のために買い物をしてきた帰り、聞こえた近所の人の話声で私は色狂いという言葉を知った。


・優希

「カラオケいかない?」

 夜の繁華街の明かりてユウキの顔はよく見えなかった。私より頭一つ分高いので必然見上げる形となる。

「いいよ。オール?」

 今日の飲み会にユウキの彼女は来ていなかった。彼からの「二人きり」という誘いに何か起こってしまうのだろうと思った。ユウキがみんなに手を振り歩き出す。私も遅れて付いていく。十分離れたところでコートが翻った。手と手を繋ぐ。ユウキの手は暖かくも冷たくもなくて、少し気持ち悪かった。


 手が薄い壁に当たる。痛い。カラオケのトイレはとても狭くて事を成すには不向きだった。ユウキの舌が唇を割って入る。見た目に不釣り合いな強引な侵入。口内をなぞり互いの舌を絡ませる。下品に汚く熱く。少し酩酊してトリップ気味で視界が揺れている。「とろんとしててかわいい」とユウキが言う。何か言おうとしたけその前に唇を塞がれる。そのまま露わになった胸へと彼の舌が下りていく。口に含まれた突起が固くなっていく。私は手を彼の後頭部に回してゆっくりとその髪を撫でた。さらさらのボブ。少しも汗ばんでいない首筋に爪をゆっくり食い込ませた。

「痛い」

 手がトイレの壁に押し付けられる。それが力強くて少しもえた。下腹部を押し当てる。ユウキがベルトを緩めた。私は声が聞こえないかどうかちょっと気にした。


 洗濯を取り込む私の背中にユウキの声がかかる。

「大学生ってさなんでこんなに"する"んだろうね」

 私が返事していい感じではなかったので黙っていた。靴下の片方がない。

「たぶんさ、ほら大学生って若いじゃん? 動物的に生命力溢れるピークじゃん? だからさ自然に身体が求めてるんだと思うんだよね、性を。ってことは俺らって今めちゃくちゃちゃんと"動物してる"よね? 当たり前に動物としての人間的生活を送ってるよね?」

 確かに性行為は気持ちいいし好きだけれど、正直それを正当化するのは吐き気がしていた。当たり前にするなと。私はユウキの事を好いていなくはないけれど、彼のそういうわかったような口調がひどく鼻についた。顔はいいしセックスもうまいけれど嫌だった。所詮性のはけ口として女を見ている男なんだと思った。私は暫くして引っ越した。ユウキには何も言わなかった。もちろんもう鍵も渡さなかった。


・ヨル

 ヨルはいつのまにか居た。

 もちろん初めは何事も突然なんだろうけど、彼との日々はあまりにも心地良くて、どこから始まったのか分からなかった。

「うーちゃんシャンプー変えた?」

「分かる? 同じところのなんだけどね匂い変えたの」

「この匂いすき」

 彼が髪を取り嗅ぐ。ヨルはなんでも分かってくれた。抱き合ったし髪も撫でたし同じところで寝た。未だに清い関係だったけど私たちはほとんどの時間を一緒に過ごすようになっていた。このワンルームに何回来たかも思い出せない。どちらも親との関係は希薄だった。自分のお金で生きていた。多くの同世代とはあまり気が会わなかったのも同じだった。たくさんの若さゆえの疑問を話して、語って、たくさんの夜を朝まで過ごした。

「好きってなんだろうね」

 ヨルがベランダに出てきた。カラカラカラ。後ろ手に窓を閉める音がする。私の口から吐かれた煙が夜になびいていく。ヨルは煙草を吸わない。

「私もないんだよね。好きって気持ち。今までも、そしてこれからも多分ない」

「僕も。なんか大学行ってるときはみんな顔だとか身体だとかセックスだとか言ってたけど。もちろん中身って言う人も居たよ? でも実感できないよね。自分ではない他人をどうしてそんなに思えるんだろ」

「自分の足りないところを他人に求めれるんだよたぶん。もしかしたら自分は違うって思ってる私たちが他人を信用できないだけで、みんなの方が寛容性に優れてるのかもしれないけれど」

 二人で笑いあった。正しさとか正解とか分かるわけない。あるのかも分からない。私たちの世界だから私たちが考えるこの瞬間が全てなのだ。


 シゴトが他人との接触だからそりゃあ嫌な事もあった。辞めたいほどの事もあった。でも世界をそんなに知らない私にとって、性の場所が一番ふさわしいように思えて、そもそも変化も求めてなくて、やっぱり毎日は変わりなかった。

 ヨルがやって来て二人で一緒に映画を見た。ヨルの手は私のアタマの上にあり、私の頭はヨルの膝の上にあった。私は酔っていた。シゴトの嫌なことが離れなくて、家に帰ってもシゴトのスイッチを切らしてくれなかった。起き上がり手を伸ばしヨルの反対の頬に触れる。ヨルが「?」って顔でこっちをちょっと見て笑う。身体を寄せ手を下に伸ばす。

「うーちゃん?」

 ウサギではない。蛆のうー。汚いからそう名付けた。嬢日記には蛆とは書かせてくれない。私の手は止まらない。身体のラインに手を沿わせ男のすぐそこまで迫る。到達の瞬間、手首を強く握られた。私は我慢ならなくて押し倒そうとする。ヨルは抵抗して、でも甲斐なくて二人一緒に大きな音を立ててもつれ合った。

「うーちゃん?」

 ヨルが私の床についた手を握っている。それはそんなに強くなかったけれど私は手を解けなかった。私は分かってしまっていたけれど聞かずにはいられなかった。

「嫌なの?」

 テレビだけが光る部屋。ヨルの眼差しが星のように暗闇で輝いていた。ヨルの頬に滴が垂れる。ヨルがゆっくりと視線を逸らした。

「男……なんだ。僕の性の対象は男なんだ」

 そのままヨルはそもそもあんまり性を意識してない、セックスが好きじゃないと言った。受け入れられなかったとき、私は好きを認識した。ヨルの事が好きだった。でも、でも、性を共有できないことは私の中ではとても悲しいことだった。悲しくて悲しくて泣いた。一つにはなれない。それがこんなにやるせないことなんだと知った。


 その後も変わらず夜は訪れて、変わらず朝はやって来た。日の差す部屋でヨルが眠ってる。片膝を抱えてカーテンの隙間から除く光に目を細める。私の名前は朝陽。夜とは決して交われない。でも夜の一番近くにある。

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夜の体温 名が待つ @takumiron

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