008. acquire
活動電位が、発生する。
神経をすり減らして厳密に計算した分の量だけアセチルコリンが、ドーパミンが放出される。脳細胞の代謝向上による活性促進。神経細胞間の連絡が円滑になり、覚醒状態となった脳は膨大かつ高速の処理を可能にする。アドレナリンで爆発的な力と速さを得た筋肉の操作も。五感の細微に渡る掌握でさえも。
それ故、テオドールの周りの景色は、彼が認識するよりも動きが遅い。欠伸が出るのではないかと思う程に、遅い。今やテオドールを包む時間は、粘度を増した高密度なそれである。
改めて、テオドールは自身の目の前に広がる“光景”を見る。
グルカナイフを握った侭の手首が落下することの、なんと緩慢なことか。未だ血潮を噴かぬ切断面の、なんと鈍いことか。
そして、己の身に起きた悲劇に未だ反応出来ぬ黒髪赤眼の男の、なんと哀れなことか。
だが、侵入者たる男が何もできないのも無理はない。刹那に起こった衝撃的な出来事――ヒトはそのような場面・状況に直面すると、思考が混乱し、動くこと能わず反応できなくなる。現に、“手首を切り落とされる”という危機的状況に曝された煉は何のレスポンスもアクションも起こさない。
テオドールの如く超覚醒した思考でも持たぬ限り、或いは、
お気の毒に、と同情の皮を被った
「
思考だけが加速する極超集中状態の最中、テオドールは勝利確定の至福に酔いつつ、別れの言葉を口にした。
最期の一撃を加える獣の眼光、その輝きを二つの紺碧に宿らせて構え直すは短剣。瞬間ふと見上げた先は――茜色の、
「獲った、とでも思った? 残ァン念、
闇夜に尾を引くテールランプの如し、二つの暗赤色。平然とした、
油断した。テオドールは歯を噛み締める。慢心の所為で、煉の右腕、その切断面そのものを詳しく見ることを怠ったのだ。近年の機械義体に用いられる人工筋肉や人工骨格などは、非常に
相も変わらず、煉は不敵に笑う。何か奥の手があるのかとすら感じる振る舞いだが、現状はテオドールが圧倒的優勢。未だ時間は拡張を続け、真の臓腑目掛け繰り出された短剣の突きは既に、瞬きの後、煉の体を貫く距離にある。恐らく
だが。
粘ついた時間の流れが、在るべき速さを一瞬取り戻す。短剣から左手に硬い衝撃が伝わったのだ。
肉を貫いた感触とは異なるそれに刮目、思わず手元を見た。
立ち昇る黒い煌めき――
勝ち戦になるだろうという安心、その安堵の揺り籠から絶望の淵へと叩き落とされ動揺に睫毛を震わすテオドールとは対照的に、悪魔の色をした男は益々口角を吊り上げる。
「残念だったな、」
すう、と割れた口元から覗いたのは、鋭い犬歯。
「ジャスト百秒だ」
告げながら構えられた煉の左手に、いつの間にやら握られた目映い
テオドールが
視線の射貫きに一拍遅れ、「
裏の世界で飛び交うありふれた噂話、その一つ。それでも、テオドールを納得させるには十全。
――
青い瞳が最後に見たのは、銃口と共にこちらを見据える“
***
静かに軋みながら、部屋の扉がゆっくり開いた。
崩れ落ちた侭に膝を抱えて
「そうがっかりした顔すんなよ」
卑しいにやつき笑いを湛えたその人物は、パンタレイを突き飛ばしたあの男であった。
ぎゅうと己を守るように強く膝を抱き、怯えと不信を露骨に呈するパンタレイにも構わず、男は大股でゆっくりと近づいてくる。
「侵入者が出たらしいがな、テオが迎えに行ったみたいだ。心配しなくてももうすぐ片付く。色々な」
パンタレイの小さな足の直ぐ前で立ち止まり、男は「その侵入者とやらがお前の救助隊だったなら、ご愁傷様だな」と鼻を鳴らし、嘲笑する。
頭上から降る絶望にも似た言葉。差し込んだ一条の光が消えた可能性があるのかという思いが過ぎり、眉間には悲痛の侭に皺が寄り、思わずきゅっと噛み締める下唇。
終わった。正確には“終わったかもしれない”のだが、助かる可能性は未だ限りなく零に近い。
失望の淵、いよいよ紫水晶の瞳が揺れ始め、今にも涙が零れんばかりの潤みを見せる。十三歳というまだ幼い心身が、何故
「テオは『丁重に扱え』だの抜かしてやがったが、多少は仕方ないとは思わないか? なあ」
パンタレイの様子を意にも介さずそんな疑問を投げかけながら、男はしゃがみ込んだ。パンタレイのモカブラウンの髪が掴まれる。腕で隠すように伏せていた顔を無理矢理上げさせられ、かち合う視線。
途端、男の顔に浮かんでいた笑みが深めたのは、淫虐の色。男の目に
全身を打つ痛みに悶絶する暇もなく、男がのし掛かってくる。屈強な体を押しのけるように腕を夢中で動かしたが、抵抗も虚しく、右手一つで彼女の両手は頭の上に纏めて押さえつけられてしまった。これまで知りようもなかった餓狼さながらのぎらつきと荒い息が、無性に恐怖心を煽る。泣き叫ぼうにも出来ず、拘束から抜けだそうにも敵わない。
フリルがあしらわれたブラウスの襟ぐり。そこに男が骨張った左手を掛け、力を込めようとした、瞬間――。
立て続けに三回鳴り響いた銃声。一秒弱置いて、ぐらり、と男の逞しい体躯が横に倒れる。
その四メートル程後方。入り口に細身の、然れど獣のように引き締まった黒の影があった。
「俺、参上! ってな」
銃を構えた侭、呆れたように長身の影は続ける。
「レイピアの次はレイパーかよオイ」
更に「あーあ、しかもロリコンとかまるで救いようがねーな」と、どうしようもないとでも言いたげな溜息を吐いてから一転、にっ、と口角を上げ、
「迎えに来たぜ、
影――三春煉は、パンタレイの名を呼んで、頼もしそうな悪戯笑いを浮かべて見せた。
***
突如降って湧いた救済に戸惑い、おたおたしている少女。その上に乗った侭の男の足を退けながら煉は言う。
「君ンとこ偶に便利屋みたいなの使うって話、聞いたことあるんじゃねーの? それが俺。で、『騒ぎになるから軍とか今すぐ動かすのはちょっとねウフフ』みたいなこと言われてさー、俺が来たのよ……っいしょっと」
少女の矮躯から男を退かし終え、仕上げにその体を脚で三回程押すようにして自分たちから離しておく。煉はまるで一仕事し終わったかの如く(実際一仕事も二仕事もしていたのだが)息を吐き出しつつ、パンタレイ――リーゼロッテの方を見た。警戒はされていないらしい。というより寧ろ、味方以外の何者でもないと思われているようで、緊張の糸が切れて安堵しているらしかった。これで俺が敵だったら終わりだぜ、と煉が思ったのは言うまでもない。そんなこちらの心情など露知らず、少女は頼りなげに立ち上がりつつもぺこりと律儀に頭を下げ、口火を切る。
「 、 、 ――パンタレイ 。 、 ―― ?」
思いがけない事態に、煉は戸惑いの声を上げかけた。
リーゼロッテの仕草は言葉を発す以外の何ものでもないが、彼女の<double>ID</double>である
そうか、と煉は合点が行ったように一瞬だけ虚空に目を遣り、視線を再びリーゼロッテに戻す。
「君の『代償』は、声か」
それも恐らく、<double>ID</double>や
こくり、と肯定の意を示した少女の顔。こちらが感傷に浸っていたのを悟ったか気遣いの色が見られ、その眉根は悲し気に寄せられていた。それをどうにか振り切ろうと、懐っこい黒猫の微笑を浮かべてみせる。
「悪い悪い。それより君のさっきの質問なんだけどさ、『君自身』を助ける為に決まってんだろうよ」
言って、少女の小さな頭の上にぽんと手を載せた。
読唇されていたことや急な話題転換に驚いた少女は一瞬目を丸くしていたが、じわりと嬉しさを口元に浮かべ始め、安心したかのように瞳を少し細めた。緩やかに波打った髪をくしゃくしゃと撫でてやる。
「じゃ、帰ろうぜ」
と、煉がリーゼロッテに笑いかけ、彼女が頷きかけた、その時。
二人の背後で、ばちり、と青白い雷光が爆ぜる。
即ちそれは、何者かが
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます