第2話 異世界へ

その後の俺は仕事中ずっと曇った気分のままだった。元々雰囲気が悪くて殺伐としていた職場だったが、より一層暗くなった感じがした。


早く家に帰りたいと思っていたが、こういう時に限って残業時間が長くなる。


俺は気力を振り絞って、へとへとになりながらも何とか仕事を終わらせた。そして、すぐさま駅へと向かった。


駅のホームは朝と変わらず黒山の人だかりで、人が全く動けない状態だった。


電車はまだ復旧してないのか。帰りもバスに乗って帰るしかないな。


バス停に行くとちょうどバスが到着するところだったので、すぐにバスに乗り込むことができた。


俺はバスの前の方の席に深く腰掛けてうなだれた。


「はぁ……今日も疲れたな……」


今日一日の疲れがどっと吹き出す。


仕事は大変だ。だが、いきなりの給料30%カットでテンションが下がったまま仕事をこなすのは本当に厳しい。


顔を上げて運転席の方を見た。バスの運転手は頭を不規則に揺らしている。かなり眠そうだ。


もしかしたら今日の混乱で休憩無しで運転しているのかもしれないな。かわいそうに。


俺も眠くなってきたな。少しだけ眠ろう……。


目をつむろうとしたその時、バスの車体に軽い衝撃が走った。


ドンッ……グチャゴキィッ!


うぉぉっ! 嫌な音がしたぞ。


さらに俺の体が前の方に持ってかれた。急ブレーキを踏んだらしい。


バスが完全に止まった。運転手が慌てた様子で外に出ていった。


嫌な予感がする……気になるな……。よし、外に出て確かめてみるか。


外に出ると、道路の端でバスの運転手が頭を抱えているのが見えた。運転手の目の前には人の大きさぐらいの赤黒い物体が転がっていた。


人を轢いてしまったらしいな。あのぐちゃぐちゃ具合だと被害者の人は生きてはいないだろう。


運転手はなにやら訳の分からないことをつぶやいている。気が動転しているようだ。無理もない。人を轢き殺してしまったら一発で免停だ。仕事を続けることはできない。


運転手の様子を見ていると少し心配になってきたので話しかけてみることにした。


「あの~、救急車はもう呼びました?」


運転手はこちらを無視したまま、ぶつぶつとつぶやき続けている。相当ショックを受けているのだろう。


「被害者の方はこんな状態ですけど、一応救急車を呼んだほうがいいですよ。救急車を呼んでいると罪が軽くなるらしいですから」


運転手が顔をゆっくりとこちらに向けた。


「……救急車を呼ぶ金なんて持ってないよ。今月はもうお金がないんだ」


「そういえば救急車を呼ぶとお金がかかるんでしたね……」


少し前から緊急通報するとお金を取られるようになった。社会保障費の足しにされるらしい。確か一回救急車を呼ぶと一万円かかるはずだ。


「仕方ないですね。じゃあ俺が救急車を呼びますよ」


俺はスマホ上の緊急通報のアイコンをタップした。


ふと運転手のほうを見ると、懐から何かを取り出しているのが見えた。小瓶のようだ。中には白い錠剤が詰まっている。


「う、運転手さん……? 何を……」


運転手は気味の悪いひきつった笑みを浮かべた。


「ははは……。最近ストレスで寝つきが悪くてね。人をひき殺してしまってこんなにストレスが溜まっちゃうと、一ビン丸ごと飲まないと効かないよね」


運転手は小瓶の中身を口に一気に流し込んだ。するとすぐに口から泡を吹いて地面に倒れこんでしまった。


「ちょ……ちょっと! 何やってるんですか!」


俺は運転手に駆け寄って飲み込んだ錠剤を吐かせようとその背中をバンバンと叩いた。だが吐き出す気配は全くない。


スマホから誰かの声が聞こえる。消防署に繋がったようだ。


「もしもし?! 今すぐ来てください!」


救急車が到着した時には既にバスの運転手は亡くなっていたようだった。ちなみにバスに轢かれた人は即死だ。


遺体を調べ終わった救急隊員の一人が俺に近づいてきた。


「救急車を呼んだのはアンタか?」


「はい、そうですが」


はぁ……1万円を取られるのか。今月の家計もまた厳しくなるな。


「それじゃ39000円持ってる?」


「え……救急車1回呼んで1万円ですよね?」


「1人あたり1万円だ。運転手とそこの轢かれた奴、そして通報者のアンタの3人で3万円。消費税30%で39000円だ。オーケー?」



―――



俺は歩きで何とか自宅のボロアパートに帰ってくることができた。


部屋に入ってバッグを机の横に置くと、その脇にあるベッドに体を投げ出した。


今日は本当に疲れた。給料は30%カットされるわ、救急隊員にぼったくられるわと、ツイてないことだらけの散々な一日だった。


顔を横に向けると近くの棚に飾ってある2冊の赤色の本が目に入った。御朱印帳だ。俺の両親の形見の品でもある。


両親は7年前に亡くなってしまった。寿命で死んだわけではないが、今になって考えると日本が破綻するところを見ずに逝けてかえって良かったんじゃないかと思う。


ベッドから体を起こして2冊の御朱印帳を手に取った。中を開いて見てみると、旅行好きの両親が日本各地の神社から集めた朱印が全ページにわたって押されていた。


旅行か。もうそんなことをする余裕なんて無くなってしまったな。どこか別のところへ行きたい……。


両親が生きていたころを思い出すと切なくなってくる。


物思いにふけっていたところ、御朱印帳を持つ手がつい緩む。


「おっとっと……」


御朱印帳をどちらも床に落としてしまった。


「しまったな。父さん母さんの大事な形見なのに……」


床に落ちた御朱印帳に手を伸ばした。


とその時、不思議なことが起こった。


御朱印帳が勝手に開いて、床の上でパタパタと広がっていく。


「な、何だこれは!?」


弧を描いて広がっていく二冊の御朱印帳。最終的には二冊の端と端が合わさり、巨大な円形状となった。そしてその真ん中に、ぼぅっ、と青白い光が発生した。


「もしかして心霊現象か……? 御朱印帳を落としたから罰が当たったとか」


恐る恐る光の中に手を伸ばす。ひゅうんっ!という吸い込まれる感覚に襲われたかと思うと、そのまま中に落ちていってしまった。



―――



気がつくとそこは森だった。俺は青い空と緑の大樹に囲まれていた。


「いったいどこだ……ここは……」


さっきまで自宅のボロアパートにいたのに、なぜ今俺はこんな大自然の森の中にいるんだ? 皆目見当がつかない。


俺はポケットに手を伸ばした。こんな時に頼りになるのはスマホのGPS機能だ。


GPSなら地球上のどこにいても自分の位置がわかる。


さっそくGPSアプリを立ち上げてっと……んんっ!? おかしいぞ?!


GPSアプリにはGPS衛星が一つも表示されていなかった。


バカな! 地球上ならどこででもGPS衛星の電波は捕まえられるはずだ。それこそサハラ砂漠や南極大陸のど真ん中でも。


ということは……ここは地球じゃない? ということは……異世界?!


心配になった俺は後ろを振り返った。御朱印帳でできたゲートは青白い光を放っていた。飛び込んでみると元いた自分の部屋に出た。


良かった。行き来は簡単にできるようだ。しかしこれは……御朱印帳の力なのだろうか?


御朱印帳は寺院や神社に参拝したときに、参拝した印としてもらう朱印を集めたものだ。霊験が備わっていても不思議ではない。


もしかしたら天国の両親が俺にチャンスを与えるためにこんなことをしているのかも……。


日本が破綻して給料が30%減らされて……俺にはこの先日本で生きていくビジョンが見えない。となれば新天地に赴いて新しい生活を始めたくもなってくる。


だが軽率な行動は身を亡ぼす。自分の生活が確保できる当てがないまま日本での生活を投げ捨てれば自滅するだけだ。


まずは異世界で暮らしていけるかどうかを調査しなくては。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る