第39話 愛しの愛し姫

 ゴオオオオォォォォ――


 泥と水苔の臭いを漂わせた宇治川が唸る。

 雪解け水が混ざった川はドライアイスのような冷気を纏い、そして絶叫スライダーのような速さで流れていく。

 奏和ちゃんの左手を握る僕の両手は、そんな宇治川に浸かりかじかんでいた。

 奥歯もさっきからカチカチ音を鳴らしたまま止まらない。

 体力の限界をとおに超えているかも知れない。

 だけど……だけど、この手は絶対離すもんか!



「離して!この手を離して!奏和を死なせて!」


「死んでどうするんだ?!怨霊に成って何が嬉しい?!生きて幸せに成るんだ!僕達と一緒に、今までのようにボカロ活動を楽しもう!!」


「奏和には、もう人として幸せに成る権利は無いわ。そして人の幸せを見てても憎しみしか湧かない。生きてても仕方ないわ」


「だったら君に『ツナキチが居るから自分は幸せだ』と、言わせてやる。君が幸せに成る権利は僕が作る。それに僕の幸せも君が居ないと成立しない!」


「ツナキチ……」


「奏和ちゃん……死んだ君のお父さんが言っていた。人を呪えば自分に呪いは返って来るって……だったら逆に人に笑顔を与えたら自分も笑顔になるし、人に幸せを齎したら自分も幸せに成れるはずだ」


 ♪.¸¸♬しあ♪.¸¸♬わせ♪.¸¸♪.¸¸♪♪なれる♪.¸¸♪♫はずさー――


「奏和も……奏和も本当は人を喜ばせたかったのよ。皆と仲良く笑っていたかったのに……それなのに誰も……」


「そうだ!君は元々そういう優しい人なんだ!僕は分かっている!」


 ♫.¸¸♪僕は♪.¸¸♬わかって♪.¸¸♬いる♪.¸¸♪だれ♪.¸¸♪より――


 彼女の顔を覆っていた赤い絵の具は涙で流され、すっかり素顔に戻っていた。

 何時もの見慣れた可愛らしい素顔に……。


「一緒に歌を創ろう。君と同じような心の傷を持った人は世界中に沢山居る。僕達はそんな人達が笑顔に成る音の言霊をネットで拡散するんだ。僕が曲を作り、君がイラストを描き、ミオンが歌う。ネットで……ボカロ動画で幸せの呪文を世界に届けよう。今度は僕達が夢を繋ぐ架け橋になる!それが僕達の償いだ!」


 ♪.¸¸♬ゆめを♪.¸¸♬つなぐ♫.¸¸♬かけはし♪.¸¸♪.¸¸♪なる――


「ツナキチ!もう、奏和は……奏和は既に鬼なのよ!見たでしょ?簡単に人を殺せるの!人を切り裂いても笑ってられる鬼よ!手遅れ。これはもう手遅れだわ!奏和は既に復讐と呪いの鬼!ハシヒメなのよ!!」


「違う!君は僕があいするいとしのし姫だ!!例え君が憑依が解けず、この先宇治の橋姫と一体化しても、僕は変わらずにずっと愛する!橋姫も本来はあいすべき人、いとしのし姫だったんだからッ!」


 そうだ。誰が何と言おうと僕は君を守り続け、愛し続ける。

 一緒に夢と未来を創るんだ。


「これから先、僕と君は一蓮托生だ!君は僕が一生愛すべき人なんだから」


 ♫.¸¸♪愛す♪.¸¸♪べき♪.¸¸♪ひと♪.¸¸♪♪なんだ♪.――


「一生?……それは一生なの?……」


「そうだよ。あの日……中庭のベンチで君に初めて声を掛けたときから、僕は君の事をずっと……」


「私も……それは私も……」


 ――急に視界が水に遮られた。

 体全体が宙に浮く。

 まるでリフトに乗った時のような下から持ち上げられる感覚。

 水だ!

 大量の水が僕を持ち上げたんだ。

 そのまま下から上がってきた水は、僕を元の紫式部像の近くまで運んでくれた。

 僕の腰を掴んでいたチャリオと、僕が両手でしっかり掴んでいた奏和ちゃんと共に――


「えっ?」


 ち、違う……か、奏和ちゃんは?

 僕は両手でしっかり彼女の左手を掴んでいた。

 奏和ちゃんの左手はちゃんと掴んでいた。

 だけど……だけど……いない。

 奏和ちゃんが目の前にいない?

 僕の両手には、躊躇ためらい傷が付いた奏和ちゃんの左手首しか無い……。


「かなわちゃぁぁぁああああんーーー!!」


 宇治川の方を見ると、崩壊した宇治橋の破片と共に奏和ちゃんが下流に流れている。

 彼女は憂いに満ちながらも、満足そうな笑顔を僕に向けていた。

 その口元は「ありがとう」と、伝えている。

 聞こえなくとも聞こえた。

 そして彼女は濁流の中に消えて行く。


「ば、馬鹿な……な、なんで?なんでなんだ?!なんで何だよッ!!奏和ちゃぁぁぁあああああん!!」


「あのボケ……お前の負担に成りたくなくて手を切ったんや……」


「そ、そんな……」


 僕は……僕は又間違った行動をしてしまったのか……。


「アンタは間違ってへん。カナちゃんは鬼の心が解けたからこそ責任を感じたんや」


「コヨリさん……」


「待っててくれ、少年!我らが必ずあの少女を助けだす!!」


 石英さん達がそう言って川沿いを下り去って行く。

 けど……けど、間に合うわけが……。


「大丈夫や。ミオンさんが放っとくわけない。必ず助けてくれる」


「そうや。助けてくれるわ。それまでその左手は預かっとこ。カナちゃん取りに来たら、うちが括り付けてあげるしな」


 ミオン……そうだ!ミオンがいる!

 いつの間にか天上の声は消えていた。

 雲は、まるで奏和ちゃんを追いかけるように急速に流れて行く。

 頼みます……奏和ちゃんを……どうか……。


「石英さん達も向かったし、下流には警察が待機している。大丈夫だ。瀬尾は助かる!」


「先生……すいませんでした……」


「何がだ?」


「僕が……僕がもっと早く先生達に相談してれば……」


「悪いのはお前じゃないだろ。瀬尾や比企野ひきの藍沙あいさでもない。悪いのは、ちゃんとしてやれなかった俺達大人だ」


 *¨*•.¸¸♪.•*¨*•.¸¸♬ *¨*•.¸¸♪.•*¨*•.¸¸♬  


 遠くでミオンの声が聞こえた。

 それはさっきの歌声が、イヤーワームとして残ってただけなのかも知れない。

 それとも何かを知らせてくれたのか……。


 奏和ちゃんの流れて行った方角の空を見上げると、そこに線譜のような七色の橋が太陽によって架けられていた。


 *¨*•.¸¸♪.•*¨*•.¸¸♬ *¨*•.¸¸♪.•*¨*•.¸¸♬  

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