第44話

 その日の夜。夕食を終えてそろそろ就寝の準備に皆が取り掛かろうとしていた頃。

 寝間着に着替えようとしていた美颯と伊吹の元へ、ノックもなしに部屋の扉がガチャっと音を立てて開かれた。


 そこへ入って来たのは、あろうことか煌輝だった。

 美颯達姉妹は下着しか身に着けておらず、赤面しながら短い悲鳴を上げたのだが、


「やっぱり俺の力で強制的に遺伝子を組み替えるべきか……いやそれじゃ研究にならないな。まずは遠心分離機にかけて――」


 煌輝の視線は余すことなく本に注がれており、悲鳴はおろか美颯達姉妹の存在すらも認識できていないといった様子だった。


「ああ、くそ……学生の身じゃまともなこともできないな。これ、いくら掛かるんだ……?」


 独り言をぶつぶつと呟きながら、煌輝は未だに気付かぬまま本棚に並べられた資料に目を通していく。


 集中力が凄いのか、はたまた注意力が散漫なのか、どちらなのかわからないが二人の存在に一向に気づく気配がない。


 その横顔は相変わらずの眉目秀麗さだったが、そのまま部屋から出て行きそうな勢いだったので、美颯も思わず彼を止めてしまう。


「ちょ、ちょっと煌輝くんっ!?」

「……ん? なんだ大神――」


 ここに来てようやく目が合った煌輝は二人の下着姿と柔肌を目にして硬直。次の瞬間には慌てるようにして後ずさるが、自分で閉めた扉に後頭部を強打して床をのたうち回る。

 

「ななななな、なんで服を着ていないんだお前ら!」

「着替え途中に入って来たのは煌輝くんの方だよ!」


 そこでようやく思い出したのだろう、昨日から二人に自分の部屋を明け渡したということを。

 待てと言わんばかりに片手を突き出した煌輝は、玉の汗のをかきながら言い訳を始める。

 

「ち、違うんだ大神……! 俺は別にお前の裸なんかを見たくてここへ来たわけじゃないんだ! 存在を忘れてただけだから!」


 彼なりに必死に弁解したつもりなのだろうが、それは失言だった。

 ましてや想い人に言われたのだから火に油を注いだようなものだ。


「私の裸なんか……? 存在を忘れていた……ですって?」 

「ち、ちが……! 興味がわかないとか、そういう意味であって――!」


 一歩遅れて失言に気が付いた煌輝が顔を青ざめさせて弁解するが、弁解すればするほど状況は悪化していくばかりだった。

 

「琴音みたいに胸が大きくなくて悪かったわね!」

「な、なんのこと――」


 発せられた言葉は美颯の手のひらが頬に直撃したことによって見事に途切れる――。


 大きな音を聞きつけた絢芽の登場によってどうにかその場は治まったが、場所をリビングへと移した煌輝の頬には、手のひらがくっきりと浮かんでいた。


「お兄さん、大丈夫ですか……? お姉ちゃんが乱暴なことしてすみません」

「いや、あれは俺の不注意だから。こっちこそごめんな」


 あの場には伊吹も居たのだが、怒る素振りはおろか甲斐甲斐しく氷の入った袋を煌輝に差し出しているところだった。


 普段ならさすが我が妹と鼻高々にしたいところなのだが、今回は状況が違う。それは煌輝の姉である絢芽も同意見だったようで、


「煌輝さんはデリカシーというものが無さ過ぎます。女の子は大切に扱わなくてはダメですよ。それこそ花のように大事にしなくてはならないんです」

「人間と花じゃ勝手が違うだろ……」

「そんなことありませんよ。花がその日のその時の天候で微妙な変化を生むように、女の子もその日その時の気分で様々な感情を秘めているんです」

「そう言われてもな……」


 痛そうに頬を撫でながら煌輝は難しい顔をした。

 そんな時だった――。


「はぁー疲れたぁー! 絢芽ー? 何かご飯作ってー」


 家の玄関先から何やら聞き覚えのある声が聞こえてきた。

 それにいち早く反応した煌輝の表情が凍りつくのを、美颯は見てしまう。


「絢芽ー? 煌輝ー? 居るんでしょー、開けなさいよー」

「あれ? この声って……上杉先生だよね?」


 聴覚に優れた美颯はこの声の主が確かに担任の上杉紫のものだと確信する。

 

「そ、そんなわけないだろ。な、何で紫さんがここに来る必要があるんだ」

「……紫さん?」

「あ……えっと……今のは言葉の綾でだな」


 明らかに狼狽えている煌輝に美颯は訝しむ。


「さっきから何か怪しいんだけど」

「怪しい? 俺が? ハハ、一体何が――」

「煌輝ー、そこに居るんでしょー? 開けなさいよー」

「――怪しいっていうんだ」 


 その時には既に表情は真顔になっており、ソファから素早く立ち上がった煌輝は大慌てで廊下へ出ていってしまう。

 

「そ、その……今、取り込み中でして! できれば日を改めて、むしろ来世でお会いできればと思いますので……!」

「何よー? 常日頃から面倒見てあげてるあたしに向かってその態度は。もういいわ。自分で空けるから!」


 あける、の意味合いがどうも拳銃を彷彿とさせて物騒だったが、それよりも“常日頃”という言葉が気になった美颯は追うようにして廊下へ出てみると、ちょうど煌輝が玄関を開ける瞬間だった。


「待ってください! ドアを壊すのだけはやめ――」


 煌輝が慌てて扉を開けて出ていった途端、物凄い速さの蹴りが煌輝の腹部に炸裂し、そのまま廊下の最奥まで激しく吹っ飛んだ。


「……あら? 何してんのよ煌輝。いきなり扉開けるなんて危ないじゃない。気をつけなさいよ」

「そ、それは……こっちの、セリフ……」


 今にも息絶えそうな煌輝を心配する半面、やはり声の主が紫だったことに驚きを隠せないのは美颯だった。


「上杉先生がどうして煌輝くんの家に……?」

「あ、え? 美颯……!? あなたどうしてこんなところに居るのよ?」


 こんなところとは随分な言い方だが、訊きたいのはこちらも同じだった。

 しかし相手は担任教師な上、煌輝が最も恐れていると噂の上杉紫ということもあって、こちらが先に言うしかなかった。


「ちょっと家庭的な事情がありまして……その……家出中みたいなものです……」

「それは別にそっちの都合なんだから別にいいけど、どうして煌輝の家なのよ? それも姉妹揃って」


 担任としてその発言はいかがなものかと美颯は一瞬眉を寄せるが、理解のある人物なんだと無理矢理に解釈する。

 

「最初は琴音に連絡したんですけど、家がそういうのに厳しいみたいで……」

「なるほどねー。それで煌輝の家ってわけね」


 咎める気はサラサラないらしく、紫は「とりあえず家入るわよ」と言って、まるで自分の家のような足取りでリビングへと入り冷蔵庫の中をあさり始める。


 それを見ていた絢芽は「またですか」といった感じにため息混じりに紫の背に声をかける。

 

「紫さん、冷蔵庫の中をあさるのはやめてくださいと、いつも言ってるじゃないですか」

「いいじゃない別にー。ていうか絢芽、なんで缶ビール買ってないのよー?」

「未成年のわたしには買えませんよ」

「記憶いじれるんだから、チャチャッと買えるでしょー? 何のための能力よ」


 そういう問題ではないはずなのだが――あまりに雰囲気に溶け込むのが早いので、美颯もツッコミどころを見失っていた。


「つまみもないのー?」

「おつまみならわたしが作るので、紫さんはとりあえず大人しくしていてください」


 絢芽にピシッと窘められた紫は、拗ねた子供のように口を尖らせソファにどかっと座る。


 タイトスカートで足を組むものだから、中が見えてしまいそうになり思わず煌輝の視線を気にする美颯だったが、全く興味を見せる気配もなくそれは杞憂に終わる。


 それどころか煌輝は頬と今さっき蹴られたばかりのお腹をさすりながら、少し離れて紫の隣に平然と座るではないか。


「あ、あの……上杉先生は、煌輝くんの家に通い慣れてるんですか……?」

「そうだけど、あまり他の人に言うんじゃないわよー? 変な噂が立ったら絢芽の仕事が増えるだけなんだから」

「そういう問題なんですか……? というか、さっき煌輝くんが上杉先生のことを『紫さん』って名前で呼んでましたけど、これって一体どういうことなんですか?」

 


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