第42話
***
煌輝と伊吹の元に行くと、二人はどうやら採ったばかりの野菜を冷水にかけている最中のようだった。
「大神か。良いところに来たな」
「おはようお姉ちゃん。絢芽お姉さんも、おはようございます」
一仕事を終えたといった感じに爽やかな汗をかく煌輝と、普段は見られないような微笑ましい笑顔を振りまく伊吹が二人を出迎えた。
「おはようイブ。庭で何をしてたの?」
「お兄さんがトマトを収穫するそうなので、そのお手伝いをしてたの」
「そ、そうなんだ。トマト、ね……」
冷水に浸されたザルの底には握り拳ほどの大きさのトマトがいくつか沈んでいた。それを見て、美颯は半ば反射的に苦い表情を作る。
実のところ美颯はトマトが大の苦手だった。独特な食感もそうだが、ほんのりとした酸味にどうも体が受け付けないのだ。
そんな表情を読み取ったのか、煌輝が訝しげに尋ねてくる。
「大神、もしかしてトマトが食べられないのか?」
あまりに直球的過ぎる質問に美颯は表情を強張らせた。
「た、食べられないってわけじゃないんだけど……その、ちょっと苦手というか……」
「そうか。苦手なだけか。ならこれを一つ食べてみてくれ。きっと大神でも食べられると思うぞ」
キンキンに冷えたトマトを冷水に浸されたザルからすくい上げると、煌輝は自信満々な顔でそれを美颯に差し出した。
「あの、えと……その……」
まるで伊吹のような怯え方をしながら美颯はたまらず一歩足を退かせるが、直ぐ後ろに立っていた絢芽に背中がぶつかった。
「美颯さん? どこへ行くおつもりですか?」
「お姉ちゃん、好き嫌いはダメ、だよ?」
これ以上は逃さないといった雰囲気を醸し出す絢芽と、純真無垢な笑顔で諭してくる伊吹を前に、美颯は自身が窮地に立たされていることをようやく自覚する。
前門の虎、後門の狼。
いや――自身も半分は狼だし前門の伊吹も狼なのだが、今はそんなことを考えている場合ではないのだ。
「ダ、ダメ……! トマトだけは昔からダメなの! それに煌輝くんが作ったトマトなんて安全性に問題があるんじゃないの!?」
何か今、とても失礼なことを言った気がするが、頭はもうそれ以上回らなかったのでどうしようもなかった。
「このトマトは市販されているものなので、安全性もそうですが味も私が保証しますよ」
「そ、そんなこと言われても、食べられない物は食べられないんですっ……!」
「まあ、無理にとは言わないさ。トマトは好き嫌いがはっきり分かれるからな。野菜か果物かで揉めるくらいだし」
残念そうな表情を見せる煌輝に凄まじい罪悪感を覚える美颯だが、苦手なものは苦手なので情けなくも妹に目で助けを求める。
「そ、それじゃあ……私が食べても、いいですか……?」
「君は食べられるのか?」
「トマト、大好きです……! いつもトマトを残すお姉ちゃんから、もらっていたくらいなので」
「ちょっとイブ!? 余計なことは言わないでよ!?」
トマトをいつも横流ししていた過去を暴露された美颯が羞恥で顔を赤くさせる中、伊吹は嬉しそうにトマトを受け取っていた。
「い、いただきます……!」
小さな口でカプリと齧りつくと、瑞々しい音が聞こえてくる。
そんな伊吹に劇的な変化が起きたのはその直後だった。
「――!?」
伊月の頭にぴょこん! と狼の耳が飛び出した。かと思えば、目を丸くさせたままトマトを凝視して固まっている。
「イ、イブ……大丈夫? やっぱり美味しくなかったんでしょ……?」
慌ててハンカチを差し出した美颯だったが、伊吹はふるふると首を横に振った。
そしてもう一度、小さな口で二口目に齧りつく。さらに三口目と瑞々しい音が辺りを奏でる。
「これ……本当にトマトなんですか……!?」
「ああ。定義的にはトマトで間違いないぞ」
信じられないと言った様子で訊く伊吹の手にもうトマトはない。あっという間に食べきってしまったのだ。
「煌輝さんの作ったトマトは凄いでしょう?」
ニコニコと笑みを浮かべる絢芽に、伊吹もコクコクと頷く。
「とても美味しいです……! お、お姉ちゃん! これ、凄く甘いの……! トマトの甘さじゃないから、お姉ちゃんでも食べられる、と思う……!』
トマトが甘いという表現は別に珍しくはないが、伊吹がこれだけの熱のこもった評価をするのも珍しいなと美颯は思った。
だが、
「も、もうその手には乗らないわよ!? 毎回そう言ってイブは私に酸っぱいトマトを食べさせてきたじゃない! 今度こそ引っかからないんだからね!?」
「ほ、本当なのお姉ちゃん……! お兄さんのトマトは、果物なの!」
「トマトは野菜だって言ってるでしょ!」
「そ、そういうことじゃなくて……本当に、果物みたいに甘いの……! 信じてお姉ちゃん……!」
さっきまで輝いていた伊吹の目が段々とうるうるし始めてきて美颯は焦る。
「ちょ、イブ!? 泣かないで!?」
「だって……お姉ちゃんが、信じてくれないんだもん……」
溺愛している妹が今、泣きそうになっている。しかも自分の食べ物の好き嫌いのせいで。
――こうなったらもう食べるしかない。美颯は腹をくくった。
何せ普段あれだけ良き姉として敬愛してくれる妹が、涙ながらに訴えてくるのだから。ここで泣かせてしまえば姉としての立つ瀬がない。
おもむろに袖をまくった美颯は、冷水に腕を突っ込みザルからトマトを一個すくい上げる。
「お姉ちゃん……!?」
ずしりとした手応えに思わず息を呑むが、こうなればもう自棄だと美颯は何の前置きもなくトマトに齧りつく。
苦手としていた食感は果肉の締まりがいいのか歯ごたえが良く、中身もドロドロとした印象はなく水のように滑らかだった。
口の中で弾けたのは圧倒的な甘みで、何度咀嚼しようとも酸味をほとんど感じさせない。飲み込んだ際にトマト特有の酸味を含んだ香りがほんのりと鼻を抜けるが、そこに不快感はなかった。
「嘘……美味しい……」
風味こそトマトのそれだが、伊吹も言っていたようにこれがトマトだという実感が全く湧かず、美颯が知っているものとも大きく異なっていた。
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